文学作品におけるフェイクな人物

夢美瑠瑠




 「漱石の日」らしいので、文学に関する些末な評論?を書いてみます。


 「漱石」は、俳号で、この俳号、雅号が一種の韜晦というか、ユーモアなのは有名です。漢詩だかに、「石に枕して、流れに口をゆすぐ」という言葉があって、これを、「石に口をゆすぐ」と、間違った人がいて、嗤われると、「流れに枕するのは、頭を冷やすためで、石で口をゆすぐのは歯を磨くためだ」と負け惜しみを言ったという、そういう逸話があるらしいです。


 その故事を、漱石、という筆名に使った。漱、は嗽(うがい)に似た字で、同じ意味らしいです。


 いろいろと文学書とかを読んでいると、こういう細かい知識は自然と覚えます。文学書というものも長い年月に多種多彩な内容の、東西長短のものを無数に読んできたが、そうするといろいろな人物が登場して、老若男女、善悪美醜、ヒーロー、悪漢、多岐にわたっていて、人間模様が百花繚乱の様相を呈している。


 で、昨日に気が付いて、ちょっとおもしろいなと思ったのは、「フエイク」なのが特徴になっている人物というのがしばしば登場して、狂言回しというか、物語の中で独特の役割をはたしていたりすることがあります。で、僕の場合は?なんだかそういう人物を心に留めて長く記憶していたりする場合が多い、そういうことにです。どことなく身につまされて、親近感を覚えるのかもしれない。


 「白痴」の人物というのも登場して、そのものズバリのタイトルもある。が、それとは別に、なんか言動にピンボケなところがあって、「ダメ」な感じのする一連の人物像がある。そういう記述とかエピソードがなんか特に人間の真実、という感じで心に残るのです。挙げだすと枚挙に遑がなさすぎるだろうが?思い出すままに綴っていきたい。


 漱石の「猫」だと、まず「主人」、漱石のカリカチュアな似姿がこの「フエイク」なヒトになっている。後架で謡をうなる、というので「後架先生」とあだ名がついていたり、本を広げても3分もしないうちに眠っていたりする。だいたいがユーモア小説なので滑稽な描写をされている人が多いが、こういう作風から「余裕派」と、漱石は当初呼ばれて、「最も神経症の治療にいい」のが小説執筆だと発見して、どんどんのめりこんでいるうちに、やがて「文豪」になっていたということらしい。後年はシリアスすぎるくらいにシリアスになっていて、ボクも生半可ですが、「明暗」とかは未完にせよ、完成していれば大傑作になっただろうとか言われて、最近に完結編を書いた人(水村美苗という人だったか)がいたりします。


 モームの「人間の絆」には子供のころの担任の先生が迂闊で?頓馬で?授業中に生徒たちがカンニングし放題なのに一向に気が付かない、というくだりがある。「高慢と偏見」には、文章の堅すぎる手紙を寄越して、「こりゃあ、本当の左巻きだ」とか主人公の一家に嗤われている親戚の書生が出てくる。谷崎の小説にも、「勉強をすれば娘を嫁にやる」と言われて、「で、勉強をしすぎて馬鹿になったのだそうだ」とか馬鹿にされている若い書生が出てくる。芥川の短編にも「箸にも棒にもかからない」後輩というのがちょっと言及されているくだりがある。漫画ですが、吾妻ひでおさんの「失踪日記」には、アル中病棟で同室になった「かたづけられないダメな人」のことを「失見当識かな?」と、吾妻さんがあきれているところがある。フレデリック・ブラウンの「星ネズミ」には、大事なところで「Not me? Not I ? どっちが正しいんだっけ?」と関係ないことを言って、「本当に彼女くらいどうでもいいことを考えている人は見たことがない」とか酷評されている同僚の保育士が出てくる。


 本当にいちいち挙げているときりがない感じですが、北杜夫さんの小説にも、「誰でもいつでもセーハクなんではなくて、ある時にセーハクになる。一時的にセーハクになることもある。ある場面でセーハクになったり、ならなかったりする。」とか、子供に諭しているおじさんが出てくる。北杜夫さんの芥川賞受賞作は「幽霊」で、昔は意味不明でしたが、つまり自分が「幽霊みたい」と悪口を言われた経験を踏まえているのだな、と最近気が付いた。「二葉亭四迷」さんの筆名の由来が、「くたっばってしまえ」と言われたことだったり、中村草田男という俳人の雅号の由来が「腐った男」と言われたことだったり、こういう逸話も多い。


 人間はホモサピエンスと定義されていて、つまりこれは「叡智人」、カシコイサル、そういう意味で、本来はまぬけであっては本分を踏み外すので、その定義に外れた行動をしてしまうことが、逆に何か、「人間とは?」あるいは「自分とは?」を考える場合に、意味深い、印象的な、considerable なトピック、アンカーポイント、として目立ってしまい、逆に人間やらその人物やらの最もそれらしい個性やあるいは本質を物語っている、そういう逆説は成り立ちうる感じで、で、そういう描写が文学の中でよく語られがちで、いろいろな名作の中の重要な構成要素になっていたりするのだと思います。


 光があれば影がある、陰は陽と背中合わせ。フエイクを描くことで、リアルとは何かがより印象深く炙り出されうる。


 逆説というより、本質的に世界はそういう構造をなしている…?


 まだまだ勉強不足なので、今のところはこれも知ったかぶりの戯言の域を出ないですが、虚実皮膜、ともいうように、あらゆることは虚々実々で、本質を見極めるのは容易でなくて?虚妄の馬鹿らしさばかりをうんぬんして安全地帯に逃げ込もうとしたりしがちで?そういう弊に陥りがちで?そこを逆に一番忌むべきではないか?とかそういうことをつまり言いたいのかな?と思っているところです…


 

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