第2話 獣人の宿
『どうしてこんなことに?』
浮舟の眠気は吹き飛び、恐怖と疑問で一杯だった。
若様は左手で浮舟の風呂敷を持ち、右手で浮舟の手を握って歩いていく。
「もうすぐ執事が迎えに来るだろうから、大通りまで歩くぞ。」
若様は笑顔で告げる。 その声は昨晩と同様に優しい。浮舟は堪らず尋ねた。
「どうしてあんな大金を?」
自分に30万円の価値などないのに・・・
「昨日、取引を終えたところだったからな。銀行に行かずにすんだ。」
若様はあっけらかんと答えるが、そうじゃないと浮舟は思う。
なぜ大金をどぶに捨てたのだろうか?
「ああ、そうだ。さすがに遊女を買ったと言うと使用人たちがうるさいからな。この町の薬屋で働いていたところを連れて帰ったことにする。」
浮舟の疑問を他所に、若様は笑いながら命じる。
「は、はい。」
浮舟はそう答えるしかない。
逆らえば首を絞められて殺されるかもしれない。
「あの・・・浮舟はよくある源氏名ですので、芙蓉と呼んでください。」
「ふよう?」
「真名です。お気に召さなければ、新しい名前をお付けください。」
「いや、芙蓉と呼ぶよ。浮舟よりもいいな。」
「俺の名前は・・・」
若様が言いかけた時だった。
「若様!」
男の声が響く。
「ひ!」
芙蓉は声の主を見て震えあがった。
ヒョウの獣人が近づいてくる。
なぜ獣人が町にいるの?
芙蓉は愕然とした。
この世界には、人間と動物のほかに獣人がいる。獣人は人間より知能が低いが、人間の数倍から数十倍の体力があり、獣人の中には人間を捕食する種もいる。
そのため、人間の住む町は獣人が入ってこれないよう塀で囲い、門には護衛が置かれている。
ただし獣人相手に取引をする人間の商人もいるので、大都市には獣人と取引するための専用エリアを設けている。
しかし、遊郭があるのは専用エリアの真反対だったはずだ。
獣人が入れるわけがない。
芙蓉はパニックになっていた。
故郷から遠く離れたこの町に連れてこられ、遊郭から出ることができなかった芙蓉は知らなかった。
この町は獣人の町と隣り合っており、遊郭がある下層エリアと獣人の町の境界に塀はなく警備も手薄であることを・・・
もっとも、ヒョウの獣人は人間の町に侵入してきたわけではない。
芙蓉たちが境界を越えて獣人の町に入ってしまっていた。
いや、入ったのだ。
「疾風、よくここがわかったな。」
若様は動じる様子もなく、ヒョウの獣人に話しかける。
「探しましたよ。そちらのお嬢様は?」
ヒョウの獣人、疾風の金色の瞳が芙蓉を見る。
2メートルを優に超える獣人が目の前に立っていた。
「人族の芙蓉だ。連れて帰ることにした。」
「また人族の町で夜遊びですか?ばれたらどうするのです・・・」
疾風は顔をしかめて若様を見る。
じんぞく
獣人は人間をこう呼ぶ。
獣人にとっては人間も数多くいる獣人の一種族に過ぎないらしい。
冗談ではない。
人間と人外は別物だと芙蓉は物心ついた時から教えられてきた。
『嘘!?若様は人じゃないの?』
芙蓉は真っ青な顔で男の顔を見る。
どう見ても人間にしか見えない。
身体も人間の男と全く同じだった。
「かなりおびえていますが、まさかさらってきたのですか?」
疾風は眉間にしわを寄せて尋ねる。
「馬鹿いうな。かわいそうに。働いてた薬屋でひどい扱いを受けていてな。でもちゃんと店主と話をつけてから連れてきた。」
若様はにやりと笑う。
「ああ、それで血の匂いが。こんなに小さな身体に酷いことを。苦労されてきたのですね。」
疾風の眉がさがり、同情するような表情になるが、違う。
確かに遊郭での嫌がらせは日常茶飯事だったが、今日の血は若様のせいだ。
昨晩から合計4回も相手をさせられれば出血のひとつもする。
「はじめまして。若様の執事をしております、ヒョウ族の疾風と申します。」
疾風は丁寧なお辞儀をする。
「は、はい。」
つられて芙蓉も頭をさげる。
「車はすぐそこです。宿の者も心配しておりましたよ。」
疾風は若様を案内する。
「ああ。おいで芙蓉。」
若様に手をつかまれたままの芙蓉はついていくしかない。
10分ほど馬車に揺られ、大きな旅館に着いた。
出迎えた女将は着物姿の牛の獣人だった。
人間の宿に獣人はいない。ここは獣人が泊まる宿だ。
芙蓉は絶望した。
「若様!お帰りなさいませ。」
女将は深々と頭をさげて出迎える。
「ああ。人族の娘の風呂と着替えを用意してくれ。」
若様が靴を脱ぎながら女将に命じる。
「かしこまりました。」
そう返事したものの、女将は困った。
人族の着替えなどあるはずもない。
が、この町一番の高級宿の面子にかけて客の要望には全て答えなければならない。
なにより枇杷亭の若様の機嫌を損ねるわけにはいかない。
「お嬢様。どうぞこちらへ。湯殿にご案内します。」
とりあえず小型の獣人用の風呂に案内しよう。
その間に着物を何とか探すしかない。
女将は頭をフル回転させながら、人族の娘を湯殿に連れて行った。
芙蓉が案内された湯殿は浴槽がやや深いが、人間の風呂と同じ作りだった。
浴槽のお湯はきれいで、毛は浮いていない。
芙蓉は手桶で湯を掬い、髪と身体を洗う。
ぬるめだが、遊郭の残り湯よりは温かい。
洗い終わると浴槽の湯に肩までつかった。
疲労と眠気が押し寄せてきた。
逃げるすべはなく、帰る場所もない。
若様におとなしく従っていればすぐには殺されないかもしれない。
芙蓉はそう思うしかなかった。
芙蓉が風呂からあがると、脱衣所でハリネズミの仲居?が待っていた。
「お嬢様。申し訳ございません。人族のお召し物はご用意がなく。こちらの着物はいかがでしょうか?もちろん新品でございます。」
芙蓉は差し出された着物一式を広げて見る。
形は人間の着物と同じものだが、一点だけ違う。
「あの、恐れ入りますが、この穴をふさいでいただけないでしょうか?」
芙蓉は恐る恐るそう言ってお尻の部分にある尻尾用の穴を指差した。
「はい。ただいま。」
ハリネズミの仲居は着物の裾を切って、その布で穴をふさいでいく。
すごい早業だ。
芙蓉が着替えを済ませて髪を乾かしていると、先ほどの牛の女将が芙蓉の荷物が入った風呂敷を持ってきた。
芙蓉は風呂敷から白粉と紅を取り出し化粧をした。ひどい顔だ。
空腹、寝不足、恐怖、戸惑い・・・人生で一番ひどい顔をしている。
なぜ若様はこんな芙蓉を大枚をはたいて買ったのだろうか?
「若様がお待ちです。」
芙蓉の支度が済むと、女将は風呂敷を持って、芙蓉を一番奥の客室に案内した。
そこは遊郭の食堂よりも広く、豪華な客室だった。
大きな窓からは美しい中庭が見える。
窓の側のテーブルで若様は食事をしていた。
若様も風呂に入って着替えていた。
髪が黒から濃い紫色に変わっている。
こんな髪色の人間を芙蓉は見たことがなかった。
若様に手招きされ、芙蓉はテーブルの向かいに座った。
「人族用の食事はないらしいが、これなら食べられるか?」
若様の質問と同時に牛の女将が盆を芙蓉の前に持ってきた。
おにぎり、わかめの味噌汁、塩をふった焼き魚、お茶にデザートの柿までのっている。
「品数がすくなく申し訳ございません。」
女将は深々と頭を下げるが、
「とんでもないです。十分すぎるほどです。」
芙蓉は慌てて返事をした。
遊郭の食事は雑穀粥と漬物だった。
白米のおにぎりなんて人生ではじめて見た。
「いただきます。」
ほぼ一日ぶりの食事だった芙蓉は食べることにした。
おにぎりの具はないが、味噌汁と焼き魚の塩気でちょうどいい。
「若様。焼きたてでございます。」
女将が新しいお皿を若様の前に置く。
「お嬢様もいかがですか?」
もう一つのお皿を芙蓉の方に運んできたが、芙蓉は見るなり両手で口を覆った。
皿にのっていたのはカエルの丸焼きだった。
トノサマガエルに似ているが、独特の模様には見覚えがある。
山に棲む毒ガエルだ。
人間が食べたら死んでしまう。 いや、無毒でも芙蓉はカエルは食べない。
芙蓉は真っ青になって、首を横に振る。
「カエルはお嫌いでしたか?」
女将は不思議そうにしている。
「下げてやれ。人族は食べないようだ。」
若様が笑いながら告げると、女将はすぐにお皿をさげた。
芙蓉はほっとして若様の方を見たのだが、若様は箸でカエルをつまんで食べようとしている。
芙蓉は思わず顔を伏せた。
最悪だ。
やはり人間じゃなかった。
何の獣人なのかは分からないが芙蓉は交わってしまった。
人間の法律では獣人との交配は死刑だ。
知らなかった、逃げられなかったという言い訳は通用しない。
かつて獣人に攫われ犯されたことを理由に処刑された少女がいたらしい。
人外に辱められるくらいなら自ら命を絶て、人としての尊厳を守るのだ!
学校の教師はそう力説していた。
獣人にとって異種交配は珍しいことではないらしいが、人間にとっては人間以外と番うなど考えられない。
芙蓉は嫌悪感に襲われ・・・
はしなかった。
なにせ人間の男とのそれと何一つ違いはなかったのだ。
むしろ行為中、一度も怒鳴られることも殴られることもなく、芙蓉を気遣ってくれた。
皮肉なことに一番人間らしく扱ってくれたのが若様だった。
外見のことも大きい。
牙も爪もない。獣の耳も体毛も尻尾もない。獣人らしくないどころかやはり人間にしか見えない。
それもかなりのイケメンだ。
『もしかして人間と獣人のハーフとか?』
有り得ない。
人間は人間以外とは子を成せないのだ。
「もう食べないのか?」
若様の声で芙蓉は我に返る。
「はい。もうお腹いっぱいです。」
毒ガエルの丸焼きを見て食欲が失せてしまった。
「では行こうか。日が出ているうちに屋敷に戻りたい。」
そう言って若様は席を立つと部屋の扉に向かう。
芙蓉は後をついていくしかなかった。
宿を出て、再び馬車に乗った。
馬車と言っても、馬はいない。
馬の代わりに角と羽が生えた深紅の生き物がつながれている。
小学校の絵本で見たユニコーンの姿によく似ているが、まさか実在するとは思わなかった。
「寝ても構わないぞ。」
肩に手がまわされ芙蓉は抱き寄せられた。
ヒョウの獣人は御者台におり、馬車の中では若様と2人きりだ。
触れている体温が心地よく、芙蓉の瞼は重くなっていく。
極度の疲労と緊張で芙蓉の心身は限界だった。
芙蓉は気絶するように眠ってしまった。
一角獣の馬車は地面を離れて、空を飛んだ。
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