第3話
ルイと約束した絵の発表会を翌日に控えた日、私はいつになく憂鬱な気持ちでいた。
その理由は手に持っているタブレットにあった。
画面には、私のお母さんのインタビューが表示されている。
どうやら私の兄弟が将棋で新しいタイトルを取ったらしく、素晴らしい子供を育てた『母親』として、お母さんはインタビューを受けたようだった。
『五紀の才能は最初から抜きん出ていました。全てはあの子の努力によるもの。努力ができる子供を育てるのに少しコツはいりますが、それについてこられたのも、あの子の実力です』
続けてお母さんは、自分の子供たちのことを並べて褒めていた。
豪胆な政治家。素晴らしいアスリート。偉大なる芸術家。屈指の名医。卓抜した俳優……。
しかし、そこには私の名前がなかった。
兄弟の中で私だけ。私だけ、名前がなかったのだ。
胸の中に焦げ茶色の感情が広がる。
心臓が嫌な音を立てて、そわそわと落ち着かない。
叫び出したいような、走り出したいような、なにかを殴ってしまいそうな衝動が身体中を巡って。だけど実際の身体は鉛のように、指一本も動かす事が出来ない。
この感情は、劣等感、だろうか。
それとも、焦燥? 怒りが近いような気もしてくる。
「うっ――」
私は、直後に走った腹部への痛みに身体をくの字に曲げた。
それは覚えのある痛みだった。長年付き合っている痛みだった。
私はカレンダーを確かめて、頭をかきむしる。そして、諦めたようにトイレに向った。すると、やっぱり下着が鮮血で真っ赤に染まっていた。
生理だ。
生理がやってきたのだ。
毎月やってくるこの不快感と痛みを味わうたびに、みんなのように避妊手術をすればよかったと後悔してしまう。
今や避妊手術をしない女性は十%にも満たない。だって、その方が合理的だからだ。股の間から血が垂れ流される一週間なんて、普通の神経をしていたら耐えられるものじゃないし、PMSなんて不快感極まりない。過激な人だと子宮をとってしまう人もいるが、その場合は女性ホルモンを定期的に打ちに行かなくてはならなくなるので、あまり人気がある処置とはいえなかった。
そんな中、私が避妊手術をしないのには理由があった。
『あぁ、ちゃんと生理が来たのね。よかったわ。これでちゃんと「母親」になれるわね』
初潮を迎えた日、私は初めてお母さんに褒められた。
お母さんは『母親』であることに人一倍誇りを持っている人だった。
お母さんからしたら子宮というのは母親の象徴で、人体において最も神聖な器官だったのだ。いろいろなものに合理的なお母さんだったが、避妊手術だけはしていなくて、閉経だってとても残念がっていた。
人間が生殖という機能を手放し始めてもう百年という月日が流れている。中には、子宮が進化してしまい、妊娠はできないが生理も来ないなんて人間も生まれてきていて、もし私が生理が来ない側の人間だった場合、お母さんは容赦なく私を見放すのだろうな、ということは、初潮が来る前からなんとなく理解していた。だから、私は初潮が来てとてもほっとしたし、すごく嬉しかったのだ。
その時の思いが、恐怖が、安堵が、今も私のなかでしこりとなって残ってしまっている。
(でももう、手術をしてもきっと怒られたりはしないわよね……)
お母さんは、きっと私などにはもうなんの興味もないのだろう。
お母さんの元から離れて、『母親』になった時はまだ希望があったが、今はもうさすがにわかっている。理解している。
でもそれなら、私は何のために『母親』になったのだろう。
お母さんに褒めてもらいたくて、頭を撫でてもらいたくて、ここまで一生懸命頑張ったのに――
「このひと、だあれ?」
トイレから戻ってきた私を迎えたのは、そんなルイの声だった。
リビングにいる彼女の手には、タブレットが握られている。その画面にはインタビューに答えているお母さんの写真がでかでかと表示されていた。
私は慌ててルイに駆け寄り、タブレットをひったくる。そして、咄嗟に背中に隠した。
「なにしに来たの?」
そう低い声を出すと、ルイは紙の束を差し出してくる。
「きょうやった、おべんきょうのほうこく」
「そう……」
「この人、だれ?」
「それは……」
「おともだち?」
「……おかあさんの、お母さんよ」
『あなたのおばあちゃん』とは言いたくなかった。
だって、お母さんは私のお母さんなのだ。
決してルイのおばあちゃんなのではない。
「そっか、おかあさんのおかあさんか」
ルイの声色は少しだけ柔らかくなる。
そして、何かを逡巡したのちに「おかあさんも、自分のおかあさんが大好きなんだね」と無垢の笑みを見せた。
その言葉に私はしばらく呆けたあと、目を泳がせた。
そして、震える指で自分を指す。
「ルイは、お母さんのことが好き?」
「うん。大好き」
その響きに私は思わず膝を擦り合わせたくなった。
なんだか変な感覚だ。
胃のあたりがじわじわと温かくなって、身体の奥がむずむずする。
『大好き』なんて、どこにでもある言葉だ。
でも、彼女以外の誰かに私はそんなことを言われたことがあっただろうか。
父親譲りの緑色の目を細めてルイは笑う。
手入れをしていないボサボサの栗毛に、細長い手足。
国から支給されたあじけない半袖の白いワンピースを着た彼女がそこにいた。
ルイの口元に黒子があったのを、私はこの時初めて知った。
というか、彼女はこんな顔をしていたのかと、働かない頭でぼんやりと考えたりもした。
翌日、チケットを携えて、私は絵画教室の発表会を見に行った。
近くの小さなホールを貸し切って行われたそれは、思ったよりも規模が大きくて、ちょっとびっくりしてしまった。
メタバースが発達した現代でも美術展などはリアルで行われることが多いイベントだが、まさか子供の描いた絵でこんな風に絵画展もどきのようなことをやるとは思わなかったのだ。
これはルイも来て欲しいと強請るわけである。
私はチケットに書いてあった番号の元へと向かう。そこにルイの描いた絵が置いてあるらしい。
正直なことを言えば、私は期待していなかった。
なぜなら、ルイには芸術系の適性がないのだ。
だから、どう評価すればいいのかわからない絵を見させられて、「どうだった?」と目を輝かせるルイに、苦肉の策の「良かったんじゃない?」を絞り出すのだろうと思っていたのだ。
けれど、目の前に広がった光景に私は息を呑んだ。
大きな花が咲いていた。
赤い赤い大きな花。
一辺が二メートル近い大きな正方形のキャンバスに、彼女はキャンバスから飛び出さんばかりの大きな赤い花を描いていた。
筆使いは迷いがなくて荒々しい。赤い花だが使っている絵の具は赤だけじゃなくて、オレンジや緑や青なんかも見え隠れする。
一言で言うのならば、素晴らしい絵だった。
私にはそれが彼女の才能の爆発を表しているように見えた。
◆◇◆
小学生になっても、ルイは絵を止めていなかった。
あの赤い花の絵は先生からはイマイチな評価をもらっていたけれど、私が感じた才能の種と彼女自身の希望により小学校に上がっても絵画教室は続けることになったのだ。
もちろん勉強をおろそかにしないという条件付きだが。
ルイは以前にも増して絵にのめり込むようになっていった。
そして、私たちの関係も以前とは少し違ったものになっていた。
なんと言えばいいのかわからないが、私は『母親』らしくなくなってしまって、ルイも子供らしくなくなってしまっていた。
それを最も感じるのはこんな時だ。
「おかあさん、海の絵が描きたいの。今週末、海に連れて行って!」
「いいわよ。でも、今度のテスト、その分頑張れる?」
「もちろん! おかあさんだぁいすき!」
そう言ってルイは私に抱きつくのだ。
私もそんなルイを抱きしめる。
こんな育て方、お母さんからは教わっていなかった。
だけど、もう別にいいのではないか。
だってもう、お母さんは私のことなんて見ていないのだ。私に興味なんてないのだ。
それなら別にどう育てたって自由じゃないか。
なによりこうやって育てていると、ルイは私にいつもいつも『大好き』をくれる。
お母さんもくれなかった『大好き』を私にたくさん与えてくれる。
私の心はかつてないほどに満たされていた。誰かから『大好き』だと言われることがこんなに幸せで尊いものだとは思わなかったのだ。
買ったばかりの青いワンピースを翻しながら、彼女は砂浜で笑う。ぷっくりとした健康的なほっぺに、私は日傘の下で顔を綻ばせた。
◆◇◆
中学生になってもルイはまだ絵を描いていた。
この頃になると、私もかなり落ち着いていて、やはりルイには芸術の才能がないのだとわかっていた。
それでもルイが楽しそうに絵を描くから、そのままにさせていた。
その時の私は、彼女が描いた絵よりも、彼女が楽しそうに絵を描く姿の方が好きだったからだ。次のテストがよかったら、ルイのために空いている一室をアトリエにする約束をした。こんな腑抜けた姿、昔の私が見たらきっと激怒してしまうだろう。
ルイは今日も私が編み込んだおさげを揺らしながら、楽しそうに絵を描いている。
穏やかだった。日々がとても穏やかだった。私は初めて平穏というものを知ったような気がした。
その平穏が壊されたのは、ルイが中学生になって最初のテストが終わった翌日だった。月に一度のテストが終わると、いつも翌日には私のタブレットにルイのテストの結果と一ヶ月間の学校でのレポートが送られてくるのだが、その日のレポートはどうも様子が違った。
タイトルには【重要】。
送り主はなぜか政府からになっていた。
私はそのメッセージを開いて、息を呑む。難しいことが色々と書いてあったが、要約すると
『ルイの前回のテストが悪かったので、これ以上成績が落ちるようならば貴女の「母親」としての資格を剥奪します』
というものだった。
しかも、最近のルイの授業態度はとてもいいとは言えず、一週間に一度ほど行われる小テストでも、ずっと一人のレディメイドの子に負け通しだったというのだ。
そのレディメイドの名は、玉坂リリコ。玉坂、リリコ。
この瞬間ほど、頭に血が上る、というのを体感したことはなかった。
ルイを問い詰めると、「ごめんなさい。テストの前日に徹夜で絵を描いていたから……」と素直に白状した。
あんまりな理由に、私は思わず彼女の描きかけの絵を床に叩きつけた。
「絵を続けるのは、成績を落とさないことが条件だったでしょう!」
「おかあさん!」
「あなたはもう絵を描いちゃだめ!」
私が何よりショックだったのはルイが成績を落としたことではない。
このままでは私が彼女の『母親』ではなくなってしまうことだった。
そうなったら、誰が私に『大好き』と言ってくれるのだ。
誰が私を抱きしめてくれるのだ。
私はどうしてもこの平穏を守りたかった。
彼女が毎日丁寧に手入れをしていた画材たちを、私は手当たり次第ごみ袋に詰めていく。すると、ルイが私を止めようと腕に縋り付いてきた。
そして、私の大好きな言葉を吐く。
「私はお母さんが大好きなんだよ! 大好きなの! なのに、なんでこんなことするの!」
「私も貴女が大好きだからよ!」
私の言葉にルイは泣きそうな顔になった後、腕に噛み付いてきた。あまりの痛さに悲鳴をあげて彼女を突き飛ばすと、ルイは置いてあったキャンバスに背中から激突した。瞬間、あの赤い花が描かれていたキャンバスが割れる。
「大好きだって言ってるのに!」
「うるさい!」
「『大好き』だって言ってるだろ!! この、クソババア!」
この言葉を聞いた瞬間、時が止まったかのような心地がした。
冷静に彼女が放った言葉を噛み砕き、改めてルイの方を見る。
ルイは私に憎悪を向けていた。
歯を剥き出しにして、まるで縄張りに入ってきた者を威嚇する動物のような表情をしていた。
その顔見て、私は理解した。
彼女の『大好き』は、大好きだから放たれる言葉ではないのだ。
あれは、私を操るための言葉だった。
好意に飢えている私に対する餌だったのだ。
彼女からもらった『大好き』がどんどん汚れていく感覚。
大切にしていた宝石が、ただの石ころだと言われたような感じがした。
気がつけば、私はルイを折檻部屋に閉じ込めていた。
折檻部屋というのは、窓もなく、ベッドもない、二畳ほどの狭い狭い部屋のことだ。
彼女が小学校に入る前はよく使っていたが、最近は扉を開くこともなくなっていた場所である。
私はその部屋の前で一人うずくまっていた。
部屋の中からはルイの気の狂ったような声が響いてくる。
《あなたが『母親』なんて、やっぱり無理だったのよ》
懐かしい声が聞こえて、私は顔を上げる。
目の前には、なぜかお母さんが立っていた。
《本当にあなたはダメな子ね》
《いつになったら、その甘ったれた性格が治るの?》
《その調子じゃ、私にも迷惑がかかるわね》
《もう本当にいや》
《あなたといると疲れるの》
《あなたなんて育てなければよかったわ》
お母さんは俯く私の後頭部にそう言葉を並べた後、大きくため息をついた。
私は顔を上げて、お母さんに縋り付いた。
「私、どうすればいいのかな……」
《あなた、私の何を見て育ったの?》
《何をすればいいかなんて決まっているでしょう?》
お母さんが、あの頃と同じように冷たい目で私のことを見下ろしていた。
「今すぐ、その子を廃棄しなさい」
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