類別ミステリー集成(丙)

類別ミステリー集成

『トリック』


【第一】叙述トリック


(A)人間に関する叙述トリック

①性別の叙述トリック

(イ)男性的に表現するが実際は女性

(ロ)女性的に表現するが実際は男性

②人数の叙述トリック

(イ)過多に表現するが実際は少数

(ロ)過小に表現するが実際は多数

③両者の間柄の叙述トリック

(イ)同一人物に表現するが実際は別人物

(ロ)別人物に表現するが実際は同一人物

(ハ)その他の特性・種類の誤認

④視点の叙述トリック

(イ)モノローグとして表現するが実際に存在

(ロ)存在しているように表現するが実際は無人

(ハ)その他の隠蔽・設定の誤認

(B)時間に関する叙述トリック

①時間の叙述トリック

(イ)同時間に表現するが実際は別時間

(ロ)別時間に表現する実際は同時間

②初期時間に関する叙述トリック

③その他・多次元による誤認

(C)場所に関する叙述トリック

①場所の叙述トリック

(イ)同じ場所に表現するが実際は別場所

〔八番1京〕ワークワークでは複数の場面を出している。仕事とゲームである。歌詞に出てくる仕事上の失敗とゲーム上の成功では、視点者のいる場所がことなることで、引き起こされている。ワークワークの一番三番五番は職場だが、二番四番六番はオンラインゲームの場面になっている。どちらもボーナスという歌詞をいれているが、前者は夏冬のボーナス、後者はログインボーナスとなっている。冬のボーナスに対して、一月にボーナスを使い切りという言及、ほかの月にはもらっていないという内容によって、いっぽうが季節賞与だとわかるようにした。ゲームの場面のほうの歌詞では毎回、ボーナスを受けとっている。こちらはログインボーナスである。

(ロ)別場所に表現するが実際は同じ場所

②初期場所に関する叙述トリック

③その他・異所による誤認

(D)その他の特殊な叙述トリック

①偽の記述による叙述トリック

②行為・手順・理由についての叙述トリック

〔八番2京〕ワークワークの視点者は流通会社で働いている。一番三番五番は社長に命じられた仕事に悩んでいる内容であり、二番四番六番はオンラインゲームで順調に勝ち進めている内容になっている。仕事のストレスをゲームで解消しているというプロットラインだ。ワークワークでは、ゲーム上の行為を仕事上の行為だと誤認させている。視点者の行為をすべて仕事だと誤認させるために、流通業とゲームの内容を符合させることにした。加工食品とシリアルメーカー、鉱物資源とアルミニウム社、銅鉄ダイヤとジュエリー社、関連した単語を交互に出すことによって、行為の誤認を進めている。この単語はゲーム用語としての意味を持ち合わせており、海外ゲームにくわしい人ならば、元ネタが文明発展シミュレーションゲームだとわかるはずだ。


【第二】犯人が現場に出入りした痕跡についてのトリック


(A)密室トリック

①犯行時、犯人が密室外にいた状況のトリック

〔五章3軽〕無月の水では三章に溜め池の水門が破壊されている。犯人は意図的に蛇崩池を氾濫させ、密室だった土倉のなかを浸水させた。被害者は逃げ場を失い、助けを呼んだ。犯人は天井窓から縄はしごをおろし、一時的に避難してくるように声をかけた。天井窓は人間がとおれる隙間はなかったが、小刀を押しこむことは可能だった。犯人はのぼってきた被害者の上着をつかみ、土倉の外から心臓を突き刺した。犯行後に縄はしごを回収することで、密室殺人を完成させたのである。別府は五章に、この推理をしている。

〔十三章5計〕被害者は氾濫から逃げてきたのではなかった。日食を見るためにのぼってきた。土倉から天井窓までのぼってくるのは同作品のなかで既出となっている。同じ仕組みでべつのパターンで用いる。五章の推理はその前振りである。類推解釈の典型例だ。氾濫から逃げてきたところを密室外から刺殺するのは。被害者にとっては受動的だが、日食を見るために登ってきたところを密室外から刺殺するのは、被害者にとっては能動的である。同じ仕組みでも随分と印象はことなる。だから密室はおもしろい。

②犯行時、犯人が密室内にいた状況のトリック

③犯行時、被害者が密室外にいた状況のトリック

(B)下半身・足跡トリック

(C)上半身・指紋トリック


【第三】犯行の時間および誤認に関するトリック

 

(A)乗り物のトリック

〔八章7軽〕殺害現場と容疑者の政信が目撃された場所は離れていた。人の足では犯行時刻に間に合わないが、あらかじめ駿馬を用意していれば、往復にかかる時間を短縮することが可能だった。馬の習性を利用したわけではないので、動植物よりも乗り物のトリックに分類した。

〔八章8軽〕容疑者の作間政信は殺害現場の蛇崩町から離れた湯島の門前町で目撃されていた。政信の現場不在証明となっていた。しかし、湯島からは江戸川、大川、目黒川、蛇崩川とつづいており、小舟で移動したならば、殺害は十分に可能となる。周囲の河川を伏線として、小舟を利用するトリックである。

(B)時計のトリック

〔十三章6計〕旧暦の八月は現在の九月である。明治改暦を知らなければ、犯行時の気温を誤認させることができる。登場人物というよりも、読者への誤認にちかい。江戸時代の気温は現代の平均気温よりも低い。さらに、日食と一ヶ月のずれを生む時計トリックは、低気温を強調できる。不束三探は旧暦を利用することによって、葉月に氷の凶器という結論を補足した。大尖塔では、この旧暦を時計のトリックに含めた。

(C)音のトリック

(D)作業による時間トリック

①犯行時、実際に作業していないもの

(イ)完成品との交換

〔十三章1計〕無月の水では、犯人が三人を連続で殺したあとに、凶器を風呂敷にいれて、蛇崩町の東区画に捨てたという状況になっている。凶器を捨てに行く時間の分だけ、容疑者のアリバイは限定される。しかし、じっさいには絞殺した紐、刺殺した小刀、撲殺した木刀は偽物だった。真犯人はみずからの疑いをとおざけるために、犯行よりもまえの時刻に放棄していたのである。このトリックは偽物による替え玉でもあるが、対象物を隠蔽するよりも誤認の意味が強いため、【第三】に分類した。既製品を使ったトリックである。

(ロ)確認中に破壊・作為

②犯行時、実際に作業したもの

(イ)早業作業

〔五章1軽〕瑞木は第一発見者である。ただし、嘘の証言も可能であるため、真っ先に別府に疑われている。佐々木と大村昌村を素早く、殺すことができれば、土間にもどり、目撃者のふりをすることができる。ただし、同章で大村昌村が氾濫を利用して、密室外から殺害されているという結論にいたると、瑞木への疑いは晴れた。土倉まで濁流がとどいたあとに、だれにも目撃されず、怪我も負わず、痕跡無しに、裏口までもどることが不可能だからである。この推理は第一発見者でも殺人は可能だという提示をするうえで、重要な前振りである。

(ロ)他力作業

〔七章4軽〕無月の水の七章では、犯行に使ったと思われる凶器が発見されるが、殺害現場からとおくで見つかったために、そこに移動する時間がアリバイに加算されている。別府は殺人現場で起きていた蛇崩池の氾濫をアリバイ作りに利用したと推理する。下屋敷は高台にある。氾濫した濁流は、低い場所へと流れていた。つまり、凶器を風呂敷にいれて、濁流にのせれば、とおくへと運ぶことができる。その時間差を利用して、犯行が不可能だと見せかけたのである。濁流の力を借りた時間トリックだ。

(E)目撃者を利用したトリック

①対象の相手を誤認させる

(イ)対象人物と別人の誤認

(ロ)対象人物とそれ以外の誤認

②犯人に知り得た事実・失敗を利用作用


【第四】人間および物品の隠し方に関するトリック

 

(A)空間性の隠蔽トリック

①死体移動による欺瞞

(イ)短距離移動

(ロ)遠距離移動

〔十三章7計〕犯人は菊太郎の死体を遠方の洞窟から運んできた。洞窟は令室のようになっており、死体の保存に適していた。三つの殺人はそれぞれ別個の時間に殺害しているが、同じ場所で発見させ、連続殺人と誤認させることで、アリバイをつくりあげていた。新月の夜だったこともひっそりと死体移動させるのに適していた。

②死体を永久に隠蔽

③特徴を消された死体

(B)物質性の隠蔽トリック

①完全な遮蔽物の利用

②開閉可能な遮蔽物の利用

〔九章10軽〕容疑者の上野は人垣のなかで発見された。人垣の前後には見張りがいた。早朝になって、上野の存在が確認されている。この目撃証言が現場不在証明となっていた。人垣は時間の経過のたびに坂道のさきへと進んでいた。別府は絵図を見て、坂道の途中に井戸があったことに気がついた。井戸のなかに隠れることが可能だった。人垣が井戸のまえを通過したところを見計らって、地上に出れば、目撃証言を騙すことができる。井戸のうえには木のふたが置いてあり、開閉が可能だった。上野が身体を隠すために、あらかじめ井戸の水も抜いていたのではないか。この推理が正しいかどうかは、十章で確認をとっている。

③部分的な遮蔽物の利用

(C)五感性の隠蔽トリック

①光学トリック

②化学トリック

(D)精神性の隠蔽トリック

①先入観

②信仰心

(E)その他の隠蔽トリック

①同一の群集の中

②替え玉・二つトリック


【第五】凶器と毒殺に関するトリック


(A)凶器トリック

①普遍的な凶器

(イ)異様な刃物

(ロ)異様な矢弾

(ハ)異様な殴打

(ニ)異様な絞殺

②特異な凶器

(イ)高低差や音波を利用

(ロ)重量や圧力を利用

(ハ)水や氷を利用

〔十三章2計〕犯人は佐々木を氷柱の鈍器で殺害した。大村昌村を氷のつららで殺害した。大村菊太郎は絞殺したのちに、氷の令室で死体を保存し、下屋敷へと運んできた。無月の水はすべての殺害に氷の凶器を利用している。下屋敷の地面は水浸しだったので、氷の凶器は簡単に処分できる。現代が舞台ならば、だれでも冷蔵庫をもっているが、江戸時代という時代性では、令室が必要となる。ゆえに、職業利用のトリックと表裏一体になる。ほかにも、時計トリックと天候トリックを同時に利用し、氷の使用に説得力を与えている。こういった同一の場所で、別種類のトリックを用いる手法を、不束三探は『コンバイントリック』と呼んでいる。作者の十八番であり、ニュータイプトリックの可能性をもった新手法である。

(ニ)電気や火炎を利用

③その他の奇抜な凶器

(B)毒殺トリック

①嚥下毒

②注射毒

③吸入毒


【第六】暗号(または解法)に関するトリック


(A)割符法

①単純割符法

②上下割符法

(B)表形法

①表形法

②実存表形法

(C)寓意法

①寓意法

②実存寓意法

(D)置換法

①逆進法

②横断・斜断法

③混合置換法

④挿入・抜去法

(E)代用法

①文字・数字代用法

②形状代用法

③複雑代用法

(F)媒介法

①媒介法

②作用媒介法

(G)特殊法


【第七】その他の特殊トリック


(A)ダイイングメッセージ

①被害者の意図が含まれている

②加害者の意図が含まれている

③その他の特殊な意図が含まれている

(B)筋書き殺人

 ①筋書き殺人

②見立て・童謡殺人

(C)動植物・その他の特色を利用作用

(D)遠隔操作および時限設置のトリック

①遠隔操作

②時限設置

(E)天候、季節その他の自然現象利用のトリック

①地盤振動を利用

②太陽を利用

〔十三章8計〕犯人は日食による気温低下を利用した。じっさいに殺害した時刻は発見時刻よりも半日以上、はやかった。連続殺人と見せかけるために、死体の腐敗をおくらせる必要があり、日食を利用したのである。大村昌村の殺害に限定すれば、低温の土間、氷の使用、桶内の隠蔽、この三つを利用している。

③大気現象を利用

〔五章2軽〕大気現象とは雨や雪、雷のことだ。無月の水には、雨水を溜める池が登場している。犯人は三つの殺人が判明するまでのあいだに、被害者の周囲を水でみたしておく必要があった。とあるものを処分するためだ。そのトリックの一環として、水門を破壊している。雨水が地上に溜まるのは、自然現象のために、こちらに分類した。蛇崩池の氾濫、雨水の利用は、十三章の仕掛けを説明するための前提トリックになる。五章、別府が密室トリックと関連付けたのが初出である。五章の場面があるから、十三章の推理がスムーズになっている。

④海・河川を利用

(F)犯人(または被害者)の人間に関するトリック

①一人二役および複数役

(イ)犯人が被害者などに化ける

(ロ)犯人が第三者や架空の人物などに化ける

〔九章9軽〕容疑者の上野は行人坂の人垣のなかで発見されていた。人垣の前後左右には見張りがいた。だれも出入りできなかった。上野の現場不在証明になっていた。しかし、行人坂の見張りは町人だった。深編み笠をかぶった夜警が例外的に行き来していたことがあきらかになる。別府は上野左衛門が夜警のふりをして、途中から人垣のなかにはいったと推理した。変装したまま、うしろにまわりこみ、笠を服のなかに隠したのだ。行人坂には濁流が流れこんでいた。笠をばらばらにして、足下に落とせば、変装の証拠を隠滅できる。

(ハ)第三者が被害者などに化ける

(ニ)第三者が犯人や架空の人物などに化ける

②一人二役の他の意外な犯人

③犯人などの自己抹殺(一人二役以外の)

④異様な被害者および第三者・共犯者

〔七章6軽〕三人目の被害者と思われていた佐々木五郎はじつは共犯者だった。佐々木は大村菊太郎と大村昌村を殺したあとに、真犯人によって殺された。真犯人は最後のひとりだけを殺したのだ。別府はその真犯人が経子だったという推理を披露する。佐々木が犯行したときの時間を加算させることによって、アリバイをつくりあげたという推理である。

(G)職業(または天質)利用の犯罪に関するトリック

①職業地位および立場を利用

②専門知識および技術を利用

〔十三章3計〕無月の水の容疑者のひとりに、水屋がいる。水屋は水だけではなく、氷も売っていた。江戸時代では、気温が常に低い洞窟などに、大量の氷柱を保管していた。無月の水の殺人には、この氷が利用されている。現代では冷凍庫があり、だれでも利用できるが、江戸時代における、氷の保存は専門職の者にかぎられる。

(H)移動手段の錯覚系トリック

①距離の錯覚

②追うものと追われるもの


『リトリック』


【第八】異様な動機


(A)感情の犯罪

①復讐

〔七章5軽〕本編よりまえに、大村昌村が作間藤三郎を斬り殺している。菊太郎も政信に危害を加えている。強弱の差はあれ、同罪である。この時点で、復讐の動機が成り立つが、あらためて七章にて、佐々木まで殺された理由を提示している。佐々木と経子は、昔からの知り合いだった。佐々木は水番人が儲かることを知っていた。佐々木が水番人の仕事を奪うように、大村昌村に勧めた可能性が高かった。つまり、大村昌村、菊太郎、佐々木の三人が藤三郎の命を奪った仇となる。容疑者は作間家の血縁者という構図になる。

②恋愛

③優劣感

(B)利欲の犯罪

①遺産相続・金銭目的

②野心

③利己または利他

〔十三章4計〕大村昌村、大村菊太郎、佐々木五郎、三人を殺害した動機は復讐という前提で進んでいたが、十三章にて、まったくべつの動機が登場する。ことの中心は変死体である。変死体は阿片の流通によって、引き起こされていた。犯人は大村家による阿片栽培をとめるために主要関係者の三人を殺したのである。阿片栽培の場所は、大村家の敷地内にある書院の地下である。蛇崩池の氾濫は、書院の破壊も目的としていた。蛇崩町の将来を考えての犯行なので、利他の動機に分類した。

④秘密保全

(C)異常心理の犯罪

①殺人狂

②変態心理

③遊戯のための犯罪

④犯罪のための犯罪

(D)信念の犯罪

①迷信および妄信

②啓発を含めた犯罪


『フラグアトゥルー』


【第九】決定的な証拠を提示する箇所


(A)前過去の手掛かり(読者への挑戦以前)

①言動および行為の盲点

〔三答制Ⅰ〕七章で助手役の別府が空き地で容疑者の経子と話している。そのとき、べつの容疑者である瑞木がとおっている。瑞木は剣術道場に飲み水を補充しに行くと答えた。十章、佐々木の木刀が剣術道場の箪笥にしまわれていたことを知る。箪笥の裏側に台所があった。ほかにも水飲み場があった。容疑者ふたりに対する手掛かりとなる。被害者の佐々木が最後に木刀を使ったのは四日まえだった。経子は四日まえ、彼の素振り練習が終わるまえに帰宅している。それ以降はあらわれていない。いっぽう、剣術道場の飲み水の補充は、ふつかにいっかいのペースだった。経子は矛盾するが、瑞木は成立する。

〔十三章2計〕一章、瑞木は水を運んでいた。別府と門番は桶のなかの水面だけを見ている。四章と七章で、第一発見者の瑞木は氾濫が起きるまえに佐々木が殺されたと答えている。まだ濁流がはいっていないときだが、被害者の佐々木はなぜか水をつかんでいた。氾濫していないならば、水はつかめないはずである。しかも泥水ではなく綺麗な水だった。同じように大村昌村からも透明な水が発見されている。五章で、蛇崩池の氾濫が以前にも起きていたことを知る。作間家の者ならば、氾濫を利用したトリックが思いつける。そのトリックは十一章、大村昌村の傷口が半円だった点とむすびつけることができる。

〔八番1京〕ワークワークには明確な矛盾がある。それはボーナスである。一番には冬のボーナスを使い切ったと書かれている。しかし、二番にはいつものようにボーナスだと書かれている。わかりやすい矛盾である。これは奇数番と偶数番のボーナスの意味がことなっているせいである。

②その状況と似た前例

〔十三章5計〕五章、別府は氾濫を利用した密室殺人を推理した。犯人は土倉のなかに泥水を流しこみ、天井まで逃げてきた昌村を密室外から殺害した。この方法でも密室殺人は成立するが、未堂棟は十三章、べつのパターンでも考えられると展開させている。類推解釈の典型例だ。その伏線として、土倉に落ちていた望遠鏡と瓦版の存在がおおきい。一章で、住民たちは日食を見ているが、こちらも類推解釈である。土倉にいる大村昌村も同じことをしていたのである。

〔十三章8計〕一章、別府たちが蛇崩町に来たときから、日食ははじまっている。別府は葉月なのに寒さを感じていた。日食時は気温低下が起きる。住人たちは珍しい現象をつぶさに見ているが、同じことが土倉でも起きていた。三章の示唆急文一回目は、日食がトリックにかかわっていることを示している。

③不自然な言及

〔十三章1計〕殺人事件の発覚した直後の六章、風呂敷のなかから三つの凶器が発見されている。樫の木刀と赤く染まった小刀と上等な組紐だった。未堂棟は三人を殺した凶器がどれもことなる点を気にかけていた。七章、経子の話によって、佐々木の木刀が剣術道場に置いてあったことがわかる。九章、上野の知るかぎり、木刀は下屋敷にもってきていなかった。十章、未堂棟は剣術道場へ行き、佐々木の木刀の在処をたずねる。やはり、紛失していた。師範代から佐々木の木刀についてきき、血の手形が付着していたことを知る。十一章、未堂棟は検屍医に死体を再度、調べてもらった。絞殺された菊太郎の傷口と風呂敷から発見された組紐では太さが合わなかった。小刀の刃先と大村昌村の致命傷となった傷口も一致しなかった。そうなると、木刀を含めて、どれも真の凶器ではない可能性が高い。不自然な伏線としては十分かと思われる。

〔十三章3計〕二章で佐々木から洞窟の話を聞いている。水屋の瑞木が飲み水を遠方の洞窟に保管しているという話だった。八章では作間から氷屋の話を聞いていた。水と氷の言及は、非常に重要な手掛かりとなっている。

〔三答制Ⅱ〕四章で殺害現場から泥水とはことなる透明な水が回収されている。凶器のトリックの伏線だが、三答制にもつうじる言及になっている。八章では氷屋の仕事をしている人物への言及があった。江戸時代ならではの話である。

〔十三章4計〕一章で水騒動の結果、作間藤三郎が殺されている。二章と三章、そして八章で、藤三郎が変死体を調べていたことが判明する。変死体のまわりでは、かならず覆面の男が目撃されていた。コレラの説明の際、中国大陸で起きた戦争にふれている。八章では上野と変死体の繋がりをにおわし、直後の九章では、とうの上野が書院へ侵入していた。上野の運んでいた書物のなかには、薬物にかんする本草綱目もあった。十一章、覆面の男ふたりが怪しい粉末を売っていたことが判明する。ここまでが、おおまかな伏線の流れである。これまでの示唆急文で、未堂棟は、大村家が飲み水を余分に確保していることを怪しんでいた。植物から危険物をつくっているのではないかという疑いである。もっとも怪しい場所は下屋敷である。そのなか、屋根を開閉できる書院は、作中で唯一、隠しながら育てられる場所となっている。こうして、十三章の地下室の発見に繋がるというプロットである。

〔十三章6計〕一章で別府は八月にもかかわらず、異常な寒さを感じていた。別府の独白である。第三者的な目線から、旧暦の八月である点を強調している。ちなみに作品舞台の時期、寛政暦、天保暦、阿片戦争、日食、書物出版日などの年代日付は、意図的に省略している。総括的な江戸時代後期となっている。

〔十三章7計〕菊太郎の死体は最後に発見されている。老女中の千代が述べているとおり、菊太郎の姿は、事件まえに、だれも見ていない。これは重要な証言である。六章に検分がはじまる。菊太郎の死体は佐々木と昌村の死体よりも痛んでいた。離れ座敷の倒壊に巻きこまれ、死体の発見がおくれたからであり、破片に貫かれたせいでもあった。別府は離れ座敷の倒壊は、建材がもとから腐っていたせいだと考えたが、最終章で犯人が意図したものだったとわかる。蛇崩池の濁流によって、意図的に倒壊させたのである。

〔八番2京〕一番三番五番の歌詞から、視点者が貿易関連の流通会社に勤めている営業マンだとわかる。業績は上手く行っておらず、赤字がつづいている。いっぽう、二番四番六番では逆に、貿易が上手く行っており、逆転勝利のすえ、アメリカ、中国中東、イギリス相手に大勝利したとまで語っている。不自然な言及である。これだけではなく、ワークワークの歌詞のなかには『食料2生産1』、『資産』、『遺産』、『シリアルメーカー』、『自由の女神』、『輪にかけ即移動』、『伐採』、『アルミニウム社』、『鉱物』、『ジュエリー社』、『それぞれの国名』、『経済による勝利』、『ババイェ』などが登場している。こちらも、すべて意図のある言及である。

(B)今現在の手掛かり(読者への挑戦以降)

①犯人の誘因

②証言による補強

〔三答制Ⅲ〕今現在の手掛かりはあくまでも追補であり、読者への挑戦以前の手掛かりもとうぜん、作中にいれている。経子は二章、作間は八章、上野は九章、それぞれ日食時の行動が語られている。容疑者の四人のなかで三人は、ほんとうの殺害時刻にアリバイがあった。未堂棟は三答制の最後、容疑者を全員登場させ、裏付けを行っている。読者への挑戦よりもまえの証言に虚偽がなく、三人のアリバイが正しかったことを九兵衛に再確認させている。典型的な証言による補強である。最後のひとり、瑞木が日食時、どこにいたのかは、一章と二章で明示している。読者への挑戦がはいっていないミステリーならば、証言による補強だけで解決に導いてもいいが、不束三探の作品では前過去の手掛かりと組み合わせることにしている。この【第九】今現在の手掛かりは、犯人へのとどめの一撃となる。

③新証拠


【第十】手掛かりから導き出せる解決方法


(A)真犯人への消去法

①犯行現場の行為故に可不可

〔三答制Ⅱ〕犯人は氷の凶器を使った。江戸時代の八月に、氷を準備できる者は少ない。つまり、氷の凶器を用意できた人物が犯人となる。容疑者のなかで氷にかんする仕事をしていた人物はひとりだけである。令室をもち、ふだんから氷を売っていた瑞木だけである。

〔三答制Ⅲ〕犯人は日食を眺めに、天井窓へとのぼった大村昌村を殺害した。日食中が犯行時刻になる。日食時、経子は台所で料理をしていた。作間は畑仕事をしていた。上野は江戸東部に向かっていた。容疑者のなかで、大村昌村のいた土倉に、居合わせることができた者はひとりだけである。一章内に描写しているとおり、瑞木だけである。

②犯行現場以外の行為故に可不可

〔三答制Ⅰ〕佐々木の木刀は犯行現場より離れた場所に置かれていた。しかし、これは偽物の凶器である。偽物の凶器をわざわざ無関係の人物が置いたとは考えられないため、犯人の仕業である。容疑者のなかで、偽の手掛かりを用意できる人物はかぎられている。佐々木の木刀を盗むことができた人物だ。佐々木の木刀は剣術道場の裏手に置かれていた。容疑者のなかで出入りしていた者はふたりである。経子は佐々木の練習後に来ていない。瑞木は練習後にあらわれている。つまり、剣術道場にはいり、盗み出すことができた者は、石水槽の水を補充していた瑞木しかいない。したがって、瑞木が犯人になる。

(B)仕掛けへの類推解釈

①実際にある既知から類推解釈

〔十三章4計〕無月の水は動機の謎にも、多くの伏線を張っている。被害者の三人は書院地下では危険な粉末薬をつくっていた。菊太郎が売り、佐々木が案内し、昌村が容認していた。この粉末の正体は阿片である。江戸時代後期には、隣国の中国大陸で阿片戦争があった。当時、阿片が手にはいりやすい状況と阿片が御法度となる状況が混在していた。阿片戦争は義務教育上の日本史で習う範囲である。読者にとって、既知だと判断した。主体伏線の順番としては、三章に変死体、八章に大陸産の薬、九章に植物本と上水の過剰管理、十一章の粉末阿片の回収となっている。どこかで読者の目にとまっていれば、うれしい。

〔十三章6計〕江戸時代は旧暦である。新暦の日付と一ヶ月ほどの差が生じている。新暦への移行は明治時代からである。現代と江戸時代では、時間的な差異がある。それをトリックとして利用した。改暦も既知かと思われる。この誤認によって、気温差が生まれ、八月に氷を使用するという着地点に説得力を与えている。なお、江戸時代において、夏という呼称は、現在の春(四月五月六月)を含むので、八月、葉月、夏過ぎ(婉曲的な秋)というニュアンスをとっている。あえて、ところどころに夏ということばを使うことで、八月=葉月=『真夏という誤認』へと誘導している。

〔八番1京〕ワークワークでは、賞与ボーナスとログインボーナスを誤認に使っている。会社勤めの者に夏と冬にボーナスがあることは既知だと言える。また、さいきんのゲームではコンシュマー問わず、ログインボーナスというシステムが導入されている。こちらも認知度は高い。ボーナスという共通したことばを、叙述トリックに利用したのである。

〔八番2京〕ワークワークにはゲームの内容が含まれている。ただし、賞与ボーナスとログインボーナスという一般知識とくらべて、こちらは絶対的な既知だと言い切れない。当該のゲームをプレイしたことがあるかどうかに左右される。叙述曲に出てくるゲームは架空のものにしているが、一部、参考にした作品が存在している。不自然な言及に列挙している単語は、元ネタのゲーム内に出てくる用語である。架空のゲームだと濁したほうが、よかったのかもしれないが、不束三探の性格上、明記しておきたかった。ご存じのとおり、「シヴィライゼーション」と「Baba yetu」である。とくに「Baba yetu」はゲーム音楽史上初の快挙となる、グラミー賞を受賞している。認知度が高く、既知のほうに分類した。シヴィライゼーションは海外ゲームである。ゆえに、日本パートの月日は日本語(一月三月五月)、海外ゲームパートの月日を英語(フェブラリーエイプリルジューン)にしている。

②作中の言及から類推解釈

〔十三章1計〕風呂敷内にあった、佐々木五郎を殺した木刀、大村菊太郎を殺した組紐、大村昌村を殺した小刀は、偽物であり、殺人に使われていない。十章の師範代との会話、十一章の検屍医との会話により、発見された凶器とは、ことなる凶器を使用したことがわかる。木刀に付着していた血は、殺害時ではなく、練習時にこびりついたものだった。犯人はそれを目撃する機会があったゆえに、利用したのである。

〔十三章2計〕十一章、検屍医から被害者の傷口の状況が語られている。大村昌村は揉みキリのような形状の凶器で殺されていた。現場付近から凶器は見つかっていない。揉みキリと類似した形、ほんとうの凶器は、冬場にだれでも一度は見たことがあるものだ。ゆえに言及箇所から類推解釈ができると判断した。犯人は蛇崩池を氾濫させている。敷地内に濁った水がはいっている。死体のそばからは泥水ではない透明な水が発見されている。この濁った水と透明な水の相違点によって、ほんとうの凶器を導き出すことができる。

〔十三章3計〕犯人は蛇崩池を氾濫させ、敷地内を泥水でみたした。だからこそ、なにが凶器か、すぐに思いつける。十一章、未堂棟はそう語っている。無月の水の根幹である。江戸時代の氷の保存方法は一般的な既知ではないが、二章に冷えた洞窟、八章で氷屋の説明をしているため、作中の言及から推理できるはずだ。

〔十三章5計〕大村昌村は日食に関心をもっていた。一章に、瓦版やおふれについて記述している。蛇崩町の住民にとって、周知だった点を提示している。五章の土倉では、望遠鏡と瓦版を発見する。八章と九章で大村昌村が万屋で買ったものだと判明する。どうして望遠鏡が土倉内にあったのか。被害者がどのように使うつもりだったのか。ここまで考えれば、おのずと密室殺人の様相がかわる。べつの時間軸でも犯行が可能だったという事実に思いあたるはずだ。

〔十三章8計〕日食が気温を低下させるのは既知の事実だが、念のために一章で別府の口から、寒さを語らせている。気温低下は氷の凶器を遠方から運ぶことへの説得力に使っている。夏過ぎだと、つららを維持できないのではないか。この反証材料を気持ち、さげるためである。旧暦の差と併用している。日食を登場させた理由は被害者を天井まで誘導させる密室トリックが主的だが、死体の腐敗をおそくする意味も有している。日食時の気温低下は、土倉内の低気温維持にも繋がる。土倉内に落とした氷も長時間、効くだろう。

③言及箇所の推理から類推解釈

〔十三章7計〕生前の菊太郎は目撃されていない。そして、蛇崩池の氾濫は犯人が引き起こしている。別府は六章にて、建材がもとから腐っていたという判断をしたが、じっさいは離れ座敷を倒壊させるために犯人が仕込んだことだった。未堂棟が同章に確認をとっている。犯人は菊太郎を新月の夜よりもまえに殺していたのだ。菊太郎が絞殺されていたことも、そのためだ。血痕から殺害時刻を判断させないためだった。六章以前で彼の姿を見ていないこと、離れ座敷の倒壊が死体の発見をおくらせ、ふかく傷つけたこと、十一章で凶器が組紐ではないこと、未堂棟の示唆急文を含めて、じっさいの犯行現場と犯行時刻がことなることを推理できる。


カテゴリー論およびミステリー類別の系譜における参考文献の明記

「弁論術、詩学、分析論など――アリストテレス」「三つの棺――ジョン・ディクスン・カー」「探偵小説の歴史と技巧――フランソワ・フォスカ」「探偵作家論――ヘンリー・ダグラス・トムソン」「続・幻影城――江戸川乱歩」

作品名および作者

「大尖塔――不束三探」


『スリーアクト』


【第十一】一章必殺の序幕プロット


(A)殺人の伝聞に関する展開

①未解決の殺人事件

②解決済みの殺人事件

〔一章2形〕一章より過去に蛇崩町の水番人だった作間藤三郎が斬り殺されていた。水騒動である。犯人と報告されていた人物は切腹していたが、同心の再調査によって、じっさいは領主の大村昌村の犯行だと判明した。主人公一行は大村昌村に対して、追加の罪科を与えに、蛇崩町に来たのだった。水騒動による殺人事件は、ほぼ、解決済みである。ただし、土倉内に主犯格の大村昌村が蟄居しており、この前提から連続殺人事件へと繋がる。

③逸話上の殺人事件

(B)死体の発見に関する展開

①直接的な死体の発見

②目撃者の通報に準ずる急転

③その他の殺人に関した目撃


【第十二】サスペンスリーダビリティ・スリルの中幕プロット


(A)想像喚起のホラー

①非日常・死体・殺人の見聞

〔一章1形〕冒頭に作中でも、とくに重要な場面をいれている。昼の日食は、夜の無月を示唆している。表の日食、裏の無月。両者の表裏は、トリック、動機、サスペンス、すべての事象に関与している。ほんらいならば、三幕構成の先頭に一章必殺が来るのだが、無月の水では、この非日常の見聞を『早め』に位置している。別府を含めて、住民たちは太陽が喰われていく現象を目撃している。その場面のあとに、過去の殺人事件の話題へと移る。一章必殺が語られる。推理小説のはじまりとしては悪くないのではないか。

②名前在りの幻想

③事件性の高い逸話

〔二章3形〕蛇崩町では本編の殺人事件より以前に、奇々怪々な事件があった。変死体が連続して発見されていたのだ。変死体の初出は、二章の終わりから三章にかけて語られる。事件性の高い逸話を全編にわたって、挿入することで、作者なりに十三章の解明編を印象付けようとしている。二章の終わりからつづいている話なので、三章の分類は省いた。

〔八章14形〕八章、変死体とかかわりのふかい容疑者の話を出している。上野である。水騒動のすえ、作間藤三郎は殺害された。藤三郎の怪しんでいた相手が上野である。上野が意図的に病気を流行らして、大陸産の薬で利益をえようとしていたのではないか。八章時点では、この疑いがおおきいものの、じっさいには、もっと悪意のある事件が起きていた。不束三探はスリープロールの分類に、『強敵の上の最強敵』という括りをつくったが、似たようなもので、悪意のうえに江戸時代史上、最大の悪意がひそんでいる。

〔十一章15形〕未堂棟たちは長屋で、目撃者の話をきいた。覆面の男たちの売っていた粉末を手にいれる。この粉末の正体は、十三章、未堂棟の口から語られる。犯人が三人を殺害した真の動機におおきくかかわる違法物である。水騒動から端を発し、二章+三章、八章、十一章、広範囲に伏線を張った。あとから読みかえせば、この事件性の高い逸話が犯人に、明確な動機の色を塗っていることがわかる。

④大きく逸脱した挿入場面

⑤被害者たり得る孤立

⑥閉ざされた場所・危険な一帯

(B)直接展開のテラー

①異常な死体の目撃・移動直後に死体の発見

〔四章8形〕四章では、蛇崩池の氾濫のほうが、よりテラー的である。もちろん、下屋敷の裏口に移動した直後、佐々木の死体が発見されているが、六章の菊太郎の死体を含めて、第三者の報告に次いでいる。間接的な展開と言える。いっぽう、大村昌村の死体はじかに目撃する。別府たちは領主の無事をたしかめに、土倉へと向かった。氾濫の影響で、泥水が土倉内にはっていた。侵入されていないと安心する。しかし、密室の封を解いた途端に、それは否定される。別府たちの足下へと、大村昌村の顔が滑りこんできたのだ。胸を一突きにされていた。異常な死体の目撃である。この一連の流れは、幻想ミステリーパートとも言える。

②連続殺人・連続死体

〔四章9形〕無月の水では、一章必殺のあと、四章から死体が発見される。ほかのシリーズとはことなり、あいだを置かず、連続的に死体が発見される。四章の最初に佐々木五郎の死体、四章の最後に大村昌村の死体、どちらも同じ敷地内で発見されている。濁流を排水しながら、順々に登場させている。氾濫のなかの連続死体であり、映像的なインパクトを有している。とくに先の後、大村昌村の死体が土倉から流れてくる場面は、幻想小説を意識した。非常にスペクタクルな死体の登場となっている。

〔六章10形〕五章の最後に報告を受け、六章の最初に大村菊太郎の死体を検分している。佐々木と昌村よりも死体発見がおくれることになった。下屋敷の倒壊に巻きこまれていたせいか、菊太郎の死体は傷ついている。直接的な死因は絞殺である。最後の死体発見となる。無月の水は、三章から六章まで、後の先の後が強く示された『ジェットコースタープロット』になっている。三章先に変死体、三章後に氾濫、四章先に佐々木の死体、四章後に昌村の死体、五章先に現場検証、五章後に新死体、六章先に菊太郎の死体の検分となっている。作者なりに息をつかせない展開を試みている。読者を少しでも惹きつけたい一心である。

③証拠隠滅および参考人・仲間への殺人

④登場人物の暴走および変貌

⑤口論・喧嘩・破損

〔六章12形〕老女中の千代は、被害者の菊太郎と容疑者の作間政信が口論していたところを目撃していた。六章である。作間政信は義兄の藤三郎が殺されたことで、大村家へと抗議に来た。しかし、最終的には菊太郎によって、袈裟斬りにされる。ご存じのとおり、菊太郎は犯人によって殺害されている。よって、作間政信が容疑者の有力候補として浮上することになる。

⑥異性間の問題

〔六章11形〕老女中の千代は、女性問題についても証言した。被害者の菊太郎が女中の経子に手を出そうとして、同じく被害者である佐々木にとめられたという事件だ。経子と佐々木は昔なじみである。菊太郎は両者の上司にあたる人物だ。男女問題をにおわせている場面だが、じっさいのところ、べつの問題が背景にあった。事件性の高い逸話と合わせて、十三章にて、大村家の秘密へと導かれる。

〔七章13形〕七章、別府は千代の語った揉め事について、経子に確認をとった。佐々木は経子を異性として守ったわけではなかった。経子と菊太郎がふかい関係になることで、弊害が起きるという話をしていたらしい。これは真実、経子が長屋に住んでおり、菊太郎が覆面をつけていても、声で気がつかれることを危惧したからである。別府は、経子が佐々木に強い恋心を抱いていることを察した。その情念は犯行の動機になりうるものだった。

(C)未確認のサプライズ

①スパイ・内通者

②誤逮捕・誤取調・誤情報

③脅迫・操りの発覚

④意外な人物の意外な登場

⑤その他の意外な事実


【第十三】サスペンスリーダビリティ・アクションの中幕プロット


(A)プレアクション

①発見劇

②突入劇

〔四章6形〕別府と未堂棟は、氾濫中の下屋敷へと足を踏みいれる。裏口にて、佐々木の死体を発見するが、それ以上、さきに進むことはできなかった。町民の協力をえて、泥水が捌けてから、中庭へと向かった。別府は氾濫の強烈さを目のあたりにしながら、土倉へと走った。背後の蛇崩池に対して、漸層法を用いることで、突入劇の印象を高めている。

③追跡劇

④脱出劇

⑤逃走劇

(B)セントラルアクション

①格闘戦

②射撃戦

③隠密戦

④走行戦

⑤心理戦

(C)ダイアクション

①クリフハンガー・ハードボイルド

②大爆発・崩壊劇・屋体崩し

〔三章4形〕蛇崩池の氾濫によって、大村家の下屋敷が崩壊していった。濁流は敷地内に流れこんでいる。ほとんどの建物は崩壊していた。氾濫による崩壊劇は、平穏だった一章と二章の風景を一変させることになった。この屋体崩しは、三章の終わりと四章全体で描写した。氾濫を調べに来た直後、見知った死体が連続して発見されたことにより、死に面したダイアクションからミステリーパートへと移行させている。もちろん、十三章でわかるように、蛇崩池の氾濫はトリック、リトリック、フラグアトゥルー、すべてにおいて、犯人の利用材料となっている。

③感染・汚染・伝染

④阿鼻叫喚・死屍累々

〔四章5形〕未堂棟と別府が裏口にはいり、佐々木の死体を発見するまでの道中、蛇崩町周辺の阿鼻叫喚が描写されている。人々はあまりの出来事にことばをなくし、立ち尽くしている。門番たちは見張り台にのぼり、助けを呼んでいる。そこに殺人の知らせが木霊する。瑞木の声である。四章はじまりの阿鼻叫喚は、四章前半からの連続的な死体の発見という死屍累々へと繋がる。


【第十四】サスペンスリーダビリティ・ドラマの中幕プロット


(A)クライム

①誘拐劇・人質救出

②犯罪集団の悪事・対峙

③詐欺・窃盗などの犯罪全般

④消滅時効・法廷関係など

(B)アドベンチャー

①未知・有事・旅情の冒険

〔四章7形〕四章では凄まじい有事が起きたあと、危険を冒しながら、人命救助へと向かっている。有事は蛇崩池の氾濫だ。崩壊中の下屋敷を移動することが冒険にあたる。目的地点は土倉だ。未堂棟と別府は下屋敷の裏口、下屋敷の中庭、下屋敷の土倉と濁流を押しのけながら移動している。大村家の領主の安全をたしかめるための移動であった。別府は土倉の扉がとじていることに安心する。しかし、じっさいにひらいてみるまで、箱内の猫が無事かはわからない。

②時間制限・タイムリミット

③同時進行・リアルタイム

④動機・追憶の捜査

⑤遺言書・隠し物の在処

(C)バイオレンス

①犯行声明・劇場型犯罪

②デスゲーム

③無差別殺人およびテロ事件


【第十五】落ち生まれ結びの終幕プロット


(A)最終主題の落ち

①前半の落ち

(イ)出落ち

〔十三章16形〕無月の水では、未堂棟が罠を張り、蛇崩池で待ちかまえていた。犯人は真夜中の蛇崩池にまんまと登場する。蛇崩池の水門を壊そうとしたところで、未堂棟がとめにはいった。はじめて犯人の正体が判明する。十三章の最初に展開させており、典型的な出落ちである。ちなみに、花鳥風月では、最終章、犯人の指摘場面をそれぞれ、べつのパターンでつくっている。常に読者を飽きさせないようにしたいと考えているからだ。仁鳥の餌では犯人を現場のちかくに誘きよせ、新証拠を突きつけている。山風の杭では未堂棟たちのほうから犯人の自宅を訪問し、盤上外にいた被害者を登場させている。飛花の命では全員を集めたあとに推理をはじめ、ふたたび、遠方に移動している。無月の水では犯人を誘きよせたあと、ほかの容疑者と途中合流し、三答制の三をみなのまえで披露する。読者への挑戦後という定型のなかでも、様々な可能性があることを示したかったのである。

(ロ)拍子落ち

〔十三章17形〕最終章に連続的な推理がはいるパターンを拍子落ちに分類している。不束三探の作品では、叙述曲と後日談ミステリー以外は、ほぼ拍子落ちである。犯人は貴方だという提示を三回、くりかえす。質の高い納得を提示するためである。一回目は作業による時間トリック、二回目は凶器トリック、三回目は密室トリックである。自然現象利用のトリックを含めながら、容疑者のアリバイを再確認し、犯人に逃げることのできない結論を突きつけている。類別プロット表では、二回目の三答制のあとに位置している。ゆえに、中落ちという呼び方もできる。

②後半の落ち

(イ)後日談落ち

(ロ)捌け落ち

〔八番1景〕ワークワークの場合、「やっと先月、勝利した。ターン制ストラテジー。勝ち抜き戦の世界一」という歌詞がある。先月以前は、ジューン、フェブラリー、エイプリルの歌詞を指している。八番までのあいだに、複数の場面が隠されていた。それによって、いっぽうの行為が誤認されていた。八番にて、いっぽうの場面がターン制ストラテジーだったことをあかしている。

(B)最終展開の生まれ

①人間性

(イ)恋愛の進展

(ロ)愛情の確認

②文学性

(イ)登場人物の成長

〔八番2景〕視点者は仕事に対して、後ろ向きの言及をしている。一番に「仕事なんてもう嫌だ」、三番に「営業なんてもう嫌だ」、五番に「貿易なんてもう嫌だ」と漏らしている。しかし、七番で国内流通のほうでは結果が出ており、視点者の仕事が報われていたことが判明する。ここまでの努力は「ゲームと仕事のターン制」があってこそであり、だからこそ、「あしたの日々もがんばれる」という前向きな結論にいたっている。

(ロ)社会性の変化

〔十三章18形〕無月の水では物語の冒頭に、飲み水の供給問題と変死体の謎を提示している。どちらも現在の水番人、大村家の秘密にかかわっている。大村家の用人である佐々木が協力していた。その背景に、蛇崩町の貧困問題がある。未堂棟は殺人事件の解決をした際、作間政信と炊馬経子のふたりを水番人に任命した。あたらしい水番人の誕生は、明確な変化でもある。ふたりの手によって、蛇崩町の治安と貧困の改善が示唆されている。さらに、俯瞰的な観点から、明治維新後の薬物法にも言及している。蛇崩町と江戸幕府、ミクロとマクロ、両者のポジティブな変化を描写することで、社会全体の変化をあらわしている。

(C)最終段落の結び

①修辞技法の利用

(イ)比喩結び

(ロ)レトリック結び

②物語の利用

(イ)考え結び

(ロ)逆さ結び

③登場人物の利用

(イ)仕草・行動結び

〔十三章19形〕無月の水の最後に未堂棟は涙を流し、両目をとじている。犯人の熱をもった感情に想起したものだが、それは描写表現だけでは足りない。類別プロット表で示している量をじっさいに見せていくことにより、読者にふかく伝わるはずだと考えている。読者がじかにページをめくり、目にしてきた伏線の量が、実感として、上乗せされるからだ。登場人物が試行錯誤し、解決へと導いたという文章は一行で終わるが、じっさいにどれほどの数をへたのか。その経験をつうじた提示は、文章よりも有言である。326回の発想は、未堂棟、犯人、不束三探、読者ともに、涙を流すほど、熾烈なのである。だからこそ、最後に登場人物の熱意が報われた瞬間、はなたれる。人間が生きていくことへの比喩が誕生するのだ。日々、辛いことがあっても、伏線回収されるあすを信じられるようになるのである。最終章の順番としては殺人事件が解決する。社会性が変化する。登場人物の感情が発露する。未堂棟の落涙という終わり方になっている。

(ロ)台詞・題名結び

〔十三章20形〕ほかのシリーズと同じように、『両目を閉じるが終』というおきまりの台詞でむすんでいる。無月の水という題名は、日食時(新月時)に用いる氷の凶器を意味している。ダブルミーニングだ。前日の日食は無月だが、後日の新月も無月になっている。日食時に大村昌村を殺害し、新月時に佐々木を殺害している。どちらの殺人も、月が見えていないときに、氷(水)を利用している。ゆえに、この作品の題名に無月の水を選んだ。

〔八番3景〕ワークワークの最後は、「ババイェ」である。このババイェはダブルミーニングとなっている。ひとつはもちろん、ゲームであることの伏線だが、もうひとつは、ゲームの起動をあらわしている。参考にした「Baba yetu」は、もともと、ゲームのオープニングに使われている曲名である。だからこそ、一番三番五番の歌詞の最後にババイェを使うことで、つぎの歌詞パートがゲーム内のもの、起動画面だと示しているのだ。八番のババイェも同じである。描かれていない九番が予期できる。八番の終わりものババイェもまた、視点者が次パートからゲームをはじめる示唆になっている。考え結びの色をのこした台詞結びだ。


『リーダビリティレトリック/不束式レトリック』


【第十六】受動―能動に関するレトリック


(A)列挙法

〔二章6型〕大村昌村は作間藤三郎を殺し、縁者を困窮の道へと追いやった。ここまでは問題だった。しかし、大村家は事件後、作間家の親縁を贔屓にしていた。瑞木新七は水屋、炊馬経子は女中、作間政信は新田作り、上野左衛門は万屋、いずれも食べていけるように便宜を図っている。

〔三章11型〕別府は順番に見上げていった。下屋敷の表門。蟄居している土倉。佐々木と話した武家屋敷。出入り口となった裏門。すべてを見終わると、目線は一点にとどまった。さきほど、おとずれたときには注目しなかった。気づかなかった。下屋敷のすぐうえに、蛇崩池が広がっていた。

〔五章26型〕殺しに関係しているものもあるかもしれない。別府は入念に見回した。読めなくなった瓦版。阿蘭陀の望遠鏡。長細いござ。木綿の布団。夏用の夜着。大きめの括り枕。めぼしい遺留品はない。犯人が利用できそうなものも、見当たらなかった。

〔五章28型〕「氾濫の過去を知っている者はだれがいる?」「わたし、作間政信さん、上野左衛門さん。……亡くなった藤三郎さんを除けば、この三人です」水屋の瑞木、農夫の作間、万屋の上野。別府は職種と関連付けながら反芻した。

〔六章32型〕未堂棟の左目は、確実に事件の元凶を捉えていた。しっかりとひらかれた両目のさきは蛇崩池だった。視線が順番にさげられていった。東水門、外壁、書院、下屋敷、表門、どれもまっすぐにつづき、ゆるやかにかたむいていた。壊されなかった東水門には、まだ大水が溜まっていた。破壊されなかった書院、変死体の意味するもの、覆面の男の目撃、別府にはわからないことばかりだった。しかし、未堂棟はちがっていたようだ。壊されなかった水門のさきが書院に向いていることを見逃さなかった。無傷で済んだ書院をにらんでいた。もっとも重要となる場所を、けっして、見逃さなかったのである。

〔七章33型〕思いかえせば、蛇崩町の入り口から行人坂までは商店が立ちならんでいた。鍛冶屋、呉服屋、八百屋、魚屋、行人坂の表通りには人々が集まり、てんやわんやと賑わっていた。「しかし、西区画の裏通りに少しはいっただけで、様相がことなる。大店の商店はひとつもない。所狭しと長屋がひしめきあっている。裏長屋、棟割長屋、割長屋……」まるで武蔵国そのものがかわったようだった。ひとつ、ふたつ、木戸をこえるごとに高い建物はへっていった。ちいさな商店すら消えていた。

〔七章37型〕別府は順を追って、瑞木に説明した。経子が疑われている事実、西区画の木戸のしまる刻限、佐々木の犯行のあとに彼を殺したのならば、経子の犯行が可能になる点、彼はうなずきながら理解をふかめていった。

〔八章40型〕別府は山のあいだに抜け道がないか見た。どう迂回しても、五つの山に差しかかるようだった。……たしかに、むずかしい。当時は現代とちがって、主要の街道以外は整備されていなかった。細い道、飛び出た岩壁、ひとりでしかわたれない木橋。大概、山をこえるときは、馬をおりて、引っ張らなくてはならなかった。早馬で時間を短縮するのは、むずかしいどころか、不可能だ。

〔八章41型〕「ああ、もちろんだ。切り絵図には川の流れまで書いてあった。湯島からもっともちかいのは江戸川だ。すぐそばにある」切り絵図によれば、江戸川は宿屋からまっすぐ進んださきにあるらしい。作間も認めるように顎を引いた。「その江戸川を南下すると大川、江戸の内海、目黒川、そして、もっともとおくにあるのが蛇崩川だ。蛇崩川をおりたさきに蛇崩町がある。下屋敷にもちかい」

(B)列叙法

〔一章3型〕蛇崩町の表通りの道は長く、始点から平坦ではなかった。行人坂と呼ばれる坂道へとつづいている。道中を行き交う人は多い。瑞木は人々のあいだを縫うように駆けていった。別府は彼の向かうさきを見上げた。白塗りの大屋敷がそびえ立っていた。日食の漆黒に負けないほどの白妙だった。行人坂の頂上である。瑞木の行き先は別府と同じだった。表通りの終点だ。

〔一章4型〕当時の瓦版、いまでいうところの新聞には、大村家の水騒動と書かれた。飲み水の奪い合いである。江戸時代では城下町が広がるにつれて、玉川上水と神田上水が飲み水の供給源として整備されていった。清浄な飲み水が木樋をとおって、それぞれの町に流されていった。木樋のとどかない町では、平民が湧き水や雨水を濾過していた。しかし、その木樋が城下町の外れまでとどくようになると、問題が起きた。重要性が極端にましたのである。水路の要所を管理する水番人が必要になってきた。水路に毒物を流されたり、上水に腐乱死体が浮かんでいると、城下町におおきな被害が出る。綺麗な飲み水が無事、分配されているのか、見張りが必要になった。いままで、蛇崩町の水場を管理していたのは、平民の作間藤三郎だった。しかし、あたらしく蛇崩町の領主になった大村昌村が介入をはじめる。水番人の作間と大村のあいだで軋轢が生まれたのである。作間は、蛇崩町に満遍なく、飲み水を行きわたらせようとした。いっぽう、大村昌村は自分たちの住まう下屋敷に、多くの飲み水を確保しようと動いた。双方の天秤が釣り合うほどの水はなかった。奉行所はお互いに話し合うように指示した。役人が動けば、武家側に配慮が生まれるかもしれない。そうなると、住民の不信感を生みかねない。静観をきめこんだのだ。そして、悲劇が起きたのである。飲み水ではなく、ひとりの命が奪われた。

〔二章8型〕経子は軽い足取りで坂道を曲がった。石階段をおりていった。別府もつづこうとした。ふと立ちどまる。正面の行人坂を見た。坂道はゆるやかに地面をかたむけながら、宿駅までつづいていた。蛇崩町の表通りだ。となりの脇道は裏通りだった。とおくに長屋が見えていた。作間藤三郎は下屋敷のそばの長屋で殺されたはずだ。……このちかくで暮らしていたのかもしれない。別府は過去の殺人に思いを馳せた。すぐに彼女の背中を見失わないように追いかけた。いくつかの木戸をこえる。北の弐丁目には小川が流れていた。小川の両端は木樋によって遮られていた。新田へとつづいているようだった。東の壱丁目をこえると、小川は完全に消えた。行き交う旅人の数がへりはじめる。そのかわりに走りまわる子どもがふえてきた。徐々に、別府の視界にとおくの景色がはいらなくなる。地形がかわっていた。身体が楽になった。足に力をいれなくても、身体がかたむかなかった。平坦な道だ。蛇崩町の坂道が終わったのだ。

〔二章9型〕経子はその内容を完全に思い出すために立ちどまった。遠方をにらんでいた。一点を見つめていた。動かない。彼女の視点だけが手元にちかづいていることはわかった。瞳孔が徐々にひらいている。黒目がおおきくなっていた。自分の心のなかを見ようとしている。彼女の変化は突然、やってきた。思い出したのだ。経子の両肩はふるえはじめていた。両目の瞳孔はひらいたままだ。黒目が左右に、はげしく動きまわっていた。何度も口をひらき、何度も口をとじていた。彼女の全身は細かく動いていた。怯えていた。別府は右手をあげた。会話のつづきをうながした。彼女の両肩はびくっと、ふるえる。振り絞った声は抑揚を失っていた。

〔四章16型〕裏門の通い路といえども、訪問客への対応は高水準で維持されていた。しかし、現在は見る影もなくなっている。板張りの壁は役割を果たしていない。隙間からとめどなく泥水がはいっている。踏み場は泥濘にかわっていた。土間の飾り棚は、すべて地面に落ちている。居間の障子戸は何者かの手によって、やぶられていた。わずかにのこった障子には、おびただしい血痕がこびりついていた。鉄砲水に飲みこまれただけではない。土間で惨劇が起きたのだ。どうやら招かざる客への対応は、上手く行かなかったらしい。

〔四章17型〕瑞木新七は居間のさきに、人差し指を向けていた。別府はゆっくりと首をまわした。障子戸のうえに右足がのせられている。太股と足先が目にはいった。彼の身体は居間ではなく、土間に向かって倒れているようだった。彼の右足は、ぴくりとも動かない。

〔四章18型〕別府は唾を飲みこんだ。自然と呼吸があらくなる。……佐々木の状態を確認しなくてはならない。まだ……彼の息が……あるかもしれない。別府はじりじりと、にじりよった。水面の波紋が奥に広がっていった。進むほど周囲が暗くなる。別府は居間に目を向けた。倒れた椅子のしたに蝋燭と火種箱を見つけた。まだ火がのこっていた。慎重に蝋燭の先端に移した。三つ編みの藺草に火が灯った。蝋燭を皿燭台にのせる。土間はわずかに照らされた。土間のまわりにも血痕が散らばっていた。一点に飛び散っているのではなく、まばらに広がっていた。別府は息をととのえた。ふたたび歩き出した。

〔四章19型〕「だいじょうぶか……きのうの昼に来た別府だ。きこえているか?」佐々木はなんの反応もかえさない。そもそも両耳が塞がれている。彼の両耳を隠しているのは髪の毛ではない。大量の血液だった。赤い固まりとなっている。別府は佐々木の身体をひっくりかえした。人血が水面に流れ落ちる。後頭部を確認したかったのだ。そして、すぐに佐々木が息絶えているとわかった。脳天は丸みを失っていた。断裂面が見える。皮膚が裂けているだけではなく、頭蓋骨が沈んでいた。水面は真っ赤に染まっていった。致死量の出血だった。別府は首を横にふった。……すでに死んでいる。

〔五章25型〕所沢は不満気に目を見開いた。同心に気おくれせず、口をとがらせた。「瑞木さんですか……。彼は下手人の犯行を目撃していました。同心様の助けを呼んだのも彼です。だから……」「瑞木の犯行を疑うのはおかしいと云いたいのか?」「ええ。わたしはふだんから彼と会話しています。瑞木さんの人柄もよく知っています。人殺しをするような人には思えません」書院に目を向けた。瑞木は室内でざしていた。「もちろん、一見、彼の犯行がむずかしいように思える。瑞木新七は、最初に佐々木の死体を発見した。死体の第一発見者だ。同心である、われわれを呼びこんだ。凶器ももっていなかった。それでも、下手人ではないと断定できない」「なぜですか?」「蛇崩池の氾濫は、下屋敷への侵入をとざしている。下手人は裏門以外からは侵入できなかった。だから、最初に鉢合わせになったのは佐々木だ。おそらく、佐々木は最初に殺されている」「でしたら、その犯行を目撃した瑞木さんでは無理でしょう」「いいや。犯行を終えたあとに、土間へともどってくることはできる。瑞木以外に目撃した者はいない。瑞木が下手人ならば、証言も信用できなくなる。疑いは完全には晴れない」「つまり、瑞木さんは佐々木様を殺害し、そのあと、すぐ昌村様を殺した。なに食わぬ顔で土間へともどり、下手人を目撃したふりをしたということですか?」「そのとおりだ。素早くふたりを殺害すれば、実行できる」「……たいへんな犯行ですけど、たしかにありえますね」「じっさい、下手人は密室の土倉で、どのように大村を殺したのか。蛇崩池の濁流が来るまでに、もどってくる時間はあったのか、慎重に確認しなくてはならない。ただ、ありえない話ではない以上、瑞木の監視が必要だ」所沢は両目をゆっくりと開閉した。黒い瞳を縦にゆらした。

〔五章27型〕別府は両手をのばした。一段目の瓦屋根にはとどかない。……濁流が弱い段階だったら、周囲に、なにか置いていたかもしれない。犯人の計画通りだったとすれば、あらかじめ、目をつけたものがあったはずだ。別府は土倉の外壁を見ながら、周辺を歩きまわる。裏側の漆喰、その一部に汚れがあった。汚れをよく見ると、泥ではなかった。こけだ。周辺を見わたした。荷車が表門の壁によっていた。泥をかぶっている。濁流に押されて、運ばれたにちがいない。こけの高さは荷車より低い。もともと、荷車は土倉に隣接していたらしい。日の光がとどかなかったから、こけが生えたのだ。別府は荷車を土倉まで引いた。濁流がはいるまえと同じ位置に置いた。荷車を足場にする。一段目の瓦屋根を見た。さきほどとはことなり、両手でつかめる高さとなった。別府は瓦屋根のうえにのぼった。

〔六章29型〕「この死体はひどく傷ついている」別府は三つ目の死体を検分していた。全身が濡れているのはとうぜんだが、菊太郎の死体には、いくつもの木片が突き刺さっていた。ほかの死体は傷口が少なかったが、菊太郎の死体は全身に肉身が見え隠れしており、痛々しかった。「もともと、建材が腐っていたのかもしれない。屋根から踏みつぶされたように倒れている」別府は目のまえの瓦礫の山を見た。座敷の原型はなかった。濁流によって支柱が外され、すべてが押し潰されていた。建材から鋭利な木片が飛び出していた。菊太郎の傷口には二点、気になることがあった。一つ目は血液の流れ出た跡が見つからないことであり、二つ目はかさぶたのように治癒した形跡がないことだ。濁流に血痕が流されたことも考えられた。しかし、それにしては、傷口の断面が奇妙だった。傷口の開き方そのものが、極端に狭かったのだ。とじた傷口は、死後に切り裂かれた皮膚の特徴でもあった。別府は菊太郎の死亡要因が全身の傷口とは、関係がないと判断した。

〔八章39型〕いまだに彼らは、けたたましく騒いでいた。作間は帯をゆるめた。上半身をはだけさせた。野次馬は一瞬で息を呑んだ。みなが彼の身体を見つめている。左肩から右脇腹まで大蛇がとおったような腫れがあった。股引までつづいていた。「おれみたいな身体になりてえのか。ここで斬り殺されても、同心殿は、なんの罪にも問われねェんだぞ」さきほどの喧噪がうそのように静まりかえった。

〔九章45型〕……なにも見えない。暗い。顔よりちいさい格子窓だけが外と接している。すでに太陽は落ちている。木戸の牢は外よりも暗かった。別府のうしろから手提げの行灯をもった九兵衛がはいってきた。上野は右手で行灯の光を遮っていた。両目を凝らしていた。別府は九兵衛から行灯を受けとり、上野の顔にちかづけた。あまりのまぶしさに、牢のすみへと逃げていった。行灯を椅子のうえに置いた。座敷牢の全体がぼんやりと照らされる。すみずみまで見えるようになった。

〔十章49型〕「ああ……。たしかに無理だね」未堂棟は木のふたをもちあげていた。人差し指を井戸に向けた。「卯吉も見てごらんよ」別府はゆっくりと歩みよった。慎重に井戸をのぞきこんだ。……底が見えない。……水がのこっている。目と鼻のさきに水面があった。井戸のなかは泥水でみたされていた。下屋敷と行人坂の泥水はあらかた排水されているが、ふだんから使われていない井戸は、だれも手をつけていない。泥水の一部は乾いていた。内壁に泥が付着していた。未堂棟は木のふたを井戸にもどした。

〔十一章51型〕自身番の反対側に墨で目印が記入されている。未堂棟は顔のまえで絵図をもった。右手で道順を確認していた。自身番の正面の道をまっすぐ進むと、蛇崩町の大門に出る。そのまま、東地区の方角に行くと、表店のあいだに裏路地がつづいていた。ただし、路地と呼ぶには、あまりにも狭かった。未堂棟は身体の向きを横にした。どぶ板のうえを歩いていった。犬猫のとおり道のような十字路を三つこえた。火除けの空き地のようにひらけた場所に出た。忍びがえしのついた竹の木戸をくぐる。左側に稲荷が置いてあった。総後架と呼ばれる共通の便所も見えた。問屋の元主人が住んでいる長屋はこのさきのようだった。用水路の両脇には、蕎麦屋の行列のように、棟割長屋がつらなっていた。未堂棟は物干し竿にぶつからないように中腰になった。遠目に割長屋が数軒、見えている。もっともおおきい割長屋のまえに男が立っていた。絵図と見くらべた。目印の場所だった。

〔十三章52型〕別府は緊張で息がつまった。心臓の鼓動が犯人にきこえるのではないか。そう心配するほどに高鳴っていた。緊迫感が雷を落とすように左胸をつんざいていた。人影は水門のまえで立ちどまった。行灯はもっていなかった。暗闇につつまれていた。顔が見えなかった。「これで……すべてが終わる……」正面にいる人影の声だった。かちかちと火打ち石と火打ち鎌を叩いていた。数回の往復で火種が生まれた。人影は焔光を引きつれて、水門のくさびへとちかづいていった。……水門が燃やされる。「そこまでです」未堂棟が茂みから姿をあらわした。別府は未堂棟のあとにつづいた。ようやく息継ぎができた。別府は張りつめた緊張の糸ではなく、捕縛するための縄に手をかけた。「やはり、貴方だったのですね」


【第十七】同語―照応に関するレトリック


(A)反復法

〔一章1型〕太陽は出ているのに、太陽は出ていなかった。別府の思考は平常だったが、別府の周辺が平常ではなかった。いまの季節は葉月だ。天候にはなにひとつ問題がなかった。ほんらいならば、燦々と照らすお天道様に悩まされているはずだ。出かけるまえに、鐘の音もきいていた。刻限もわかっていた。午前よりまえの刻限にまちがいなかった。先週と同じように蒸し暑い晴天が、平常につづいているはずだ。しかし、じっさいには太陽は出ているのに、日の光は差しこんでいなかった。

〔三章13型〕……やはり、すべての人間が大村家を許しているわけではなかった。炊馬経子は期待を裏切られ、生活費に困り果てている。作間政信は家族を奪われ、賭博と酒に溺れていた。瑞木新七は蛇崩町を心配し、大村家を見張っている。上野左衛門は加害者と接触し、なにかを企んでいた。三者三様だ。蛇崩町に暮らしている町民も、大村家に不満を示している。藤三郎が殺されたことで憤慨しているうえに、大村が優先的に飲み水を使うことで、末端の区画は水不足に陥っていた。この点には強い対処をしなければならない。みな、大村家に、ある程度の憎しみを抱いているのだ。

〔四章20型〕きのうの昼に佐々木と話した茶室は見る影もない。とうの佐々木も生きていない。中庭は泥水にみたされている。足の踏み場もない。中庭の中央には立派なひょうたん池があったのだが、その池も見当たらなかった。いまでは大村家の下屋敷、そのすべてが溜め池になっていた。

〔四章24型〕別府は心の底から叫んだ。「犯人はどうやって、大村昌村を殺したと云うのだ!」大村昌村は心臓を一突きにされていた。木綿の肌着に血液がこびりついている。血液は大村の顔までとどいていた。泥水に沈んでいたからか、彼の顔は青白い。青白さは口内も同じである。おおきく口をひらいている。舌尖のうえに青白い水が溜まっている。ほんとうは土色なのかもしれないが、朝日が差しこみ、その水は青白い透明色に見えた。別府は気を取り直した。見張りのふたりに指示をした。

〔七章36型〕「不躾だが、貴方と佐々木はふかい関係ではなかったのか?」「……ただの昔なじみです」経子の黒い瞳は辺縁にさがっていった。表情は憂いにみちていた。「わたしは被害者の、彼のちいさいころを知っているだけで……」喉から絞り出される声量は徐々にさがっていった。ぴんと張っていた両肩も垂れさがっている。細長い指をからませ、腰のまえで弱々しく握られていた。「彼とは下屋敷でしか会いません。今際の際も見ていませんし、どう殺されたのかも知りません……。おわかりになるでしょう。わたしは、ただの女中のひとりなのです」和柄の着物はちぢこまった身体をとおり抜け、真下にさがっていった。肩脱ぎとなる。きめ細かい肌があらわになった。彼女は恥ずかしさなどをみじんも見せない。ただ、悲観に暮れていた。会いたい、見たい、知りたいが恋愛の病だと云う。別府には彼女が恋のさがを抱いているように見えた。少なくとも経子にとって、佐々木はただの知り合いではなかったのかもしれない。

〔八章42型〕「水のほかに氷も売るのか。冬場だけの仕事か?」作間は目を丸くした。抱瓶を離した。腹を抱えた。笑い声が漏れている。足を崩した。不自由な下半身を抱えていた。大笑いをつづけている。別府はむっと顔をしかめた。「すまねえ」作間は膝を叩いた。「役人と云っても、抱関撃柝じゃねえ。身分の高い武士様は、売り買いに関与しねえよな。あまりにも、ものを知らないんだと思ったら、おかしくなっちまった」「……ご教授してもらえるだろうか?」

〔九章46型〕別府はきつく口をむすんだ。九兵衛は口元を、への字にしたままだった。上野はにやりと口角をあげていた。未堂棟ひとりが口唇をひらいた。「――どうして、上野さんは石階段が崩れていることを知っていたのでしょうか。万屋とは関係のない方向ですよ」全員がはっと顔を見合わせた。別府から順番に、塞がっていた口があけられていった。

〔九章47型〕「……すべてはおまえのもくろみどおりか?」上野は相手の様子を探っているようだった。「大村家に水を独占させたのも意図的だった。蛇崩池の氾濫も意図的だ。三つの殺人も意図的ならば、人垣の場所も、もちろん、意図的だったのではないか?」上野は暗闇から、じっと耳をかたむけている。「おまえは万屋の仕事をつうじて、大村昌村と交友をふかめていた。なにかにつけて、飲み水を確保しておくように誘導した。行人坂への木樋をとじさせるためだ。地震や火事などを理由に説得した」別府は早口で息巻いた。「おまえの目的は井戸から水を抜くことだった。遠方に凶器を置くと、すぐに下屋敷へともどり、行人坂をくだった。そして人垣がのぼってくるよりさきに井戸のなかに隠れたのだ」

〔十三章53型〕「ええ。……貴方の云うとおりです。わたしは心配で心配で仕方ないのです。蛇崩町は、おおきな邪なる秘密に、おおわれていました。丸ごと喰われていました」彼のふるえは全身に広がっていた。「その秘密によって、ある者は食べる気力をなくして死にました。ある者は幻覚を語りながら死にました。ある者は呼吸ができなくなって死にました」まるで身の毛のよだつ恐怖を、そのまま声にしているようだった。「変死体です! 水門の破壊がとめられたいま、一刻もはやく、あきらかにして欲しいのです」「いったい……おまえは……なんの話を……」

(B)複数反復

〔一章2型〕……ありえない。身体からは汗ひとつ出なかった。肌も痛くなかった。喉は渇きはじめていた。平常ではなかった。異常な天候を目のあたりにしていた。緊張感から喉が渇いた。蛇崩町は不気味な漆黒が延々とつづいていた。……八月だぞ。別府は胸の内でつぶやいた。本項目→二章7型

〔二章7型〕日食は完全に終わっている。刻限はとっくに正午をすぎていた。見通しがよくなっている。蝉の鳴き声もきこえてきた。別府はそらを見上げた。太陽が完全に出ている。日の光が強く差しこんでいた。身体中から汗が流れ、肌に痒みを感じた。口内から水分を奪われる。いつもの葉月だ。見慣れた光景だった。蛇崩町は平穏な日常にもどっていた。一章2型←本項目


【第十八】高揚―緊張に関するレトリック


(A)漸層法

〔三章14型〕しかし、物事は順調に運ぶものではない。とくに同心の場合は犯人をあげるまえに、喫驚仰天な出来事が起きるものである。蛇崩町にその異変が起きたのは真夜中のことだった。最初はなんでもない、ちいさな風音だった。虫の音よりもわずかな音だった。別府が目ざめることもなかった。その髪をふるわし、寝がえりを打たせるだけだった。別府は安穏の眠りのなかにいた。次第に、そよ風が障子窓をとおりはじめる。何回も何回も隙間風が侵入していた。軽風が絶えず流れこんでいた。微風は就寝をふかくしていたが、その内、断続的な破裂音にかわりはじめる。遠方では凶変が土壁を打ちつづけていた。障害物を破壊していく音だった。直線的に進んでいる。同心の眠る宿屋のほうへと向かっていた。しかし、宿場も長屋通りもまだ、平静を保っていた。東弐丁目に住む者はだれもが寝静まっている。だれひとりとして、悲鳴をあげる者はいなかった。木戸番でさえ、うたた寝している。だが、恐怖はひたひたと忍びよっていた。彼らに向かって、死のにおいをちかづけている。木々をかいくぐり、白い漆喰の壁でとまり、強度をたしかめるように、とんとんと首を打ちつける。外壁は簡単に亀裂がはいった。そして、つぎつぎと、その穿孔のなかに飛びこんでいった。もう風音では終わらない。ついに大蛇は下屋敷に牙を剥いたのだった。最初に目をあけたのは、未堂棟だった。すでに目視できる距離まで、悪意はちかづいていた。遠雷のようにうねりを打ち、風音は轟音にかわっていた。圧倒的な変貌は空振さえ起こしている。連続殺人を彩るための大破壊だった。

〔四章21型〕別府は走りながら後方に顔を向けた。目を凝らし、遠方をながめた。蛇崩池はきのうまで溜めていた水をほとんど吐き出していた。東側の水門だけが無事のようだった。そのおかげで、敷地内の書院まで大水がとどかなかったらしい。しかし、中央側と西側、ふたつの水門が見当たらなかった。上空には煙が立ちのぼっている。赤い火が見えた。……水門は何者かに燃やされたのかもしれない。小山には赤々とした縦線がはいっている。ふたつの線だった。まるで蛇の眼だ。鎌首をもたげているように見えた。胴体を下屋敷へとおろし、長い尾を一周させていた。下屋敷のまえでとぐろを巻き、われわれをにらみつけている。蛇崩池のちかくには水田がつくられていた。夜中で見えないが、別府の目ぶたには、青々とした稲穂が焼きついている。そのせいか、蛇崩池の濁流は段々畑のようにも見えた。いちばんとおくの棚田は蛇崩池だ。水流が南へとゆるやかにつづき、傾斜部分が淡く光っている。小川のせせらぎのように見えた。やがて、せせらぎは林の土を含み、泥流へとかわっている。二段目の棚田になると、泥流は瀑布に変化する。下屋敷の外壁に何度も衝突している。外壁の手前で飛沫をあげ、直進と後退をいまだに、くりかえしている。大蛇はまだ、多量の水を抱えている。外壁のまえは洪水だった。彼らは瓦屋根を飲みこんでいった。木材の基礎と骨組みを浮き彫りにさせていった。外壁の破壊は時間の問題だったにちがいない。度重なる波に漆喰が剥がされ、粘土は水に溶かされる。そして崩壊だ。いまでは外壁の上部に大穴がひらいていた。いちばん手前の棚田は下屋敷そのものである。建物を破壊し尽くし、平面になっている。一定の高さに泥水が張ってあった。泥流の流れこむ北側は滝壺のようだった。大渦を巻きながら、鋭利な木片を巡回させていた。土嚢のなかに踏みこめば、命をとられるにちがいない。せせらぎよりも急流であり、瀑布よりもはげしい濁流になっていた。別府は大蛇が大水と豊穣を司っているという話を思い出した。棚田をかこむように水流をつくっている様は、まさに神様だ。太陽がのぼれば、水捌けもできるが、いまではちかづくのもむずかしい。ひとまずは大村昌村を見つけ、領主の安全を確保するほうがさきだった。別府は前方の土倉に顔を向けた。目的地は目と鼻のさきだった。

〔九章48型〕未堂棟の身体は、地面とほぼ同じ高さにあった。硝子細工のような透きとおった瞳は見えない。目ぶたは完全におりていた。口角は少しあがっている。か細いが、息をしているようだ。別府はほっと胸を撫でおろした。しかし、安心はできない。首元には熱がこもり、顔から胸元まで赤くなっていた。未堂棟の両手は別府の腰をまわって、反対側に流れていた。両足は別府の正面に流れている。苦しい体勢だが、身体を起こそうとしなかった。糸の切れた絡繰りのように、みずからの力を感じられない。腰から足のさきにかけて、細波のようなけいれんを起こしていた。ぐったりと身体が折れている。別府は未堂棟の脇から片腕をいれ、背中に手をまわした。もう片方の手を膝のしたにいれる。綿のように軽い身体をもちあげた。

(B)反漸層法


【第十九】直接―解釈に関するレトリック


(A)直喩

〔三章10型〕最初に勢いがあって、最後に尻すぼみになることを龍の頭、蛇の尾と云う。きょうの別府はまさに竜頭蛇尾だった。ほんとうの犯人に真実を突きつける。そう意気こんでいたが、下屋敷に着いたときにはすべてが終わっていた。大村昌村が犯行を認めたとしても、追加の罪科は与えられない。身分の差を利用した人質が待っている。まるで蛇が蛙を食べているようだった。不格好に膨らんだまま、消化を待っている。そうおうの罪科は真実といっしょに飲みこんでいた。もう吐き出されることはない。

〔三章12型〕下屋敷におおいかぶさるように、溜め池がつくられている。雨水がまんぱいに溜められていた。水面が薄く光っている。陽光を反射していた。光っては消える。光っては消える。そのくりかえしだった。蛇崩池の名前にふさわしい。……まるで蛇の鱗だ。蛇崩池にはおおきな水門が設けられていた。城下町になるまえは直接、新田に流しこんでいたらしい。

〔四章22型〕「返事をしてください。昌村様!」別府は彼の背後から声をかけた。周囲の轟音により、駆けよる足音がきこえなかったらしい。所沢は驚きのあまり、飛びあがった。尻餅をついた。所沢の顔は顔面蒼白だった。喉元を押さえていた。まるで刃物で刺されることを防ごうとしているようだった。背後をとられたことで、自分が殺されたと勘違いしているようだった。すでに敷地内で殺しが起きたことをきいているにちがいない。所沢は硬直していた。手を貸した。立たせる。生きていることを実感させた。「きこえているか?」「は、はい」昌村のかわりに、返事をした。

〔六章30型〕「彼の憎しみのこめられた瞳は、いまでもおぼえています。それはそれは、恐ろしい色をしていました」「どんなふうだったかおぼえているか?」「政信は左肩から右脇腹の先まで斬られ、血を流していました。生血は握り拳のなかに流れこみ、赤い血溜まりをつくっていました。怒ると血がのぼると云います。はじめて、じかに見ました」千代は下屋敷の表門に身体を向けた。「彼はとおくに引き離されるまで菊太郎様をにらんでいました。まばたきをしない眼球は蛇の目のようでした。体外の血はしたに流れているのに、体内の血はうえに流れているようでした」彼女の溜め息は、濁流のように淀んでいる。「政信の目は赤く染まっていきました。ジャノメ傘を両目にはめこんでいる。そう錯覚するほどに、ふかい赤色をしていました。いまでも、その恨みは消えていないでしょう」

〔七章34型〕別府は上空を飛んでいる鳥を見た。三羽、滑空していた。カラスよりもおおきい。鷹だ。蛇崩町は鷹狩りの名所としても有名だった。「犯人が凶器をもっていったと考えるのは、鷹がキツネを狩るために四肢をふりながら走っていったと考えるようなものだ」別府は軽口を叩いた。「もっといい狩り方がある。だれもが知っている方法だ」上空の鷹は羽を折りたたんだ。はなたれた弓矢のように形状をかええた。「鷹は地面ではなく、そらを利用する。羽があるからだ。きのうの犯人は水門を破壊した。そやつにも鷹のように羽があったのではないか?」上空の鷹は獲物をつかんでいた。町の外へと勢いよく飛んでいった。

〔七章38型〕町屋の二階には洗濯物が干されている。蛇崩町の出口まで一筋の白い幕がつづいていた。まるで青い花弁に、白い縦線のはいった朝顔のようだった。おしべとめしべにあたる部分には門がそびえている。その場所は蛇崩町の入り口でもあった。吉原の大門ほどではないものの、一丈ほどの門が建っている。

〔十章50型〕中庭に主人らしき人物は見当たらない。別府たちは稽古場のまえまで歩いた。道場のなかで一生懸命、練習をしている青年が大勢いた。剣術の向上にひたむきな様を目にすると、別府の行きつまっていた心が、そのまま彼らの木刀でふり払われるような爽やかな感奮を胸の奥底に生じさせるのだった。青年たちのまえには、姿勢正しく直立した好々爺がいた。どうやら彼が主人らしい。

(B)複数直喩


【第二十】間接―心象に関するレトリック


(A)隠喩

〔一章5型〕別府はすでに算盤の身だった。下屋敷に来たのは算盤の珠を弾くためだ。大村昌村は算盤の珠がうえに行くか、したに行くかを選ぶだけだった。素直に蟄居以上の罪刑をとるのか。意地を張って、改易をとるのか。二択を迫っていた。

〔三章15型〕自分の目を疑った。窓の外に、大蛇を見たからだ。おおきな牙が土倉を咬んでいる。下屋敷を喰らっている。長い尾を左右にふっている。不気味な音をはなっている。外壁の崩壊音は、人間の悲鳴のようだった。裏手に生えていた樹木は根こそぎ、刈りとられている。宿屋の主人が話していたことを思い出した。そう、土中から大蛇が出てきたのだ。

〔四章23型〕見張りのひとりが行人坂をおりていった。すぐに斧を運んできた。刃先はていねいに磨かれている。別府はまえのめりになった。斧を思いっきりふりおろした。先端がわずかに食いこむだけだった。土倉の扉は欅でつくられている。欅は樫の木とならんで、強固な木材と云われていた。力強い木目は縦横に乱舞している。土倉の壁まで、おおきな両手を広げていた。両脚は泥土を纏っている。斧の一撃を食らってもなお、四股を踏んだままだった。土倉の屋根は、新月の夜をさらに暗くし、上部に陰影をつくっていた。門扉はあきらかに不機嫌だった。両目を吊りあげている。眉をさげる気配もない。口をひらく素振りもない。頑固とした顔付きだった。たじろいだ。斧とともに距離をとった。

〔六章31型〕「すべての証拠が正しければ、三人とも犯行は無理になるな。わたしは殺しを調査するたびに感じるよ。わたしは蛙だ。犯人は常に蛇だ。じりじりと、うしろにさげられる」「どういうことですか?」「蛙は蛇に勝てない。どうあっても負けつづける。無理だ。不可能だ。わからない、どんどん未解決に追いこまれる」

〔七章35型〕ふたつの凶器は風呂敷につつまれていた。風呂敷は上流から流れてくる桃だ。だれかが見つけ、桃が割られるまで待てばいい。風呂敷からは経子の犯行が不可能だという証拠が生まれる。

〔八章44型〕別府はゆっくりと立ちあがった。朗らかな態度をとる作間に、にらみを利かせた。「安心するのはまだはやい。あたらしい手掛かりが見つかり、作間の犯行を示すようならば、また来る。ことばじゃなくて、両手のあいだをかよわすことになる」「へいへい」「つぎに会うとき、自由に泳げる両手があると思うなよ」作間は手首同士をかさねた。畳を叩き、「怖い怖い」と笑った。

(B)複数隠喩

〔八章43型〕「なるほど、大村家より潤沢な取り引き相手だ。瑞木は商売にも金にも困っていなかったようだ。懸想する相手もいなかった。おまえのように賭け事にも、溺れていない」「云いやがる。おれは犬っころの泳ぎよりもはやく、両手を出しているんだぜ。丁半の決め札をもってな。賭け事にじょうじているときは、だれよりも上手に泳いでいる」作間は軽口を叩いたあとに「まァ、瑞木は兄者とも親しかったわけでもねえ。三人も殺す理由が思いあたらないね。おれの目立てじゃ、上野が怪しいところだが……」と本音をつぶやいた。本項目→十三章54型

〔十三章54型〕彼は、はじめて、ことば遣いを正した。「やります。やらせてください、同心様」作間は別府の顔を見た。「もう賭場の海で泳ぐのは終わりです。この地の陸田と水田に一生の根を張る所存でございます」頭をふかぶかとさげた。八章43型←本項目

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六点リーダー+類別ミステリー集成(無月の水ミステリーガイドブック上) さんたん @3tan

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