くるみ先生、東京へ行く。

花 千世子

前編

 冬休み第一日目から何の予定もない俺を置いて、両親は結婚記念日の温泉へ出かけた。

 だから今日はダラダラしてやるか。

 そう思って朝食を食べ終え、階段を上がろうとした時。

 和室のふすまがスターンと開いて、ひょこっとそこから女性が顔を出す。


「ちょっとちょっと」


 女性――ミルクはちょいちょいと俺を手招きする。

 俺が和室に入るなり、ミルクは正座をした。


健太けんた、大事な話があるの」


 そう言ったミルクは、今日も恐ろしいほどにきれいだった。

 やや釣り目がちの大きな瞳の色はグリーンで、全体的に整った顔立ちをしているし、ふわふわの猫っ毛の銀色の髪は肩までのボブヘアー。

 華奢な体を覆うのは、『着たら二度と脱げなくなる』とネットで噂の、人をダメにするパジャマ。

 まるでパジャマを着た天使みたいだった。


「猫もダメにするのか」


 俺がそう呟くと、彼女は不思議そうに首を傾げた。

 その表情にふいと目を逸らす。

 この美人は俺の姉でもましてや母でもない。


 飼い猫である。


 いや、比喩ではないぞ。

 男子高校生の妄想でもないぞ。

 勘違いしないでくれ。

 誰に言うでもなく言い訳を脳内でしていると。

 ミルクがこう言った。


「私を東京に連れて行ってほしいの! お願いっ!」


 ミルクが一瞬、何を言っているのかわからなかった。

 東京へ、行く?

 その途端、俺の脳内では、ミルクが東京のどこの馬とも骨も知れない男に飼われるのを想像する。

 それからミルクを抱きしめてこう叫ぶ。


「嫌だ! 今さらミルクを他の家にやらないからなっ! そもそもミルクはただの猫じゃねえ!」


 俺は興奮してさらに続ける。


「猫又だから他人には見せられねーんだよおお」

「ねえ、健太、苦しい……」


 ミルクの言葉に、俺は思わず彼女の体を離す。

 いくら猫とはいえ、今は人間の姿だ。

 女子の体に抱き着くなんて……でも、柔らかかったなあ……いやいや、何考えてんだ俺。

 鼻血か出そうになる気配を感じて、俺はスマホの画面を見る。


 そこには、真っ白な毛の美猫が映っていた。

 猫の状態のミルクだ。

 途端にすっと鼻血はおさまり、正常に戻る。

 猫のミルクもかわいい。最強の美猫。


「あのさ、私の昔の写真を待ち受けにしてくれるのはいいんだけど、今は私の話を聞いてくれるとうれしい」


 ミルクの言葉に、俺は我に返る。


「ああ、すまん。それで、東京には何をしに行くんだ?」


 買い物か?

 そう言いかけた俺に、ミルクは畳の上に視線を落とし、それから勢いをつけるかのように言う。


「私ね、作家になったの!」

「は? サッカー?」

「サッカーじゃない! 作家! 小説家!」

「え……。エッセイ的な? いや、だめだろ、正体ばれちゃうだろ!」

「もし私が猫なんです、ってエッセイ書いて誰が信じるのよ。健太ぐらいでしょ。違うよ」

「じゃあ、なんだ」

「ミステリー!」


 ミルクがうれしそうに答えたので、俺は「ああ」と妙に納得した。


 一人の部屋が欲しいと家族に相談したミルクに、母が用意したのは六畳の和室。


 もともとは客間だったが、今はお客もあまり来ないし、泊まるような来客なんてなおさらいない。

 そういうわけで、ミルクは父のお古のパソコンと、リビングにあったこれまたお古のテレビ、俺がつかっていない本棚というこの家の家族の匂いで満たされた部屋で寝起きしている。


 本棚には、ミルクがネットでポチッた本がどんどん増えていった。

 刑事ものやサスペンスのDVDなんかも増えていった。

 母が作ったミルク口座には、どんどん金が振り込まれ、母に聞いてみればミルクは現在コラムライターをしているのだとか。

 猫と暮らすコツや楽しさを書いたコラムは、それなりに需要があるらしい。

 そういうわけで、ミルクは人間ライフを楽しんでいる。

 二十年も猫をやってきたとは思えないくらいに。


「それで、出版社に行ってみたいの。私の担当さんも会ってお話できるならぜひって言ってくれてるし」


 ミルクはそう言うと、「だから私を東京に連れて行ってください」と頭を下げた。


「わかった。で、いつ行くの?」


 ミルクは顔上げ、笑顔で答える。


「今日!」


 マジかよ……。



「これが、新幹線、かあ」


 駅のホームに滑り込んできた新幹線を見て、ミルクがごくりと唾を飲み込む。


 結局、俺はミルクの『お願い、私の作家人生がかかってるの。ドタキャンしたら印象悪い』と言われて渋々OKした。

 最初から俺を連れて行く気満々じゃねえか。

 まあ、高校生活初の冬休みは何も予定はないわけだが……。


 新幹線に乗り込む俺とミルク。

 空いている座席に座った途端、隣のミルクがこちらをじっと見てくる。


「ああ、窓際がいいのか」


 俺がそう言ってミルクと席を変わると、ミルクは言い訳をするかのように呟く。


「車窓からの眺めで良いトリックが思いつくかもしれないし」


 外が見たいだけだろ。

 そう思ってハッとする。

 ミルクの頭には、白い猫耳が生えていた。

 俺は慌ててミルクのコートのフードを、すぽっと頭にかぶせてやる。


「落ち着け。猫耳が生えてきてるぞ」


 小声で俺が言うと、窓の外を見ていたミルクがこちらを見た。


「別に興奮なんかしてないよ。むしろ新幹線って思ったより小さいなーなんてガッカリしていたくら……」


 そう言ったミルクの顔に、にゅっとひげが生える。

 猫のひげだ。

 ミルクは顔を隠し、それからコートのポケットに手を入れた。

 白いスマホは彼女専用。

 その画面をじっと見つめているうちに、ミルクの耳やひげは消えていた。


「なあ、いつも思うんだけど、何見てるんだよ、それ」


 俺がミルクのスマホを覗き込もうとすると、ミルクは俺をにらみつけた。


「セクハラ!」


 その声がやけに大きく響いて、俺は慌てて周囲を見る。

 幸いなことにこの車両には人がほとんどいない。

 ホッとしていると、ミルクはさっとポケットにスマホをしまってから口を開く。


「健太が見ても面白い写真じゃないよ。だって私の心を落ち着けるために見てるものだからね」

「まあ、そうか」


 俺はそう言って、ふうと安堵する。


 

 ミルクは、二十歳を境に尻尾が二又になり、人間になった。

 最初のうちは、たまに人間になれる、というだけだったが。

 あれから二年が経ち、現在二十二歳のミルクは人間の姿でいることのほうが多い。

 だが、猫の姿に戻ってしまうこともある。

 そのきっかけとなるのは、好奇心だった。


 好奇心旺盛さに火がついてしまうと、猫に戻ってしまうのだ。

 しかも、一瞬で猫に戻るわけではなく、耳が生え、ひげが生え、尻尾もはえ、最終的に猫の姿になる。

 落ち着けば人間に戻れるのだけれど、完全に猫の姿になってから人間に戻るのは大変らしい。


 だからミルクは一人では出かけられない。

 どこで猫の姿になるかわからないからだ。

 家族と一緒に出かける時も遠出はしたことがない。

 それなのにまさか東京に行くことになるとは……。


 一応、キャリーケースも持ってきたので、最悪、ミルクが完全に猫に戻っても楽々運ぶことはできる。

 まあ、猫にならないのがミルクにとっては一番いいのだろうけれど。

 出版社にいる時に猫になったら、それこそ大事だからな。

    

 ミルクは俺が一緒にいるから、と安心しているけれど。

 俺も実は新幹線に一人で乗るのは初めてだし、東京へ行くのは小六の修学旅行以来だ。

 だから、事前に新幹線の時刻表から切符の買い方、出版社までの道のりを調べておいた。


 そういや、SNSを見ていたら俺のように初めて新幹線に乗るから不安、という人に誰かがこんなコメントしていたっけ。

『新幹線は座席ではきちんと靴は脱ぐんだよ。土足厳禁だよ』と。

 誰がそんなこと信じるんだよ、と笑ったが、コメントをもらっていたほうは信じていた。

 信じてるんじゃねーよ、と思い出し笑い。

 この話をミルクにもしてやろうと考えて、ふと足元を見る。


 ミルクのぶらぶらと揺れた足は、靴下。

 床にはスニーカーがそろえて置かれてあった。


 信じているやつがここにもいた。

 まさか、あのSNSの書き込みは……。

 そう思ってご機嫌で小さく鼻歌なんか歌っているミルクの横顔を見る。

 黙っておいてやるか。

 おもしろいし。


 東京駅は人が多かった。

 地元の祭りでも、こんな賑わいを見せたことはない。

 それぐらいにどこを見ても人、人、人。

 今日は冬休みとは言え平日だよな? しかも通勤時間は過ぎている。

 人の多さに圧倒されていると、フードをすっぽりとかぶったままのミルクが隣でぶつぶつと何かを呟いている。


「なんだ、どうした?」

「私は……二屋にやくるみ……作家の二屋くるみ……」

「ニヤクルミ? なんだそれ」

「私のペンネーム。ミルクをくるみにして、苗字もつけたの。にゃーって聞こえるでしょ、二屋」

「おお、そうか」


 ミルクは「そう。作家としての自覚をもたないと」と言って背筋をピンと伸ばした。

 実に猫らしくない。

 まあ、今は猫じゃないんだけれど。


 歩き始めたミルクの姿を、サラリーマンや学生らしき男たちが振り返っていく。

 やっぱりミルクはきれいなんだな。

 もともと美猫だしな。

 人間になったら、そりゃあきれいに決まっている。

 なんだかミルクが遠い存在のように感じた。



「おいおい、どこ行くんだよ」


 歩いていくミルクに、俺は慌てて声をかける。

 ミルクは立ち止まって振り返って答えた。


「どこって、出版社よ」

「タクシーで行こう。徒歩よりいいだろ」

「タクシーって高いでしょ」

「でも、途中で猫になるよりいいんじゃないか」

「むしろタクシーの中で猫になるほうが厄介よ」


 ミルクはそれだけ言うと、踵を返して歩いていく。


「それに出版社までの道は印刷してポケットに入ってるの。もうバッチリよ」


 そう言う後ろ姿に、ゆらゆらとご機嫌に揺れている真っ白な尻尾が見えた気がした。

 まあ都会を歩いてみたい気持ちはわかる。俺も歩きたいし。


「ちょっと待って」


 俺は慌ててミルクを追いかける。



 高層ビルに囲まれる景色を、俺とミルクはキョロキョロしながら歩く。

 ミルクが猫に戻らないかハラハラしたが、何とか抑えているようだ。

 ちょくちょく立ち止まり、通行の邪魔にならないところでスマホを見ているから、本人も自分を落ち着かせることに必死なんだろうけれど。


 正直、俺がいればミルクが猫に戻ってもフォローはできる。

 不思議なことに着ている服はミルクの猫サイズに戻るし、人間に戻れば服も元に戻る。

 だから、もし人ごみの中で猫になっても俺がキャリーケースに入れてしまえば危険もない。

 もし、この光景を見かけた人がいても、人間が猫になったと思う人はそうそういないだろう。

 見間違いか、それとも自分が疲れているか、はたまた何かの手品かと思うのがオチだ。


 だが、猫から人間に戻るのには、どうも時間がかかるらしい。

 一旦、完全に眠るかリラックスしてしばらく過ごすのが良いそうだ。

 つまり、外で猫になると刺激が多すぎてなかなか人間に戻ることができない。

 以前、一緒に家で映画を観た時も、猫に戻ったミルクが人間になるのに三時間はかかった。

 ミルクは、今日、この日に猫に戻ることをどうしても避けたいのだろう。

 それならば、わざわざ出版社まで来なくても良かったのに、とは思うのだけれど。

 まあ、好奇心の塊だからなあ。

    

「三時間」とふと俺が呟く。

 それから、ショーウィンドウに飾られたジュエリーに目を輝かせているミルクに聞いてみる。


「そういえば、何時から会うんだ?」

「んー?」

「出版社には何時に行けばいいんだよ」

「えーっと、十五時」

「まだ二時間もあるじゃねーか」


 これなら昼飯を食う時間はあったな。

 ミルクは逆算が苦手なくせに、よくミステリーの小説を書いてるなあ。

 そう思っていると、ミルクは「あそこでご飯食べたいの」と言って指さしたのはコンビニだった。


「ああ、そういえばミルク、コンビニ大好きだったな。でも、別に外食でも良くないか」

「おにぎりが食べたい」

「なぜ」

「遠足っておにぎりなんでしょ?」

「ああ、まあそうかも」


 そういうわけで、俺とミルクはコンビニでおにぎりとホットスナック、飲み物とお菓子まで買い込んだ。

 ミルクいわく『猫又は妖怪だから人間の食べ物を食べても大丈夫』だそうで。

 それでも猫時代の名残なのか、薄味が好きだし海苔やら魚、鶏肉が好きだし、牛乳大好きなのだ。


 ちょうどコンビニの隣にあった公園に移動して、ベンチに座ってお昼タイム。

 遊具のない公園には人がおらず、ポカポカと日差しが当たってとても暖かい。


「あー。こういうのいいなあ」


 ミルクがそう言って目を細める。

 そういえば、ミルクが人間に変身できるようになり、両親と一緒なら外に出ることもたまにはある。

 だけど、俺と二人きりというのは初めてだ。

 まさかミルクとこうして公園でお昼を一緒に食べることになるなんて……。


「遠足でおにぎりをリカちゃんに取られちゃったよー、って泣いてたわよね」


 ミルクが懐かしむように口にしたのは、俺の幼稚園の頃の遠足のエピソードだ。


「よくそんなえっらい昔の話を覚えてるなあ」

「そのリカって子、私が引っ搔いてやるのに! って当時は思ったもんだけど、リカちゃんは健太が好きなだけだったのよね」

「そうかなあ」

「そうよー。私も若かったわ。あの頃リカちゃんが家に来なくてよかった。本当に引っ掻いていたら大変」

「家に来るような仲じゃなかったしな」

「健太はリカちゃんのこと、どう思ってたの?」


 ミルクがそう言って俺をまっすぐに見つめる。

 宝石みたいな瞳を直視できず、思わず視線をそらした。


「え、いや別になんとも思ってなかった」

「うそばっかり。本当は好きだったでしょ。まあ、でももう昔の話かあ」


 ミルクはそう言ってから今度は笑顔でこう聞いてくる。


「じゃあ、今は好きな子とかいないの?」


 完全におもしろがっている、という口調だった。

 弟の恋バナを無理やり聞いてくる姉状態。


「別にいないし」

「いるでしょ」

「いねーよ」

「だって高校生なら恋の一つや二つ、するものでしょ。ドラマで言ってた」

「それはドラマの中の話だ」

「そうかなあ。隠してるんじゃないの? 私だけに教えてよ」


 ミルクの無邪気な笑顔に、なぜか胸がズキリと痛む。

 その胸の痛みの意味がわからず、俺は戸惑いでこう口にしてしまう。


「今まで世話してきた飼い猫には教えねえ」

「それもそうだけど」

「ご飯も、おやつも、トイレの世話もして、寒い日は一緒に寝て、体調が悪ければ病院にも連れて行った」


 俺は何を言っているんだ。

 そう思うのに、止まらない。


「そんな飼い猫に、なんで浮かれた話なんかしなきゃなんねーんだよ!」


 公園がしんと静かになる。

 黙り込んでいるミルクをそっと見ると、うつむいていた。

 それから顔を上げてこう言う。


「ごめんね。しつこく聞いちゃって」


 そう言ったミルクの顔は、とても悲しそうだった。

 ミルクは急いで立ち上がり、それからこう言う。


「今日だって、無理やり着いて来てもらっちゃったんだもんね」

「いや、別に……」

「ここからは一人で行くから!」


 ミルクはそれだけ言うと走り出した。


「あっ! ちょっと!」


 俺は立ち上がって慌ててミルクを追いかける。

 しかし、猫だからなのかはたまた妖怪だからなのか。

 異様に身体能力の高いミルクの足は速く、すぐに見失ってしまった。

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