第8話 雷神
結局その後、空と乾が戻ってくることは無かった。だらだらと喫茶店で真琴と駄弁ってから、午後四時頃、莉桜は帰途につく。今日の学習時間中に出た課題をまだ終えていない。急いで家に帰らなくては。
しかし、ざわざわとした胸騒ぎがまだ続いていた。その原因は恐らく先程の「声」にある。
はっきり「シンギュラリティ」とその声は言った。軽く端末で検索を掛けた所によると、その言葉は「特異点」を意味する。技術の急激な進歩により生まれる科学のひずみを意味するワードだ。
だとすると、あの声の正体は…。
「狛坂莉桜だな」
聞き覚えのある声がして、莉桜ははっとして周囲を見回した。
右前方のテナントビルの影から、ゆらゆらと体を揺らしながら、男がこちらに向かって歩いてくるところであった。
「あ…上澤君…だっけ」
「覚えてくれてたかよ。
「琢磨君…何か用?」
「オイオイ、しらばっくれてんのかホントに気付いてねえのか」
ブレスレットが幾つもハマった右手でとんとんと自分の額を叩くと、上澤は剣呑な目つきで莉桜をねめつけた。
「まあオイ、どっちでも良いよなあ。俺は乾を取り戻してえだけなんだからな、オイ」
その体にナノマシン粒子がまとわりつき、派手なアバターを形成していく。
「俺は丁寧とか順序とかいうのが苦手だ。力づくで行くぜ」
「なんでこうなるかな…」
そう言いながらも莉桜もアバターをロードする。二体の神器は街中で対峙してにらみ合った。
『GAME START!!』
「…? なに、戦う気あるの?」
開幕と同時に槍を繰り出した莉桜は、防御も回避もする気が無い様子の上澤を見て、びたりと攻撃を辞めた。上澤の表情はカスタムされたアバターのせいで隠れて見えなかったが、しかしどこか泣いているように見えた。
「オイ、お前こそやる気あんのか。攻撃を途中で辞めるなんざ…」
「だって、戦闘意思のない君を倒す気はないよ」
「甘えなオイ…お前なんかと関わりゃあ乾が腑抜けちまうのも無理はねえ」
上澤はぐっと腕を前に突き出した。その腕に電磁波のようなエフェクトがちらつき、徐々に巨大な雷の姿となる。
「後悔すんなよ」
それを、莉桜に向かって打ち出した。
「しないよ」
莉桜は微動だにしない。雷は莉桜の周囲一帯のコンクリートを綺麗に消し飛ばしたが、しかし彼女のアバターには傷一つついていなかった。
「だって君、最初から私を傷付けるつもりないでしょ」
上澤は苦々しそうに舌打ちした。
「お前のような奴がどこまで勝ち上がれるか…楽しみにしてんぞ、オイ」
「期待に応えられるよう頑張るよ」
「…ケッ」
『GAME SET!!』
自ら投了した上澤は、黙ってその場を去って行く。そのさびしげな背中を見送って、莉桜はまた初めての感情を覚えるのだった。
その夜、一つの影が街中を徘徊していた。アグリノーツのアバターを纏った影は、ゆらりゆらりと不規則な動きで歩を進めながら、一心にどこかを目指していく。
やがてそのアバターは、裏路地の奥まった所にある空き地の前で立ち止まった。
『開けろ』
甲高い音がしてそこにAVRルームが出現する。奇妙な歩き方でその扉を潜ると、アバター「スサノオ」はルーム内を歩いていく。
「ん? ああ、そのアバターは莉桜さんっスか」
カウンターに腰かけていた情報屋が、振り返ってけっけっと笑う。
「何か用っスか? ああ、神器を纏ってるってことは対戦の申し込みっスかね」
情報屋、テンジンはメガネの奥の鋭い目を歪ませると、自身も端末を操作してアバターをロードした。
「いやー、莉桜さんに直接勝負を申し込まれるなんて、光栄っスねえ」
でもあっし、最近ポイントがじり貧なんでできれば模擬戦で…。そう言いかけたテンジンの言葉を電子音が打ち消した。
『GAME START!!』
「えっ、ちょっ…なんスか!?」
ポイント移乗アリのランクマッチバトルだ。それに気づいたテンジンが不服を声にした頃には、勝負は決しテンジンのアバターはスサノオに吸収されていた。
「…莉桜さんっ、どうしたんスかっ」
アバターが霧散して行くのを感じながらテンジンが呻く。スサノオはまるで興味がなさそうにそのままぶらぶらとルームを出ようとする。
「おおっとぉ、血の気の多いプレイヤーさんだな」
その行く手を阻むように、店にたむろしていたプレイヤーたちが集まってくる。
「俺達とも遊んでくれや」
「最近暇してたんだよ」
『これが…戦い…殺気…高揚…』
ぶつぶつと独り言を繰り返すスサノオを囲み、プレイヤーたちがアバターを纏った瞬間である。そのアバターたちの心臓部に、綺麗にくりぬいたような穴が開いていた。
『GAME OVER!!』
「な…なん…っ」
『命を吸って高まる…これが喰らうと言う事』
スサノオはそのままゆらゆらとルームを出て行った。
この一件は翌日、ネットニュースの一面を飾る記事となる。しかし、そのどこにも「スサノオ」や「狛坂莉桜」の名前はなく、アグリノーツのプレイヤーたちはよくある神堕ちの凶行と片付けて、また日常に戻って行くのであった。
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