第7話 隠れ家

 晴天の午後。僕は一週間ぶりに喜納家の門をくぐった。

「こんにちは」

 玄関は通らずに庭へ廻る。沙絵さんに、その方がいいと言われたのだ。

 角から覗き込むと、縁側で煙草を吸っていた雅尚さんと目が合った。

「よく来たね。上がりなさい」

 雅尚さんが、そう声を掛けてくれる。縁側に上がった僕は、膝を付いて靴を揃えた。以前後ろ向きで上がろうとしたら、沙絵さんに「行儀が悪い」と叱られたのだ。意味が分からなかったが、一生懸命怖い顔をしようとする沙絵さんが可愛すぎて、叱られたにも関わらず、にやけてしまったのを憶えている。

 居間に入った僕は、ふと部屋に残る微かな匂いに、無意識に鼻を動かしていた。

「焦げ臭いかい?」

 雅尚さんが笑う。

「もう三日経つんだが、また臭いが残っているみたいだね。実は沙絵が、いちご大福を作ろうとして失敗してね」

 先日のいちご大福があまりに美味しかったから、作ってみようと思ったそうだ。

餡子あんこは上手く出来たんだけどね、求肥ぎゅうひをつくる時に焦がしてしまったらしくて。おかげで僕は、三日間汁粉しるこを食べさせられた」

「もう。言わないでって頼んだのに」

 沙絵さんが口をとがらせる。もう、の前に小さな「ン」が入ったような甘えた口調に、少しだけ胸がどきどきした。


 見た目から、彼は小説家なのだと勝手に思い込んでいたが、実はそうではないらしい。元々教師をしていたけれど、身体を壊して今は無職なのだという。

「少ない貯金と、沙絵の内職に頼っているんだ」

 少々自嘲気味にそう言う雅尚さんに、それ以上は聞けなかった。どの家にも事情はある。気にするなんて、余計なお世話だ。

 沙絵さんは内職でモールのヒヨコを作っていた。カラフルなモールをペンチで切って、ヒヨコの形に整える。ビーズの目と、くちばしと脚をつけて出来上がり。手のひらに包まれてしまう程の大きさの色とりどりのヒヨコを、沙絵さんは一つ一つ丁寧に作っていた。

 内職なんて大してお金にならないと母が言っていたのを思い出す。雅尚さんは、沙絵さんを外に働きに行かせたくないのかもしれない。意外に焼きもちやきなんだと思うと可笑しかったが、その気持ちはよく分かった。

 ちゃぶ台の上にテキストを広げる僕の隣で、沙絵さんはヒヨコを作る。雅尚さんは時々勉強を見てくれて、時々、長い指でヒヨコを摘まんで、生きているものにするように、そっと頭を撫でていた。

 柱時計が四時を打つと、沙絵さんは内職を終え、踏み台に上がって時計の螺子ねじを巻く。その背中を支える雅尚さんの手が優しかった。

 僕は雅尚さんがうらやましかった。仕事がなくても身体が悪くても、愛情さえあれば、こんなに幸せなのだ。

 いい大学を出て、いい会社に就職して──僕の場合は父親の歯科医院を継いで──それが幸せな未来なのだと教えられてきたけれど、もしかしたら違うのかもしれない。裕福であること。良い肩書を持っていること。皆が大切だと思っていることは、実は二次的な事ではないのだろうか。好きな人が笑顔でいる事。それ以上に大事な事なんてあるのだろうか。


 この家は、とても静かだ。大通りから一筋内側に入っているせいか、外の騒音も聞こえて来ない。テレビもなく、電話の着信音すら聞いたことがない。新聞も、宅配の荷物も来ない。まるで別世界にいるような、そんな不思議な空間だった。時折りボーンと鳴る柱時計の音だけが、時間の経過を教えてくれた。

 ひっそりと身を隠すように、沙絵さんたちは生きている。彼らの事情を尋ねようとは思わない。知ることで、この優しい時間を失うのが怖かった。

 此処は僕にとって大切な居場所だ。静けさと安らぎに満ちた場所。誰にも教えたくない秘密の隠れ家。心のよりどころ。

 それを求めたという事は、僕もやはり現実から逃げ出したいと思っていたのだろうか。両親の期待を裏切らない優等生。苦も無くそれを演じられていると思っていた。いや、演じているという実感すらなかった。当たり前の、あまりにも当たり前のことだった。道の先にある目的地は明確で、僕は自分の意志でその道を歩いているつもりだった。

 けれど僕は結局、全寮制の高校を選択した。家を出ることを望んだ。──つまりは、そういう事なのだろう。


 縁側に座る雅尚さんの向こうに、小さな北山杉が見える。

 生け花の水盤のように見える枝の、濃い緑の葉の中から、頼りないぐらい細い幹が伸びていた。幹というより、茎のようだ。先端に飾りのような葉をつけて、真っ直ぐに天を目指している。人の手によって作られた形であるにもかかわらず、素直にそれを受け入れ、何も疑わず、すくすくと伸びる。痛々しい程に生真面目で。けれど僕は、それを愛おしいと思った。

「写真撮ってあげようか」

 北山杉を眺めていると、雅尚さんの声がした。手には一眼レフを持っている。プロが持つような立派なカメラだ。

「沙絵も、そこに立って」

 沙絵さんがあわてて髪を直す。エプロンを外すと、白いえりのついた濃紺のワンピースを着ているのが分かった。細い腰に同色のリボンが巻かれていた。

「そうだね。明日夢くんは、もう少し右。沙絵は動かないで」

 盆栽のような北山杉を間に挟んで、僕たちは写真に納まった。シャッターを切った雅尚さんがレバーを操作すると、小さくジーッという音がした。

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