ひみつのカフェの読書つどい

上雲楽

ようこそ!

「お姉ちゃん、無趣味ってマジ!? 人生半分損してるって!」

 ピンクのゴムでまとめた短い髪が跳ねて、廣井みはるちゃんが宿題の手を止めた。

「コーヒー淹れることとかでもなく?」

 帆苅たかえちゃんは謎人間を見るように首を傾げて、テーブルの上のコーヒーに入れた砂糖をかき混ぜている。

「きっとお勉強にお仕事に忙しいのですわ。好きなことできないなんて難儀ですわね……」

 糸見さえかちゃんは変わらず笑顔のままだが、こちらが趣味があることを前提にしていて、やっぱりズレている。私、藤澤さゆみは女子小学生三人に詰問されて、苦笑い中。マスターに助けを求めようとカウンターをチラ見したが、また腰が痛いのかどこかに行ってしまっていた。頼むね、とは言われたけど。

「うーん、別に子どものころからあまり趣味ってなかったかも。コーヒー淹れるのはバイトだから趣味じゃないしなあ。みんなの趣味は……」

「読書!」

 三人が間髪を入れず即答する。このこじんまりしたカフェ「ばべる」で働き始めてから一週間くらい経つけど、ほとんど毎日三人は来て、コーヒーをご馳走して貰って(さえかちゃんの義理の大叔父さんがマスターらしいから甘やかされている)、宿題をして、お喋りしていた。カフェに他のお客さんは全然来ないから、三人にとっては秘密基地みたいなものらしい。

「へー。みんなはどんな本読むの?」

 テキトーに返事すると、空気がピリついた。さえかちゃんは口をあわあわさせている。少しの沈黙のあと、

「お姉ちゃん、そりゃ宣戦布告だよ」とみはるちゃんがにやりとした。

「そうだねー、あたしが好きなのは……」

「って、みはる先輩ストップ! またベラベラ押し付けるつもりでしょ!」

 たかえちゃんが横に座っているみはるちゃんの口を抑えて、二人がモガモガ暴れている。

「小説が多いですけど、みんな本が好きなのです。さゆみお姉さんは好きな本はありますか?」

 さえかちゃんはコーヒーを一口飲み、二人の騒ぎを見て落ち着いたらしい、二人を無視して私に微笑みかけた。

「確か、みんなくらいの年齢だと、『ドン・キホーテ』で読書感想文書いた覚えが……。なんか勘違いして、主人公が風車に突撃してボロボロになるの」

「『ドン・キホーテ』! あれはやっぱり近代小説の起源かつ、達成の一つだよね! あたし、後編大好き」

 みはるちゃんが目を輝かせているが、後編って何?

「さゆみちゃんはたぶん、岩波少年文庫版の抄訳を読んだんじゃない? ほら、途中から自己言及的なメタフィクションになるでしょ」

 たかえちゃんが、キョトンとしている私をフォローするように言ったが、「ドン・キホーテ」ってそんな話だったっけ?

「あー、思い出してきたかも。面倒になって、途中で読むのやめちゃった気がする」

「それはもったいないですわ!」

 さえかちゃんが握りこぶしを作った。

「確かに、騎士道物語を皮肉った前編部分は、喜劇として古びている印象は否めませんし、いや、十分愉快なものですが、『ドン・キホーテ』の真価は続編として書かれた後編にあるのです。パロディから、自己言及的な小説批評への鮮やかな深化! それは私たちの小説を読む営みについての言及でもあり、『小説についての小説』すなわち先行するテクストを意識することなしにもはや何も書けないという近代以後の状況を鋭く抉る、原点にして頂点なのです」

「『資本論』で『ドン・キホーテ』に出てくる女中のマリトルニスを引き合いに出しているのも見過ごせないな。優れたフィクションである以前に、優れた社会批評としても機能しているってこと」

「たかえはマルクス主義フェミニズムのシンパだからなー」

 みはるちゃんがたかえちゃんの頭をぐりぐり撫で回した。

「もう! みはる先輩ウザいー! 私! 全然! マルクス主義者でもフェミニストでもマルクス主義フェミニズムにライドしているわけでもない! でも、巽孝之が、『西洋世界において世界をすべて説明できる二つの公理があるとしたらそれはキリスト教とマルクス主義である』って言っているじゃない。マルクス以後の社会に生きる私たちが思考の形態として素朴にマルクス主義を無視する方が不自然だってば」

「あたしら東洋人じゃん」

「近代的合理主義を受け入れた時点で西洋世界のイデオロギーを内面化したと同義なのー!」

 二人はまたドタバタと頭をワシャワシャし合っている。さえかちゃんは涼しい顔でくすくす笑って、視線を私に送った。

「『労働』の問題に『ドン・キホーテ』を還元するのは違う気がしますけど、『近代』を考えるにあたって重要なテクストであることは間違いないですわね。わたくしはフーコーの指摘、類似から表象へのエスピテーメーの変転として捉える方が面白いですけども……」

「へー。なんかメタフィクション? っぽいのかな。最近、全然本読んでないし、読書しなきゃかも」

 私はたははと笑ってポリポリ鼻をかいた。なんか話聞いていると難しそうだな。最近の小学生はマセているね。

「お姉ちゃん! 義務で読書するのは楽しくないよ! っていうか、本読むのって楽しいから、単に楽しいことすればいいんだよ」

「ごめん、さゆみちゃん。みはる先輩のパターナリズムは治らないの」

「でもなんか読みたいかなってのは本当。みんな、いつも本の話しているでしょ。趣味の友だちとかいいなーって思ってて」

「ふっふっふ。ではお姉ちゃんを読書友だちに鍛え上げてしんぜよう」

 みはるちゃんが口元を隠すように肘をついて手を組んだ。

「もう、みはるちゃんってば……。でも、わたくしも、お友だちが増えるのは嬉しいですわ」

「無理しなくていいからね、さゆみちゃん。先輩たち、こーやって押し付けるから学校でも逃げられてるの」

「わたくしはただ、図書係のお仕事として、朝の十分読書を提案しただけですわ」

「あたしも、お楽しみ会でビブリオバトル企画しただけだって! お姉ちゃんは手始めに、そうだなー、ショーペンハウアーの『読書について』を読んで貰おうかな」

「ショーペンハウアーって確かなんか暗い人だよね。それ、読書論みたいな?」

 名前は聞いたことある気がする。私はカウンターから椅子を一つ持ってきて、みんなが座っているテーブルの横に座った。

「先輩ってば、すぐそうやって意地悪するんだから! そもそもショーペンハウアー的なペシミズムは先輩こそ嫌いそうなのに」

「わたくしも、最初はもっとフランクな方がいいと思いますが……」

「まあ聞いてよ、訳の硬さは鈴木芳子訳の光文社古典新訳文庫なら普通に読みやすいし」

「なんかワケありの本なの?」

 私は首を傾げる。

「特に謂れはありませんが、アフォリズムが強烈なので、読書観を固定されかねないのが心配で」

「私は、普通にイタい感じがどうもな。偉そうな中二病おじさんの厭世アピールって寒いじゃん」

「否定はしないけどそれ偏見! 一つの心構えとしてショーペンハウアーを読むなら、多層的読みを実践しやすいと思う! 例えば、『読書とは他人の頭で考えることだ』って一節は有名だけど、その心構えがあれば、自意識に飲み込まれた読みを自ら相対化できるし!」

「私は先輩と逆だなー。他人の頭で考えられるほど、どっぷり浸かる読書こそ楽しみだと思うけど」

「ボルヘスの『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナールを思い出しますわ。あの小説も他人の頭で考えることと書くことについての思考実験的なユーモアがありますわね」

「それで言えばショーペンハウアーだって毒舌系のユーモアだよ。そのへん、トークバラエティ番組的な気軽さがあると思うな。ページも薄いし」

「バラエティと同じは違くない? 体系の形成されない読書はしょうもないから、新刊漁るより古典を読め、ってのがショーペンハウアーでしょ。バラエティはその場だけの極みじゃん」

「『読書について』はそんなに体系的な本じゃないし」

 みはるちゃんがけけけと笑った。

「ちょっとエッセイ的な感じもあるってこと?」

 私が口を出すと、さえかちゃんも、にっこりとした。

「そういうつもりで読むのがちょうどいいかもしれませんわね。言葉のインパクトが強いので、それに対して距離感が保てるかもしれません」

「言ってることは、現代にも簡単に適用できるのは認めるけどね。それが素朴なモットーとして濫用されそうで危うくも感じるけど。まあ、悪書批判とか匿名批評批判とかわからなくもない」

 たかえちゃんがちょっとバツが悪そうに口を尖らせて、私を横目で見た。

「たかえはすぐネットでレスバするもんね」

「してない! ……こともないけど」

「でも、古典を読め! ってなんか権威主義っぽいな。しかも読むのたいへんそう」

 私はちょっと面倒そうに顎を撫でた。

「価値体系の知識がなければ、自ら価値を新たに創出するのが難しいのは事実かなー。やっぱり守破離って感じ?」

「読み解くのがたいへんだからこそ、思考の新しい回路が開けるところもありますわ。古典を読むのがコンテクストの読解に、巨人の肩を借りられて楽だということです」

「じゃあ、やっぱり光文社の訳は読みやすすぎるからダメだね! 読書筋に負荷かけていかないと」

「やっぱりかき回したかっただけでしょ!」とたかえちゃんが吠えて、みはるちゃんが口笛を吹いた。

「でも、光文社古典新訳文庫はフレンドリーな翻訳が多くて助かりますわね。さゆみお姉さんが知っている本も多いと思うので、とっかかりに良いですわ」

「さすがさえか先輩! やっぱりさゆみちゃんに読んで貰うのが一番の目的でしょ。なら、もっとエンタメじゃないと」

「わたくしは、ジャンルフィクションは暗黙のコードが多くて頭沸騰しちゃうのですよね……」

「ドン・キホーテ繋がりで、『ドン・キホーテの末裔』はどう? 清水義範は真剣寄りな長編でも軽やかで読み心地がいいよ」

「やっぱり、読ませることについて考えると、読むことや書くことに関心が強い本ばかり気にしてしまいますわね」

 さえかちゃんがちょっと困り顔をした。

「『涼宮ハルヒの末裔』みたいな感じ?」とテキトーに返事する。

「え? いや、二次創作って意味ではそうなの……かな?」

 たかえちゃんが腕を組むと、みはるちゃんがたかえちゃんの背中をバンバン叩いた。

「へっへっへ! 二次創作ではない書物がどこにあるというのだ! 構造だけ抜き出しても、既存の通俗小説への自己言及的なメタフィクションだと考えれば、『涼宮ハルヒの憂鬱』だって『ドン・キホーテ』すぎる!」

「清水義範の『パスティーシュ作家』としての作風と通底しますし、『ドン・キホーテの末裔』はパロディ小説としての『ドン・キホーテ』に関心が強いですわね。構造を愛でるのも楽しいですが、一文一文がパロディ小説をなしていることが重要かもしれませんわ」

「でも、『ドン・キホーテ』パロディはいっぱいあるけどさ、奇人としてのドン・キホーテに着目したのが多くて、形式によって形式を語る『ドン・キホーテ』の方法のパロディはそれだけでありがたく思って。しりあがり寿の『"徘徊老人"ドン・キホーテ』とか、正気と狂気の相互侵犯までは行くけど、マンガ表現自体に対峙するわけじゃないから」

「あたしは別に媒体自体に対峙してりゃ、偉いとは思わないなー。素朴なメディウムスペシフィシティの称揚って、けっきょく何も褒めてないのと一緒だし」

「わたくしは、自省がもたらす自己批評的な効果は、表現の可能性とほぼイコールにしてしまいがちですからそれこそ反省かもですわ。わたくし、pixivで、FGOのドン・キホーテのポルノイラストをいくつか拝見したのですが……」

「なんで?」

 たかえちゃんが苦笑いする。

「かわいくないですか? それで、素直に二次創作っていいものだと思ったのです」

「そうねー」と私はくすくす笑ったが、たかえちゃんとみはるちゃんは顔を見合わせて、同じ方向に首を傾げた。

「とにかく、お姉ちゃんはちゃんと読むこと!」

 みはるちゃんが指を突きつけた。

「けっきょく何読めばいいんだっけ? ドン・キホーテ?」

「あ、そうだった、たかえちゃんにオススメするの考えるんだった」

「ちょっと待って、必読リスト作るから!」

「わたくしが、さゆみお姉さんに読んでほしいものって何かしら」

 三人がわらわらと本の題名を挙げていった。その間、スマホで『ドン・キホーテ』を調べると、前編、後編で全四巻だった。長くて面倒だなと思ったけど、子どもたちがはしゃいでいると、楽しそうなのかなーと思った。

 激しい議論が続き、何十冊にも及ぶリストが整理されて、けっきょく読むべき本は、「ジャイアントロボ 地球の燃え尽きる日」に決まった。絵柄が濃いな、と思った。



 



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