七華の恋(R-15版)

九紫かえで

平成三十一年二月 夕暮れ

 寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 花の夕顔


 放課後の図書室に夕日が差し込んでいる。

 隣にいる少年の顔が赤みがかかって見えるのは単純に夕日のせいだ。光る君の顔を私は知らないけれど、彼の顔は学年やクラスの間での評判を聞く限り、良くもないし悪くもない、なんていうか特徴がないやつだよねという評価らしい。

 ちなみに、男子たちの雨夜の品定めにおける私の評価も中の上だそうだ。まぁ、別になんだっていい。

「なんで古文っていちいち和歌挟むの?」

「そういうものだから」

 理由はなくはないんだけれど、そこの解説で時間は使いたくない。

「えっと、この『め』と同じ意味のものを選べって、はぁ? 別の文を出すな」

「それ、さっきの夕顔の歌の返歌だから。問題見る前に、先におとなしく現代語訳したほうがいいよ」

「えぇ、めんどくさい」

 高校に入学した最初の日に、出席番号順に配置された一年C組の教室でたまたま席が隣だったのがこの田中仁詩ひとし君だった。授業中に隣同士でディスカッションをしたり、小テストの採点で答案を交換をしたり、ということがあったものだから、自然と話ができる間柄になっていた。

 異性と会うために何度も和歌を交わしていた時代と比べると、ずいぶん簡単なものだ。

「じゃぁ、ヒント。倒置法になってて、たそかれに以下から訳した方がやりやすいよ」

「えっと……黄昏にほのぼのとみた花の夕顔」

「ほのぼのも訳す!」

 私の課題は終わっているから今は手持無沙汰だ。なので、頬杖をつきながら、夕日が差し込む黄昏時に、ぼんやりと彼の顔を眺める。


 席替えすれば途切れてしまいそうな関係がここまで続いたのは、最初の中間テストがきっかけだった。

 田中君は英語も数学も生物も地理も百点満点。こんな漫画のような天才はいるのかと思った。

 なのに、国語は現国も古典も平均点割れ。答案用紙をのぞき込んだら、あっているのは漢字と選択問題と一問一答くらいで、答案スペースが大きい問題は堂々の空白。古典はもっと壊滅的で赤点ギリギリだった。

 いや、こんな漫画のような極端な成績の人って、いるのかって思ったよね。ちなみにそのときの古典の学年一位はこの豊橋七華ななかだ。えっへん。


「ぼんやりと、であってる?」

「あってるよ」


 きっとその時の私は気分が大きくなりすぎていたのだろう。じゃぁ、私が国語教えてあげようかと軽いノリでからかってみたら、あっさりと向こうが食いついてきて今に至る、というわけだ。

 その代わりに、英数を彼に教えてもらっているから、お互いにとって悪い話ではなかったし。


「で、頭は……寄ってこそそれかもめ?」

「鴎じゃない」


 近寄ってその人が私かどうか確かめてみたらどうでしょう。


 隣にいるのは田中君だ。ただ、顔と名前を一致させることくらい、今の時代は真隣にいなくてもできるわけで。

 彼ほどの頭の持ち主だったら、大学入試前に本気を出せば最低限の点数は取れるはずだ。実際に彼の志望校は日本最高峰のあの東京の大学だってことは知っている。

 きっとやる気があれば、教科書なり参考書なりを読んで、独力で点数を取ることくらいはできるだろう。つまり、興味がない科目は普段、単にやる気がないだけ。彼の場合、大学受験に内申なんて関係ないだろうし、赤点をぎりぎり回避さえしていればそれでいいはずだった。

 だから――私の手助けなんて、彼には初めから必要ないはずなのだ。


 田中君がプリントから視線を上げて、私の方を見てきた。こちらも彼を眺めていたものだから、自然と視線が合う形になる。

「顔赤いね」

 かと思えばずいぶんとおかしなことを言ってきた。

「夕日でそう見えるんでしょ」

「夕日で顔は赤くならないよ」

 そうだった。目の前の男に文学センスはないんだった。

「じゃぁ……何だっていうの」

「血流だね」

 やっぱり、目の前の男に文学センスを期待した私が。

「恥ずかしい、照れている、興奮している……そのあたり」

 撤回。少しはあるようだ。おかしな方向に。

「何を今さら恥ずかしがることがあるのやら」

「じゃぁ、照れか興奮?」

「はぁ!?」

 今まさに興奮しそうなんですけど!

「ごめん、問題に戻る。ここに書いた通りの訳であってる?」

 なんなんだ。いったい、この人は何がしたいのだ。

「あってるけど」

 言い方がぶっきらぼうになってしまった。

「じゃぁ、この『め』は勧誘だからエ。で、次の問題はウで、最後は」

 そう言うなり彼は鉛筆を筆箱にしまう。

「最後の豆腐、空白だけど?」

 豆腐とは、大きな四角で囲われただけの解答欄のこと。確か問題は――。

「これさ、光源氏と夕顔の心情を理解しないと、完璧には答えられないと思うんだよね」

「何、まさかこの後をこれから追体験しようっていうの?」

 頭で考えるよりも前におかしな言葉が出てしまっていた。

 この後の展開なんて、少しでも源氏物語をかじっていればわかることなのに。

「なんて」

「まさにその通り、って言ったら?」


 なるほどね。うっかり、光源氏に歌を読んでしまった夕顔って、きっとこんな気持ちだったんだ。


「……興味がないとは言わない」

 元より、単なるクラスメイトが肩を並べて勉強会をする仲にまでなったのも、私の一言がきっかけだ。

「それで私があなたを理解できるなら」


 寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 花の夕顔

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