大戸島の娘 第二部 マリア降臨

御堂 圭

第1話

大戸島の娘 第二部「マリア降臨」(前編)


東京消失の翌日


 東京が消失した翌日の大戸島の北の海岸。そう、ここは笑子が海へ入って東京へ向かった海岸だ。しかし、今は誰もいなくなっており、波の音だけが聞こえる静かな海岸になっている。

 すると、水平線の向こうから白い波頭とともに何艘もの船の姿が見えはじめた。こちらに向かって来る。アメリカの揚陸艇だ。揚陸艇は北の砂浜に上陸し、砂浜に残されていた笑子の足跡も真太が闘った男たちの足跡も踏み散らかして三島家の家に踏み込んだ。ドアをこじ開けて家の中を捜査する兵士たち。広げたままになっている笑子の部屋の東京の地図、縁側に置きっぱなしになっている須磨子の座っていた籐椅子。上空には、数機のオスプレイや対戦型のヘリコプターが飛んでいた。


東京消失の一週間前


 東京消失をさかのぼること一週間前。ここは、大阪府にある大阪市民会館前。前を通る谷町通りの歩道で大学生の鳥越美姫は道行く人たちにチラシを配っていた。彼女は、別にアルバイトでそれを行っていたわけではない。ボランティアでやっていたのだった。チラシの表には「クルム(庫魯木)・モハメド講演会。主催:NPO法人 日本人の人権を考える会」と書いてあった。

「ウイグルからアメリカに亡命しておられますクルム・モハメドさんの講演会が午後一時からここホールで開催されまーす。無料でーす。どうか皆さん、ぜひ聞いていってくださーい。ウイグルでは、現在、中国政府によって新疆(シンチャン)ウイグル自治区に対してジェノサイドが行われています……」

 そこに一組の若いカップルが通りかかる。その男の方が鳥越を見つけてこう言った。

「なんだ、鳥越美姫じゃん」

「あ、本当ね」カップルの若い女性の方が言った。

「おーい、鳥越。何やっての? バイト?」男性の方が鳥越に声をかけた。

男性は鳥越と同じ大学に通う井村三千男、女性の方は、同じ大学生の斎藤瞳だ。

「あら、井村三千男君に斎藤瞳さん。バイトじゃないわよ。ボランティア。午後、ここでクルム・モハメドさんの講演会があるから、そのチラシを配布してるの。あなたたちも、ぜひ良かったら講演を聞いていかない。なかなか日本に来れるような人じゃないの。たまたま、大阪に来られる予定があったから、無理言って講演会をお願いしてるのよ」

「誰だい? その人?」

「中国からアメリカに亡命しているウイグル人の女性よ」

「ウイグル人? それって何人?」三千男が聞いた。

「今、中国の新疆ウイグル自治区に住んでいるウイグルの人たちに対して、中国政府が大量虐殺を行っている疑いがあるの。で、クルムさんは、そこを逃れて民主活動をしている女性なの」

「何だ、日本には関係ないことじゃんか」

「三千男! 失礼でしょ」瞳が口をはさんだ。

「だって、そうじゃないか。遠い外国のことなんか、いちいち気にして生きてられねえよ。日本が平和なら、それで良いじゃん」

「日本の若い人たちはみんなそう言うのよね」悲しそうに美姫は言った。

「鳥越だって若いじゃん」

「そしなさいって!」瞳が三千男に注意する。

「あなたたちが言うのも無理はないと思うは、日本はそう言う教育をしてきたし、日本は昔から島国で他国のことになんて、興味の持てない民族だものね」

「さすが、国際交流学部ね」瞳が言った。

「でもね、いつ日本がそうなってもおかしくはないのよ。それは、一週間後かもしれないし、明日かもしれないのよね」

「ははは、そんなことあるわけないじゃないかよ。行こうぜ、瞳」

 三千男はそう言うと、瞳をうながして立ち去ろうとした。しかし、瞳の方は、すこし興味ありげに振り返った。

「はぁ……」美姫は、大きくため息をついた。

 昼の大阪市中、朝、銀座でおきたオオトカゲによる凄惨なニュースが街に流れていた。人々は、東京で起きたニュースを食い入るように眺めていたが、心の奥の方では、やはり自分たちには関係の無い他人事でしかなかった。


 その日の午後、クルム・モハメドの講演が大市民会館の大ホールで行われた。

「やっぱり、入りが少ないな……。クルムさんに申し訳ないよ」落胆したように主宰者の井上和磨が会場に入って来て言った。

「そうねー」隣では、美姫が空席の目立つ会場を眺めていた。


「現在、中国政府は、中国国内に住んでいるウイグル族やカザフ族などイスラム教徒の少数民族に対し、集団拘束や監視、拷問を行っています。政府は、私たち行う反政府デモを一方的に政府に対するテロ行為と決めつけては、収容所や刑務所に収監しいるのです。そして、そこで私たちになされているのは、愛国教育の名のもとに行わる洗脳教育です。具体的には、身体的、心理的拷問による人格破壊。そして、組織的レイプです」「拷問の方法としては、殴打、電気ショック、それに、タイガーチェアと呼ばれる身体拘束です。これは、鉄製の椅子で、手足をロックして動けなくしたうえで、睡眠妨害を行うためのものです。また、身体を壁のフックにかける、極めて低温の環境に置く、独房に入れるなどの拷問も行われています。タイガーチェアを使った拷問は、数時間から数日にわたることもあります」「また、中国政府は、人口管理と民族の浄化のもとに、私たちウイグルの女性に対して強制的に不妊手術や中絶を行っているのです」「今言ったことは、第二次世界大戦時のナチスが行ったことではないのです。今まさに、現在の中国で行われていることなのです」「国際法の基本ルールに違反する、収監など厳格な身体的自由の剥奪、迫害、弾圧、拷問、レイプ、強制中絶、強制労働が私の生まれたウイグルでは繰り返し行われているのです。そこでは、地獄のような恐ろしい光景が圧倒的な規模で作りだされているのです」「専門家らは、中国が新(しん)疆(ちゃん)地区で少数民族への弾圧を始めた二〇一七年以降、約百万人のウイグル族などのイスラム教徒が拘束され、さらに数十万人が収監されているとされています。何百万人もが強大な監視機関におびえながら暮らしているのです」

「私は、アメリカでの留学中後に亡命を決意し、その後、アメリカ人の男性と結婚しました。私のウイグルにいる家族たちが今も無事であるかどうか、それは分かりません。両親も兄も妹も、きっと私が活動家になったことで収監されているのは間違いありません。もう死んでいるかもしれません。とても心配。心配してない日などありません。しかし私は、今行われているこの事実を世界中の人々に知って欲しくて、外の世界から発信し続けているのです」

「あなたたち、日本人の皆さんが、もしも同じ立場だったらどうします? 黙って政府の言いなりになりますか? 日本は島国。単一民族? ずっと平和だと言いきれますか? もしも、他国が日本に責めてきて占領されたら、そうしたら、あなたはどうしますか? 民族の自由を奪われたら、文化を奪われたら、あなたはどうしますか? 明日そうならないとは、誰も言いきれないのですよ」

「ああ、それからもう一つ、言っておかなければならなかった事実がありました。二〇一三年五月、中国は新疆ウイグル自治区で核実験を行い、周辺住民への甚大な被曝と環境汚染とがもたらされています。中国は一九六四年から一九九六年まで東トルキスタンのロプノールの核実験場において、延べ四六回、総爆発出力二二メガトン(広島原爆の約一三七〇発分)の核爆発実験を行っています」


「それでは、質疑応答の時間にしたいと思います。どなたか、もっとクルムさんに聞きたいことがあるという方?」司会の井上和磨が言った。

「あのう、良いですか?」

「あっ、はい。そこの女性の方」

「あれ、あれは瞳じゃない。結局講演聞きに来てくれたんだ」会場の隅にいた美紀が嬉しそうにつぶやいた。

 しかし、傍らに三千男の姿は無かった。彼女は一人で来てくれたのだった。瞳がクルムに質問する。

「そのう、クルムさんがアメリカで亡命を決意して民主活動家になられたのは、やっぱりアメリカ人の旦那さんの影響ですか?」

「いえ、そうじゃありません。私はアメリカ留学中に親友がいました。中国の民主化という、志を同じにする香港人のマギー・洪(ほん)(ホン)という女性です。彼女の強い意思に影響されて、私も活動家になったのです」

「それって、香港の民主の女神と言われて、今は中国当局に収監されているマギー・ホンさんですか?」瞳が聞く。

「はい。そうです。彼女は私の太陽です」クルムは力強く答えた。「その後、私は結婚して、アメリカに残りましたが、マギーは香港の民主化を守るために帰って行きました」

 すると、会場にいた青年の一人が手を上げてこう言った。

「あれ? マギーさんは、アメリカの大学じゃなくって、確か香港工科大学の出身じゃありませんでしたか」この発言を聞いて、クルムは一瞬、しまったというような表情をした。

 しかし、すぐに気を取り直してこう言った。

「いや、マギーは、ほんの一時期アメリカに留学していたことがあるんです。そのとき私と知り合いになったのです」

「ああ、そうだったんですか」青年は言った。


 マギーは、香港にある収容所に収監されており、自由を奪われた状態にあった。

「洪诗涵(ホン・シーハン)出ろ。取り調べだ」

「取り調べという名の、洗脳でしょ。それに、私の名前はマギー・ホンよ」

「何だと! 余計な口をたたくな。また痛い目にあいたいのか?」

 独房の中からマギーが出てきた。


 大阪市民会館、和磨が講演会の進行を続けている。

「他にも、ぜひクルムさんにお聞きしたいことがあるという方、いらっしゃいますか?」

 すると、ある三〇歳代と思しき女性が手を上げた。

「私は中国人です。あなたは、中国人、つまり漢民族を憎んでいますか?」その女は、少したどたどしい日本語でクルムに質問した。

「いいえ、私は中国や中国人を憎んではいません。憎んでしまうと、そこからまた憎しみの連鎖が起きてしまいます。憎しみからは、憎しみしか生まれません」クルムが答えた。

「どういうことですか?」女は怪訝な顔でクルムに聞いた。

「私が問題にしているのは、現在の中国の政府のやっていることであり、それは漢民族全員とか漢民族の文化には関係無いことではありませんか。私は、中国人や中華文化を否定したり嫌ったりしているわけではありません。例えば、中華料理を食べながら、中国人の悪口を言う人。KーPOPのファンだけど、韓国の悪口を言う人がいますよね。その国が好きと言うことと、その国の人が好きと言うことと、その国の文化が好きと言うこととは別なのです」

「なるほど……」女は少しうなずいた。

「国民を煽り、分断を生んでいるのは、どこの国でも、いつの時代でも、ほんの一部のナショナリストに過ぎないのです。どこの国だって、ほとんどの人たちは、本当は平和に暮らしたいし、お互いに仲良くしたいと思っているのです。違いますか?」

「……」

「問題なのは、どこの国であっても、ナショナリストが国のトップに座ることなのです。そのとき、分断は始まるのです。しかし、分断は避けるべきです。どこの国でも、ほとんどの国民は、他の国と仲良くしたいと思っている。そうでしょう。それなのに、他国の悪口を言って煽るのは、たいていの場合、国民ではなく政府の方なのです。これは往々にして、政府への不満を他国に向けさせるために取られる政策です。ですから、どこの国の国民であっても、ここのところを見誤ってはいけません。常に注意しておくべきなのです。民族主義・国粋主義・愛国主義というものは、多様性と共生社会をゆるがす、非常に危険な思想です」

「……」女は黙りこくってしまった。

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