第30話 その目に映るもの

 船はザファール運河を快調に進み、やがて堅固な堤防に護られた河港都市ラダスへと入る。

 イルゼがカルカースに伴われて下船すると、待ちかねていた様子で彼らに歩み寄る一人の男がいた。


「イルファード殿下でございますね?」


 腹の出っ張りが少々気になる初老の男は、まじまじとイルゼの顔を見つめた。男は高級そうな衣服に身を包んでおり、明らかに貴人階級の者であることが分かった。

 不躾な視線にイルゼはやや気後れしながらも肯定の意として頷く。


「おお、やはり! いや、驚きましたな。母君の美貌を見事に受け継いでおいでだ。一目でイルファード殿下であらせられると分かり申し上げましたぞ」


 そう言って男は満面の笑みをイルゼに向ける。


「十四年前、生まれたばかりの愛らしい貴方様のお姿は、昨日のことのように思い起こすことができます。あの時、小さく無防備であらせられた殿下をどのようにお守り申し上げれば良いのか、私どもは随分と思い悩んだものでございます。貴方様が行方知れずになられた時も、それはもう深く心痛をいたしました。ですが、それも今日という日のためでございましょう。凛々しく成長された殿下を、こうして無事にお迎えできることを心より嬉しく思いますぞ」


 男は一人、感無量といった顔つきで声を高らかにした。しかしイルゼのほうは、相手と自分との温度差を感じながら「貴方は?」と男へと問う。


「おお、これは失礼をいたしました。私はフォウルド=カヴァン=エンデュランスと申します。私は貴方の御父君であらせられるディオニセス陛下とは同じ祖父を持つ従兄弟同士でして。私の母がディオニセス陛下の父君――先代アドニス皇王と同腹の兄妹なのでございます。その深い間柄もありまして、有り難くも陛下から此度の使者を命じられ、殿下をお迎えに上がった次第です。僭越ながら皇城までの道のりは私めが随行させていただきますよ」


 男――フォウルドは、イルゼを待機させていた馬車までいざなう。


 イルゼ達が乗り込んだ馬車は、四騎の騎馬兵を前後に伴って、インザラーガ山の中腹にあるという東皇都アドヴァールに向かって動き出した。途中、馬車はラダスの賑やかな市場を通り抜ける。


「どうですか、イルファード殿下。とても活気のある港町でございましょう?」


 向かいの座席に座ったフォウルドが、車窓から町の賑わいを眺めるイルゼに声をかけた。


「ええ、そうですね。町並みは綺麗ですし、お店には沢山の品物が売っていますね」


 イルゼはフォウルドに同意する。言うなれば、ウラジミールの小型版といったところか。


「さすがは殿下、注視すべきところを良くお分かりだ。物が豊富ということはアドニスが豊かであるという証拠。町並みが美しいのは人心が潤っている証しです。これもディオニセス陛下による国政の賜物ですよ。我々の安寧は陛下なくしてはありえないのです」


 その熱弁にイルゼは大した感銘を抱けなかったが、表面上では感心したように頷いて見せた。すると、それにフォウルドは気を良くしたのか、更に『実父』の話題でイルゼの気を惹こうと話を続ける。

 大げさに聞こえる追従口をイルゼは適当に聞き流しながら、斜め前に座るカルカースを盗み見た。カルカースは腕を組み、眠っているかのように目を伏せて黙している。


 あれからカルカースはイルゼに対して気安い態度を全く見せなくなった。言葉遣いは丁寧なものへと変わり、イルゼを『イルゼ』とは呼ばなくなった。それは少年にとっては突き放されたようで悲しいことであり、謝って許してもらえるものならば謝りたかった。だが、それでは恐らく逆効果でしかないだろう。かといって、他の対応をイルゼは見出すことができず、今のようにカルカースをそうっと窺うしかできなかった。


 そんなイルゼの心情など知る由もなく、フォウルドの熱弁はなおも続いている。


「ディオニセス陛下の御世で我が東皇国は、様々な分野で目を見張るほどの発展を遂げました。特に、ザファール運河を中心とした大規模な河川整備は、長いアドニス歴史史上でも最高にして最大の功績と言えるでしょう」


 高揚した表情のフォウルドは、やっと思いのたけを語り終えたのか、鼻で大きく息をついた。その様子にイルゼは内心、苦笑をしつつも「父は、とても素晴らしい方なのですね」と相槌を打つ。


「ええ、もちろんですとも」


 まるで自身の偉業を自慢するかのようにフォウルドは顎をそびやかす。少年の純粋な感想は彼にとって心地の良いものだったらしい。


「殿下、あれをご覧ください」


 今まで黙していたカルカースが、イルゼに窓の外を見るように促した。


 イルゼが素直に視線を向けた先には、先程まで彼らが乗船していた船が見えた。その横では積荷を陸に揚げる男達が忙しそうに動いている。


「あれらの荷はこの後、アドヴァールへと運ばれます。食糧、貴族達の嗜好品、市民の生活用品といった様々な品が大陸中からこの港に届けられます。運河を行き来する船は、全て貨物船を兼ねているのです」


 カルカースは陸揚げの様子を見つめながら言う。


「河川を交通の要衝として確立しようといった治水事業は、十数年前、現皇妃クロレツィア様が提唱された構想であり、その後、十年以上の歳月をかけて整備されてきました。アドニスは農業に適さない岩の地帯が多いため、食糧自足率が低く、長年、地方の飢餓解消や国民の安定した食糧確保は早急な課題でした。ですが運送水路の構築によって外海と内陸の接続が容易になり、大量貿易が可能となったため、それも現在では解消されています」


 フォウルドの話では知り得なかった知識に、イルゼは感嘆の息を洩らした。対してフォウルドは、すっかり白けたさまで「……まあ、これもひとえに陛下の英明なご裁断があればこそですな」とうそぶいた。


「でも、そうやって自分の考えを示して実現していくのは凄いことですね」


 イルゼはクロレツィアという女性に対して素直に敬意を表す。カルカースは更に続ける。


「クロレツィア皇妃は国民の側に立たれた政治感覚が認められ、大陸外出身でありながら周囲に望まれてアドニス皇妃にと推挙された経緯のある御方。そして殿下の義母君でもあらせられます。何かお困りのことがあれば、彼女にご相談なさいませ。きっと、お力になってくださることでしょう」


 カルカースの提言にイルゼは深く頷いた。青年の声音自体は感情に乏しく淡々としていたが、それでも自分を案じてくれているような言葉が嬉しかった。


 馬車は町を出て石畳で敷き詰められた山道へと入る。行く手には厚い雲で頂が覆われたインザラーガ山の姿があった。暫く行くと、競って天に伸びるような尖塔の群が見えてくる。


「殿下、あれがアドニスの皇都アドヴァールでございます」


 フォウルドが言った直後、山麓を回り込んだ馬車の窓外には、山間に築かれた石造りの街並みが広がった。馬車は少し高まった街道を走っており、その都を優に一望できた。


 東皇都アドヴァールは、豊かな森林で周囲が囲まれた美しい都市だった。家々の向こうには、インザラーガの山肌を浸食するように築かれた城がある。まるで背後の険山と一体化しているようであり、優美で壮観な外観を持っていた。


 イルゼはその風景に圧倒され、知らず知らずのうちに溜め息をついた。


 一行の乗せた馬車は、都を周回するように開通された山側の細い街道を進んでいく。この道は街中を通らずに皇城に直通していたため、残念ながらアドヴァールの街中を見物することは叶わなかった。


 街道の突き当りには、要塞を伴った強固な防壁が立ちはだかる。


「開門!」


 馬車の先導を担った騎馬兵の一人が声高に叫ぶと、防壁の大きな鉄門が重そうな音を立てて開き始めた。馬車は開ききった大門をくぐり抜け、内側へと入っていく。


 そこをくぐるとすぐに城の入り口かと思いきや、皇城の前には深い谷間が横切っており、橋を渡らなければ入城できないようになっていた。更に向こう岸には取っかかりの全くない城壁まである。馬車が谷間に架かった橋を渡り切ると、おもむろに橋桁が両岸側へと迫り上がり始めた。


 イルゼは車窓から高くそびえる皇城を振り仰ぐ。あまりの高さと圧巻としたさまに、見上げる顔がついつい呆けたものになってしまう。そんな少年の様子に、にこやかな笑みをたたえたフォウルドは「今後は、ここが貴方様のお住まいとなるのですよ」と言った。

 イルゼはその言葉に一瞬、息苦しいものを覚える。もう後戻りはできないのだと念を押されたようだった。


 そんなイルゼの不安などよそに、いよいよ馬車は皇城に到着した。


「さあ、イルファード殿下。城の者達が貴方様のご帰還を今か今かとお待ちです」


 上機嫌なフォウルドが馬車から降りたイルゼを城内に導く。そうして城に入った瞬間、イルゼは好奇の入り混じった多勢の視線にさらされることとなった。


「ほう、あれが」「これは、なかなか……」と値踏みするような囁きが周囲からさざめくように流れる。


 入城したすぐ先の広間には、かれこれ百人以上の人々がひしめき合いながらイルゼの到着を待っていた。女性は煌びやかなドレスと装身具で身を着飾り、男達も彼女らに優るとも劣らない華やかな装いをしている。そこに集まる者達は皆、貴族の子弟やそれに連なる何かなのだろう。そんな彼らからの視線を一身に受けたイルゼは、えもいえぬ緊張と恐怖で震えた。


 今はイルゼも貴族達と同じような衣服を身に纏っていたが、自分が彼らと同じだとは到底、思えなかった。彼らは、その姿通りの人生を歩んでいることだろうが、イルゼは違う。


 本当に、これからここでやっていけるのだろうか――。

 先程から感じていた不安がやおら大きくなった。


「イルファード皇子殿下、無事のご帰還、お喜び申し上げます」


 そんなイルゼの心情などお構いなしに、親しげな様子で彼らが祝辞を述べてくる。その殆どは好意的なものだったが、中には「果たして本物の皇子なのか」といった冷笑交じりの言葉も聞こえた。だが、それをイルゼは不快に思うどころか、同意さえしたくなる心境だった。


「殿下、まずはディオニセス皇王陛下にお目通りを。皆様には積もる話もあるでしょうが、それは後ほどということで」


 フォウルドが密やかな悪意をさえぎるようにしてイルゼの前に進み出る。


 ディオニセスの名を出され、貴族達は次々と下がっていく。それにイルゼはホッとし、そしてふと思い至ってカルカースの姿を捜した。


「……フォウルドさん、カルカースさんはどこですか?」


 イルゼは嫌な予感を胸に抱きながら、意気揚々と貴族達に愛想を振りまくフォウルドに訊ねた。広間を一巡りしたイルゼの視界には、カルカースの姿を見出すことができなかったのだ。


「はい?」


 首を傾げてフォウルドがイルゼを振り返る。どうやら周囲への対応に夢中で質問を聞き取れていなかったらしい。イルゼは軽い苛立ちを覚えながら再度、同じ問いを繰り返した。


「ああ、カルカースでございますか? あれなら先程、次の任務へと赴きましたよ」

「次の任務って――どこへ!?」


 にわかに平静を失ったイルゼに、フォウルドは目を丸くしながらも再び首を傾げる。


「さて、どこでしょうか。あれは普段、地方の巡察を担っているため、アドヴァールに戻ってくることのほうが稀ですからね。今回は貴方様の随行のため、一時的に帰還しただけのことなのでございましょう」


 こともなげに告げられた事実は、イルゼを千尋の谷へと突き落とした。


「そんな」


 イルゼは愕然と呟く。少年の胸には、置いていかれてしまったという衝撃が吹き荒れる。すると、そんな彼に向かってフォウルドは昂然と胸を張った。


「殿下、ご安心めされませ。あのような馬の骨に頼らずとも、殿下には御父君であらせられるディオニセス陛下をはじめ、私どもがいるではありませんか。何一つ、お心を乱されるようなことはございません」

「馬の骨って……カルカースさんが?」


 フォウルドの言い分にイルゼは眉を顰める。あの気高い雰囲気を持つ青年が何故、そのような侮蔑を受けなければならないのだろうか。


「ええ、そうですとも。あれは生まれや育ちが全く知れない輩なのですよ。本来ならば殿下と親しく言葉を交わすことなどもってのほか。ですが、ディオニセス陛下のお傍に忠臣顔をして居座り続ける輩ども――あの不遜で薄気味の悪い連中が、あの馬の骨を重用しているがために、奴は皇城への出入りを許されているのです」

「……不遜で薄気味の悪い連中?」

(そんな人達が皇王である父の傍に?)


 疑問に満ちたイルゼの視線を受け、フォウルドは「おっと」といったような表情を閃かせる。


「いやいや、これはお耳汚しなことでございましたな。とにかく、あのような者のことなどは早くお忘れくださいませ。今後は、殿下のお心を煩わせるようなことは一切いたしません」


 この話は終わりとばかりにフォウルドは言い切ると、


「それでは殿下、先へと参りましょう。あの向こうでは貴方様の御父君――ディオニセス陛下がお待ちですよ」


 イルゼに向かってフォウルドは遮るものは何もない奥に続く通路を示した。




 先に見える一際高い場所に据えられた皇座には、一人の男が座している。一歩一歩近づくにつれ、その姿は視界の中で鮮明となっていく。


 イルゼは自分の実父であるというアドニスの皇王から、少しも目を離さずに歩を進めた。謁見の間に入った直後は、左右両側に並び控えた城の重鎮達や、そこを支配する厳然とした雰囲気に圧倒されたが、それも今では気にならなくなっていた。今やイルゼの全神経は、全てディオニセスという男に注がれていた。


(この人が、僕の本当の父親――……)


 その眼前に立ち、イルゼは実父の顔を仰ぎ見た。


 少年に付き従っていたフォウルドは、恭しい所作で床に膝をつき、深く頭を垂れる。対してイルゼは身動き一つせず、ディオニセスを凝視していた。それは皇王に対して非礼なことだろうが、誰一人としてイルゼを咎める者はいなかった。


 イルゼは少なからず驚きでもって初めて見る実父を瞳に映していた。


 ディオニセスはイルゼが予想していた年齢の範囲を遥かに超えていた。十四歳である自分の実父なのだから、せいぜい四十代の壮年だろうと想像していたのだ。しかしディオニセスは七十には届くかというほどの老年だった。これでは父親ではなく祖父と紹介されたほうが違和感は生じなかっただろう。


 厳つげな体躯に艶のない肌、神経質そうに見える角張った頬、肉づきの悪い眼窩に色の薄い唇――。その容貌は不器量とまではいかなかったが、線が細く人目を惹くに十二分な容姿を持つイルゼとはお世辞にも似ているとは言い難かった。それは経た年齢のせいだけではあるまい。だが、ただ一つだけ、二人が親子であると結びつけられる要素が髪の色にあった。


 年齢相応の白髪は混じっているが、ディオニセスはイルゼと同じ鳶色の髪を持っていた。母親であるアラリエルは青銀色の髪とのことだったので、イルゼのそれは父親から受け継がれたものであることは間違いない。


 だが、それを確信したところで、イルゼの胸に喜びが沸き上がることはなかった。それどころか、重苦しい失望しか感じていなかった。


 ディオニセスがイルゼの思い描いていた父親像から外れていたことは確かだ。だが、それに対しての失望ではない。イルゼを目にした時のディオニセスの態度が、あまりにも予想に反していたためだ。


 ディオニセスは気怠い様子で肘掛けに頬杖をつき、億劫そうな態度さえ見せて、自分を一心に見上げるイルゼをただ眺めていた。十四年ぶりに対面したはずの息子に対して父親は、一言も言葉を発さず、感情どころか反応さえも見せなかったのだ。


 イルゼは震える息をゆっくりと吸い込み、それからやはりゆっくりと吐いた。そして、意を決して口にした。


「貴方が、僕の本当の父なのですか?」――と。


 やはりイルゼにも不安はあったが期待もあった。実父と対面した時、成長した自分を見て唖然とするだろうか、戸惑うだろうか、それとも喜んでくれるのだろうか――。だが、いずれにしてもそれらは、きっと自分の期待を裏切るものではないはずだとイルゼは信じていた。何故ならば、自分は望まれて実父に会いにきたのだから。そして、できることならば、実父の力強く温かい抱擁を望んでいた。「良く戻った」という優しい言葉が欲しかった。


 だが、次の瞬間、それらの期待は全て潰える。


「疲れた」


 ただ一言、それが息子の前で初めて発せられた父親の言葉だった。


 ディオニセスはイルゼに興味はないと言わんばかりに皇座から立ち上がる。そして、緩慢な動きで奥へと姿を消した。座下に控えていた側女達が慌てて年老いた皇王に付き従う。


 イルゼは耳を疑い、唖然とした。ディオニセスの気配が完全に消え、やおら周囲がざわめき始めたとしても、その衝撃が解けることはなかった。


 と、一人の側女が奥から戻ってくる。そしてイルゼを見下ろし、凛然とした声音で言ったのだ。


「イルファード殿下、ディオニセス陛下からお言葉を賜っておりますので、お伝え申し上げます。『無事の帰還、喜ばしく思う。天上のアラリエルもまた同じ想いであろう。今後はアドニス皇国の皇子としての自覚と尊厳を持ち、皇城での生活に早く馴染むように』――との仰せでした」


 側女はそらで実父の言葉だという台詞を朗々と伝え上げると、義務であるかのように黙礼をし、軽く身を翻して奥へと下がっていった。


 ……一体、僕は、なんのためにここへ――……?


 イルゼは愕然とした絶望の中で、空となった皇座をいつまでも見つめていた。




第二部 完

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