ビール・鯨津が『タベルナ やばい』にやって来た

仲瀬 充

ビール・鯨津が『タベルナ やばい』にやって来た

★6月26日

開店当初、道行く人の多くは看板の店名を指さして笑いながら通り過ぎた。

大衆食堂『タベルナ やばい』が開店してそろそろ半月。

一人の老人が看板を見上げた。

そして入口脇の壁に貼られたメニューを見て暖簾をくぐった。

「らっしゃい!」

店主は威勢よく声をかけるとすばやく客を観察した。

背広姿にソフト帽、丸ぶち眼鏡にちょび髭。

まるで『サザエさん』の磯野波平じゃねえか。

目がちと青い、ハーフか?

年は多分俺とそう変わらねえな。

老人はカウンターに陣取るとソフト帽をつまんで取った。

光沢のある頭がむき出しになるとますます磯野波平に似てくる。

「亭主、店名が凝り過ぎではないか?」

「そんなこたねえよ、むしろベタだ。『タベルナ』はイタリア語で大衆食堂、そして俺の名前が耶馬井やばい良敏よしとしってんだ」

「そうか。ではカレーをもらおう。メニューが一つだけ、しかも『貧乏カレー』とは妙にそそられる」

「はいよ」と店主がすぐにカウンター越しに差し出す。

「カレースープをかけたように見えるな」

「貧乏だった昔の俺んちのカレーを再現したんだ。肉なんか買えないからさつま揚げで代用してた。お袋はカレー粉も小麦粉もケチってたからご覧のとおりシャバシャバさ。けど不思議に癖になるんだ。こいつを世の中に広めたくって店を始めたんだ」

老人はカレー皿に鼻を近づけた。

「ふむ、香ばしい。いい匂いだ」

「だろ? 香りが立つようにカレー粉の半分は火を止める直前に入れてんだ」

次に老人はスプーンでカレーを一口すくって口に入れると目を閉じた。

「さつま揚げから絶妙のだしが出ておる。これなら案外いけるかもしれん」

「案外は余計ってもんだ。スープスパゲティやスープハンバーグが流行はやるご時世だから若者にもウケてるんだぜ」

「亭主、脇に添えてあるこれは……」

「見てのとおり福神漬けじゃなく紅ショウガの千切りだ」

「それは分かるが味がなんとも懐かしい」

「嬉しいことを言ってくれるねえ。梅干しと一緒に漬け込んだ本物の紅ショウガだ。近頃はたいてい食用色素をぶちこんだ梅酢もどきの調味液に漬けて作るからな」

「この深みのある色と味は昔の人間にはたまらんだろう」


店主から紅ショウガの追加サービスを受けて老人はカレーを食べ終えた。

するとそれを見計らっていたかのようなタイミングで店の戸が開いた。

「会長、お迎えにあがりました」

スーツ姿の青年が店内に入って来た。

「会長だって? 波平さん、あんた偉いのかい?」

青年がサングラスを外して店主をにらんだ。

「波平? 『サザエさん』の? 失礼なことを! この方はマックロソフト日本店のビール・鯨津げいつ会長です!」

「マックロソフト? あの真っ黒なソフトクリームのチェーン店? 珍しくてバカ売れしてるんだってね」

「売りは色だけではない。イカ墨のビタミンと竹炭のミネラルが配合されていてヘルシーなのじゃ。ところで亭主、この店はアルコールは飲ませんのか?」

「会長だけあってわがまま言うねえ。ま、良しとしよう。今度来たら出してやるよ」

鷹揚に頷いたビール・鯨津会長は青年が店先に停めているベンツに乗り込んだ。



★6月27日

「亭主、また来た」

「待ってたぜ波平さん。おっと会長様だっけ」

「波平でよいよい。ここは気兼ねがなくて気に入った。通わせてもらうが今日からは小上がりの一番奥に座りたい」

「好きにすりゃいいが何でだい?」

「いろいろな客たちの話を聞いてみたいのだ」

下々しもじもの民情視察ときたか、お偉いさんの道楽は違うねえ」

「民情視察は当たりだが道楽ではない」

「ま、良しとしよう。ほら見てみな」

店主はカウンター横の壁を指さした。

貼り紙に「貧乏生ビール始めました」と書いてある。

「さっそく1杯もらおう。生ビールを置いてくれたか」

「あんたの名前のビール・鯨津にちなんでな」

「それにしても400円は安い、カレーも550円だしやっていけるのか?」

「年金の足しになりゃ良しとしようってなもんよ。それに貧乏生ビールだから本物じゃねえぜ、市販の缶入り発泡酒だ。ジョッキで飲めば生ビールの味がする」


「マスター、貧乏カレー二つ」

地元の商売人らしい風体の客が二人入って来た。

「で、さっきの話だがな、そのオヤジ、自分の店の前にバス停があれば客が増えると思ったんだそうだ」

「でも、ないんだろ?」

「そこで最寄りのバス停を毎日1センチずつ夜中に動かしたんだとさ」

「コンクリートの丸い土台のついてるあれをか?」

「そうだ。20メートルばかり離れてたのを10年かけて移動させた」

「すごい執念だな、念願どおり店は繁盛したろう」

「ところがバス停は戻されて元の木阿弥さ」

「10年もかけたのにどうしてバレたんだ?」

「バス停が元あった付近の家を10年ぶりに訪ねて来た人間が気づいたんだそうだ」


客が出ていくと会長がため息をついた。

「庶民は生きていくためにはどんなことでもするのだな。しかも結末が哀れだ」

「庶民って言葉は上から目線の言い方だぜ。ま、大会社のお偉いさんだから良しとするか」

入口の戸がガラリと開いた。

「会長、お迎えにあがりました」



★6月28日

「亭主、ビールのツマミを何か作ってくれんか?」

店主は1分も経たないうちにテーブルに小皿を置いた。

「はやいな」

「なあに玉ねぎのスライスに鰹節をかけただけだ。ウチは貧乏と手抜き、カッコつけりゃ倹約と時短がコンセントだからね」

「それを言うならコンセプトじゃろう。うん旨い、玉ねぎが新鮮でえぐみがないのが取り柄だな。これはいくらで出す?」

「50円ももらえば良しとしよう」

「亭主、その口癖は何とかならんか。耳に付いてかなわん」

「だってほら、俺の名前が良敏よしとしだから」

「それは関係なかろうが、ま、良しとしよう。いかん、うつってしもうたではないか。おや、客が来たみたいだぞ」


入って来たのはサラリーマンらしい中年男の二人連れだった。

注文を終えると店外での続きらしい話に入った。

「新入社員相手に研修会で『月とすっぽん』って言葉を使ったらぽかんとしやがるんだ。最近の若い奴らは言葉を知らないにもほどがある」

「知らないだけじゃなくまともに考えようともしないな。『旅客機になんで米をたくさん積んだんだろう』って不思議がった若者の話は知ってるか?」

「どんな話だ?」

「『米で旅客機墜落』という新聞の見出しを見て首をひねったってさ」

「やれやれ、そういうやつらにこっちが合わせなきゃいけない時代なのかね」

「お前も若者相手の会なら『月とすっぽん』じゃなく『Tバックとティーバッグくらい違う』って言えば分かってもらえたんじゃないか?」

「ハハハ、そりゃいい」

「ティーバッグで思い出したが国名の変更はどうなんだろう。セイロンティーは今はスリランカティーと言うのかな?」

「紅茶はまだいいさ。『ビルマの竪琴たてごと』が『ミャンマーの竪琴』じゃ締まらない」


客が帰ると会長が腕組みをして考え込んだ。

「波平さん、どうした?」

「『Tバックとティーバッグ』というのは何が面白いんだ?」

「そこかい? ギャグのセンスがねえな、ただの言葉遊びだよ。そろそろ色眼鏡の兄ちゃんが来る頃だぜ」

「色眼鏡という言葉は懐かしいな、久しぶりに聞いた」

会長がそう言い終わると同時にサングラスをかけた青年が店に入って来た。

「会長、お迎えにあがりました」



★6月29日

「らっしゃい。会長、調子はどうだい?」

「別に変わりはないがそれがどうした?」

「昨日ギャグの勉強をしたろう? こっちが『会長』って振ったんだから『快調だ』くらい返さなきゃ」

「ふん、面白くもない。ん? メニューが増えたな。『貧乏フライ定食』か、食べてみよう」

店主が運んできたのはご飯とみそ汁、おかずの皿には板付きかまぼこ型の小さなフライ8個と千切りキャベツが盛られている。

「魚肉ソーセージ1本分のフライだ。ソースでも塩でもいける。貧乏くさいが味は保証するぜ。おや、可愛い常連さんが来た」

「おじさん、いつものリッチカレー」

二人連れの女子高校生の来店で店主は嬉しそうに厨房に戻った。


会長は定食をゆっくり食べながら女子高生たちの会話に耳を澄ませた。

「文化祭で販売する部誌、玲奈は今年も詩を書くの? ペンネームは谷川俊子だったっけ?」

「今年はSF推理小説でいく。ペンネームも変えて利根川散歩」

「なに、そのダサい名前」

「エドガー・アラン・ポーをもじった江戸川乱歩をリスペクトしたの」

「リスペクトっていうよりディすったみたい。それでストーリーは?」

「C14年代測定法って知ってる? 遺跡や遺物がどの時代のものか科学的に分かるっていう、」

「それをネタに使うの?」

「うん。邪馬台国の卑弥呼の遺骨が発掘されたって設定にする。そしてこの年代測定法で卑弥呼は教科書に書かれてる3世紀じゃなくてずっと後の時代の人だと判明したことにするの」

「ふんふん、それで?」

「卑弥呼は未来からタイムスリップした人間ってことになるんだからいろんな占いや予言がバンバン当たるって展開もありだよね? ファンタジーの要素が入った作品はウケるから」

会長が興味を持ってテーブル席を振り返ると話している女の子と目が合った。

女の子は話をやめて立ち上がった。

緊張した面持ちの会長の脇を彼女は素通りして奥のトイレに入った。


女子高生たちが帰ると店主が小上がりの会長の側に腰かけてくんくん鼻を鳴らした。

「確かに臭いな。波平さん、ちゃんと風呂に入ってるかい?」

「なんだ、藪から棒に」

「さっきトイレに立った子が勘定の時に言ったんだよ、あんたの横を通った時けっこう匂ったってさ」

「そうか。体臭は自分では気づかないものだな」

「帽子も服もよれよれじゃねえか。有名人だからってここまで身をやつさなくても」

「これにはわけがあるんだが、それはともかくあの子が側を通った時はいい匂いがした」

「近頃は女子高生の香りがする制汗剤まで売られてるらしいぜ」

「それを空に向けてスプレーしたら久米さんが落ちてくるかもしれんな」

「久米さんってのは誰だ?」

「女好きの仙人の話だ。ところで亭主、わしの服と同じくこの店もくたびれておるな」

「築50年を過ぎてんだからこの程度なら良しとしようや」

「建て直したらどうだ、金なら出してやってもいいぞ」

「真っ黒けのアイス屋から施しを受けるほど落ちぶれちゃいねえよ。この間も星を一つやるって偉そうに言った奴らを追い返してやった」

「星をやる?」

「マゼランだったか何だったか、グルメのガイドブックの調査員だ。二人で来て夫婦のふりをしてやがった」

「料理は個性的で旨いがこんな店に星を?」

「こんな店で悪かったな、古くても汚くはねえだろうが。椅子やテーブルは脚まで、カウンター板も裏側まで毎日拭いてんだ、鼻くそをなすりつけたりする奴がいるからな。食卓塩の瓶にはった米粒を入れてるだろ? 湿気を吸うから乾燥剤がわりだ。醤油やソースの瓶も残量がいつも同じ高さになるように補充してる。そういうところは奴らも商売柄ちゃんと気づいたみてえだ」

「なるほど。調査員は料理以外の気配りも評価するのか」

会長が感心していると入口の戸が開いた。

「会長、お迎えにあがりました」



★6月30日

「亭主、昨日の女の子たちが注文した『リッチカレー』というのは何だ? メニュー表にないが」

「常連さんの裏メニューだよ。と言っても売れ残った貧乏カレーを温めなおして出すだけだがな」

「それがどうしてリッチカレーなのだ?」

「シャバシャバの貧乏カレーを何度も温めりゃどうなる? 煮詰まって普通の濃さになるじゃないか。そうなりゃもう貧乏とは呼べねえ。2日目のカレーが旨いってのもリッチたるゆえんだ。お、客かな?」


自衛隊の迷彩服を着た年かさの男が入ってきた。

「部下がもうすぐ来るんでフライ定食を二つ、一つは大盛りで」

言葉どおりすぐに入口の戸が勢いよく開いて若者が現れた。

「遅れてすみません隊長。墓参りに寄ってきたもので」

「俺も今来たところだ。お前たちの班は水害復旧で1週間大変だったろう、今日は腹いっぱい食え。ところで誰の墓参りだ、親御さんは健在だろう?」

「婆ちゃんです。自分がガキの頃に死んだんですが『くそババア、早く死ね』とか悪態ついてたんで罪滅ぼしに」

「急にまたどうして?」

「今回の出動のおかげです。現地を引き上げる時疲れ果ててトラックで横になってたら沿道に町民がずらっと並んでいたんです。まだ片付けが残ってるはずなのにものすごい人数でした。そして自分たちのトラックが通る時お婆さんたちが何人も地べたに座り出したんです。小雨が降っててぬかるんでるのに正座して手を合わせて自分たちを拝むんですよ、隊長……」

若い隊員は箸を置いて目頭をぬぐった。

「自分たちはもう歯を食いしばって敬礼するのがやっとでした」

「いい経験をしたな」

「はい、それで死んだ婆ちゃんを思い出したんです。優しくしておけばよかったって」


自衛隊員が引き揚げると会長がしんみりと言った。

「いい話を聞いたものだ。飲まずにはおられん、亭主、生ビールをもう一杯」

「そうくると思ってツマミも作ってるよ」

「たまねぎの貧乏スライスか?」

「初登場の貧乏揚げ物盛りだ、ほら」

「これはフライ定食のおかずではないか」

「よく見てみな、材料は同じ魚肉ソーセージでもフライだけじゃなく素揚げと天ぷらも交えた三種盛りだ。貧乏だけど豪華だろ? ナスの三杯酢漬けも開発したぜ」

「ナスはいらん」

「いい年して好き嫌いかよ、ま、良しとしよう。お、今日は繁盛かな」


年の離れた男性の二人連れが店に入って来て小上がりに座った。

「大将、生ビールを2杯。ツマミは何が?」

「ソーセージの揚げ物三種盛り、ナスの素揚げの三杯酢はどうです?」

「じゃそれ両方とも」

二人はビールのジョッキを持ち上げた。

「お前の再スタートに乾杯だ。仕事が見つかってよかった」

「頑張るよ」

「お前はまだ30だが世の中には40代50代でもバカな犯罪を犯す人間がいる。しかもそんな連中はたいてい無職だ。ニュースを見るたびに胸が痛む」

「父さんは優しいな」

「なんの、腹が立って胸が痛むんだ。ただでさえわしら年寄りの年金を支える働き手が減っているのに働き盛りの30代や40代で刑務所に入られちゃたまらん。刑務所は税金でやってるんだから二重に迷惑だ」

「僕もごめん。どこに勤めても長続きせず焦って儲け話に飛びついたばっかりに」

「冷静に考えれば健康食品の訪問販売で月に50万稼げるわけはないんだがな」

「騙されて膨らんだ借金のせいで父さんたちが離婚したって聞いた時は死んでしまいたかった……」

「男ってのは道徳で物事を考えたがるんだ。だからお前のように生きるのが辛くなったりもする。女は違う、生きていく上で必要かどうかで動く。お前の借金の取り立てに嫌気がさして出て行った母さんはある意味たくましい。心配はいらん」

「母さんだけじゃなく家まで……」

「そうでもしなきゃ600万って金は作れんからな。高く売れればいいが」

「これが当たればいいんだけど」

息子がポケットから宝くじの10枚入りの袋を三つ取り出した。

父親はそれを見て眉をひそめた。

「一攫千金を狙うのはもうよせ。二人で安いアパートに移って地道に生きていけばいい」


気まずい沈黙に陥った親子に会長が声をかけた。

「すみません、話が聞こえたもので。わしは神主をやっておるんですがよろしければ宝くじが当たるように特別な祈祷きとうをしてさしあげましょう。もちろん代金はいただきません」

息子は父親の顔色をうかがいながら遠慮がちに宝くじを会長に渡した。

会長は宝くじの袋を自分のテーブルに置いて正座し、両手を組んで振り動かしてお祓いのようなしぐさをした。

宝くじを返してもらった息子は礼を言い、小難しい顔の父親に付いて店を出た。


入れ違いに3歳くらいの男の子を連れて若夫婦が入って来た。

テーブル席に座った夫婦が食事の注文を終えた時、また入口が開いた。

「会長、お迎えにあがりました」

サングラスをかけた青年に会長は軽く手を挙げて応え腰を上げて店を出た。

するとテーブル席の男の子が指さして母親に言った。

「ママ、あの人、ぴかぴか」

母親は慌てて子供をたしなめた。

「あんな人にそんなこと言っちゃダメ!」



★7月15日

「半月ぶりだね、波平さん。ずっと日参してたのにどうしたんだい?」

「体調がすぐれんのだ」

「これで元気を出しな」

店主がぽんと100万円の札束を会長の前に置いた。

「宝くじが当たったんだとさ、1千万円! こないだの親子、家を売らずにすむって大喜びさ。あんたに礼を言ってくれって預かってたんだ」

「それはよかった。気持ちだけ頂こう」

会長は表情一つ変えずにそう言うと札束を店主の方へ押しやった。

「返すのかい? ま、良しとしよう、波平さんにとっちゃはした金だろうからな。それにしても神主のまね事を始めた時は噴き出しそうになったぜ。気休めだったんだろうがまぐれ当たりってのはあるもんだな」

「まぐれではない」

「そんなら波平さんは神様なのかい?」

「そうだ」

店主は声に出して笑った。

「上等だ、ギャグが分かってきたね」

しかし会長がにこりともしないので店主も笑いを収めた。

「冗談なんだろ?」

「冗談ではない。正確に言えば天人だが」

「天人?」

「わしが女ならば天女だ。三保の松原に舞い降りた天女の話は有名だから知っておろう」

「絶世の美女が自分は天女だって言うなら分かるけどハゲ頭の天人ってのはどうもなあ。改めて見ると子供が言ったとおり見事にぴかぴかだね」

「子供?」

「この間あんたが帰る時に客の小さな子供が指さしてぴかぴかだって言ったんだよ」

「子供は正直だからな」

「ちょっと変だったんだけどね。子供が指さしたのは波平さんが外に出た後で運転手の兄ちゃんが波平さんのお勘定の支払いをしてる時だったんだ」

いぶかる店主と対照的に会長は満足げに頷いた。

「ははあ、そうか。子供は純真だから彼のオーラが見えたのじゃろう」

「サングラスの兄ちゃんのオーラ? 何のこったい? それよか話を戻すけど波平さんが天人だって言うなら証拠はあるのかい?」

「神通力で宝くじを当ててみせたではないか。他にも空を飛ぶとか」

「いいねえ、飛んでみせてくれよ」

「人間も似たようなものではないか。飛行機に乗るのはわしらが空を飛ぶのと同じだ。スマホもそうだ。地球の裏側の情報を一瞬で知ることができるのは神わざと言っていい。そんなことより亭主、今日はお別れにきたのだ。短い間だったが世話になった。様々な喜びや悲しみの中で人間が生きている姿がこの店に通ってよく分かった、礼を言う。終活をやり遂げたからこれで思い残すことなく死ねる」


「ちょっと待ちな、頭がおかしくなってきた」

店主はジョッキの生ビールを2杯持って会長の前に座った。

「飲もう。シラフじゃ聞けねえ話ばっかりだ。だいいち天人なら死ぬわけねえだろう」

「わしらのいる天界は居心地がよすぎて反省心や向上心が持てない。だから真理を悟りきれずに輪廻りんね転生てんしょうをしなければならん。この人間界はランクこそ一つ落ちるが喜怒哀楽の中で揉まれるからかえって天界よりも悟れるチャンスがあるのだ。わしは死んだら人間界に転生することになっておる。それで特別に天界のわしのご主人に願い出て死ぬ2日前から人間界の事前視察に来ていたというわけだ」

「2日前? ギャグはもういいよ。波平さんの年は60半ばだろ?」

「わしら天人の1日は人間界で言えば50年に相当する。だから65歳のわしだが天界の時間感覚で言えば2日目なのだ。ところで亭主、覗きは好きか?」

「今度は下ネタかい?」

「わしらは時々やっておるがの」

「天人のくせに覗き見を?」

「刑事ドラマで取調室の様子をマジックミラーで覗くじゃろう。あんなふうに人間界を見下ろす窓がたくさんある。天空のウインドウズだ。じっくり覗いた結果、マックロソフトの会長になってこの店へ通うことも含めて65年間、天界時間では2日間分の転生事前研修計画を立てたのだ」

「そんな細かいことはどうでもいいが、もうすぐ死ぬってのは確かなのかい?」

「わしらが死ぬ時の症状は天人五衰てんにんごすいといってワイキキペディアという辞書にも載っておる。『①着ている服が垢じみてくる ②被り物が汚れてくる ③体が臭くなる ④腋の下に汗が出る ⑤いるべき場所に落ち着いていられなくなる』」

「けっこう当てはまっちゃいるな。帽子も服も汚れてるし女の子に臭いと言われたし。④と⑤は分からねえが」

「会社の会長室にじっとしておれずにここに入り浸っていたではないか。それにこの店でも時々シャツのボタンを外しておしぼりで腋の下を拭いておった。ところで亭主、ものは相談だが奥さんや子供はいないのか?」

「何の相談だい? あんたが宝くじを当ててやった客とおんなじさ。俺が仕事を定年退職後、この店を始めるって言った途端にかかあは付き合いきれないって出て行っちまったよ。子供は嫁いだ娘が一人いるきりだ。そんなことより今日が最後なら新しいメニューを食って行かねえか?」

「もう時間がないが、どんなメニューだ?」

「貧乏うどんだよ。麺もスープも市販のやつで具はウチのプランター育ちのネギと芸術的なまでに薄いかまぼこだ」

会長は目を大きく見開いてパンッと両手を打ち合わせた。

「思い出した! 前世で最後に口にしたのがうどんだった。わしは前世の人間界では餓死したのだ」

「餓え死にとは穏やかじゃねえな」

「周りの者に自分の食いぶちも分け与えていた記憶がある。その善行のおかげで死後天界に転生できたのだが、貧しかった前世の影響でこの店の貧乏メニューに惹かれたのだろうな。よし、一杯くれ。今生こんじょうも最後にうどんを口にして心置きなく死ぬとしよう」


「あいよ」と店主が厨房に向かおうとした時、サングラスの青年が店に入ってきた。

「会長、お迎えにあがりました」

会長は世にも情けない顔で立ち上がった。

その会長の肩に店主が手を置いて言った。

「波平さん、食い終わるまで兄ちゃんを待たせ、」

会長は慌てて店主の話をさえぎった。

「そんなことができるものか。彼は青年の姿をしているが実はわしの研修監督者で帝釈天たいしゃくてん様の分身なのだ。サングラスをしてもらっているのもわしには眩しいほどの眼光を放っておられるからなのだ」

そう聞かされても店主は青年には目もくれず、車に乗り込もうとする会長に声をかけた。

「ほんとにこれっきりなのかい? あんたが天人だろうが何だろうがどうでもいいが寂しくなるな。死んでも達者でな」



★7月20日

夜遅く『タベルナ やばい』の入口の戸が開いた。

「悪いな、さっき終わったとこなんだ。ん? なんだあんたか。新聞で見たよ、波平さん死んじまったな」

サングラスの青年は一礼して店に入ってきた。

「葬儀にはおいでいただけませんで」

「招待されたからって大企業の会長の葬式にのこのこ出ていくほど野暮じゃねえよ。それに店がえらく忙しくなっちゃってね」

「そうでしたか」

「訳が分からないから一見いちげんの若い客に聞いてみたんだよ。そしたら、これを見ましたってスマホを取り出したんだ」

「グルメのサイトを検索したのでしょう」

「サイトって言うのかい、見せてもらった画面の一番上には『食べくちグ』とか書いてあって黄色い星が幾つか並んでて店の評判まで載ってた」

「クチコミですね」

「掲載を頼んだ覚えもないのに、料理が安くて独創的、マスターも個性的で超有名グルメブックの調査員を追い返した、宝くじも当たるパワースポットとか色々書いてあった。とにかくひっきりなしに客が来るんだ」

「会長がお世話になったせめてものご恩返しです」

「あんたのしわざだったのか! そういえばあんたもあっちの世界の人だって波平さんが言ってたな」

「会長が亡くなり私もお役御免です。今日は天界に戻る前に会長の書き置きを届けに来たのです」

青年は四角い洋封筒を店主に手渡して店を出た。

封筒の表書きは「『タベルナ やばい』店主 耶馬井やばい良敏よしとし殿」、裏面の差出人は「マックロソフト日本店取締役会長 波平」となっている。

封を切るとメッセージカードに歌が一首書いてあるきりだ。

相見あいみての別れならぬは良しとせん うどんしょくせずくが哀しき」

「未練がましいことを言いやがる。本当に人間界に転生するんならこの近所に生まれて食べに来りゃいいじゃねえか」

そう呟きながらも店主は厨房に入った。

そしてうどんを作り終えると店の神棚に供えて手を合わせた。

「波平さん、これを食って成仏しな」



★翌年10月25日

「この子ったらおじいちゃんにばっかり抱っこされたがって」

「諦めてたから余計にかわいいな。お前が妊娠したって聞いた時は驚いたよ。去年波平さんが亡くなってすぐの頃だったかな」

「波平さんって?」

「うちの客だった人だ。お前が今座ってるところにいつも座ってた。ところで今日は旦那はどうした?」

「泊りがけで会社の慰安旅行」

「それならお前も今日はうちに泊まっていけばいい」

「うん、そのつもり」

「いないから言えるがこの子は旦那に全然似てないな。顔が整って日本人離れしている。旦那はどっちかと言えば人間離れしてるからな」

「失礼ね。でも確かにこの子、ハーフっぽいイケメンになりそうだから大きくなったら芸能事務所に入れようかな」

「おや、ぐずり出したぞ。おっぱいが欲しいんじゃないか」

「いやねえ、もうとっくにお乳は離れてるわよ。たいていのものは食べるわ」

「それじゃ冷蔵庫の中のものを適当に見つくろって食べさせてやれ。ナスのグラタンもあるからチンすれば離乳食にちょうどいい」

「この子ナスは苦手なの、おうどんにしてくれない?」

「よし、任せとけ」

店主は厨房に入ってうどんを作り始めた。

できあがると小上がりに運び、母親の膝に抱かれている初孫の前に置いた。

「はいよ、貧乏うどん一丁あがり。お? 笑った笑った! そんなに嬉しいか?」

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