春が終わる日に
うみべひろた
春が終わる日に
「雪が溶けたら何になると思う?」
ようやく口を開いた沙希はそんなことを呟いた。
沙希とはいつもこの場所で話していた。
大学の中で一番新しい14号館の、4階の窓。来るたびにここからは違う景色が見える。桜だったり、イチョウだったり、どこまでも広い空だったり。
『14号館の住人しか知らないんだよ。この場所』って、あの頃の沙希が自慢するみたいに連れてきてくれた。何故かベンチに人がいないのはずっと変わらない。
だから。あの頃も、大学を卒業してからも。沙希と何か話す時にまず足が向くのは変わらずにこの場所だった。
誰かと付き合い始めたとか、
授業の単位を一個落としたとか、
入った会社がブラックだったので辞めて次を探すとか。
記憶の中で、沙希の声はどんな時でもいつも大きく響いていたから。
この場所がこんなに静かだとは思っていなかった。
自動販売機の駆動音が遠く聞こえて、なんだか落ち着かない。
もう3月も終わり。桜はもうすぐ満開になる。
桜色に埋め尽くされる窓の外を見ながら思い返していた。
沙希はサークルの数少ない同期だったから、あの中でもいちばん距離が近かった。でも普段何を話していたのかなんて全然覚えていない。どうせ大して中身のない話。
『ねえ、あの講堂の時計台の高さって知ってる?』
最初にこの場所に来たのは6年前。沙希は窓の外を指差して面白そうに言った。
『知らないけど、20メートルくらい?』
『そんなこと言ってたら大学を作ったセンセイに怒られちゃうよ。この大学にいるならちゃんと覚えなさい』
沙希は指先を窓の向こうからこちらの鼻先へ動かして言った。
『あの時計台って、125メートルあるんだよ。創立者が、俺は125歳まで生きたい! って言ったからそうなったんだって』
『125歳! 健康にかなり自信があったんだろうね。だから、ケーキに125歳のろうそくを立てる気分で作ったのかな』
『125歳が自分のろうそくを吹き消すって、なんか不穏だよ。不適切発言。125歳まで生きて勉強したい! って姿勢の表れって考えてたほうが安心感があるね』
後で知ったのだけど、実際には時計台の高さは125尺、38メートルだった。
『125メートルって、考えてみたらあの有名な浅草十二階より高いじゃん』
そうクレームをつけると、
『誤差だよ誤差。重要なのは数字じゃないよ。自分の気持ちに嘘なんてついちゃダメ、絶対に突き通そう。そうすれば届くから。そんな意思でしょ』
そんなふうに沙希は言って笑った。
私もそうありたいなぁ。
気持ちに嘘をついて何かを無くすなんて。そんなことしたらきっと一生後悔するから。って。
「雪が溶けたら何になると思う?」
沙希のその質問に、どう答えれば良いのかよく分からなかった。
「春になるんだよ。なんてさ。そんな使い古された言葉遊びで答えておけば良いの?」
「春。そう、春になる」
沙希は小さく笑う。「大学に入る前の私はそう思ってた」
だけど。そう呟く。
「私が高校卒業まで住んでた青森。そこの冬は酷かったんだ。本気で雪に閉ざされてた。だから雪が溶けたときの解放感っていうか、世界が一歩前に進んだ感は凄かったんだよ。世界は春のほうへ、暖かいほうへ、一歩進むんだって。冬なんてもうオサラバだぜって。そう思ってた」
でもなんか、今はそう思えないんだよね。
沙希は言って、そして突然立ち上がる。
「ジュースおごるよ。こんな天気の良い日に、こんな暗い室内で私の話を聞いてもらってるお礼」
ここで沙希の話を聞くなんて、別に珍しいことでもなかった。だけどジュースをおごるなんて話になったのは初めて。
話の流れに着いていけないままに、勝手に歩いていく沙希の後ろに着いていく。
さっきから遠くモーター音を響かせていた自動販売機。
「私はねー、ここで売ってるコンポタがずーっと好きだったんだ」
どこでも売っている、何の変哲もない缶入りのコーンポタージュ。
迷いなく沙希はそれを買って口に運ぶ。
「あっつい!でもおいしい」
大袈裟に言ってから「はい、飲んでみてよ」とこちらへ無造作に差し出す。
飲み口についた赤い口紅の跡。
こんなの、今さら気にしない。
なのに何故か少し躊躇してしまう。
コーンポタージュは冬の味がする。
3月、もう終わりかけている冬の味。
深く落ちていく甘さ。心の内側へ、地球の中心へ。
広い世界の中、その小さい一点だけにエネルギーが集中していく。そんな熱さ。
「全部はあげないよ。私も飲みたい」
少ししか飲んでないのに、缶を奪おうと手を重ねてくる。
無遠慮に重なる指。それはやわらかくて冷たい。
まるで雪のように。
「私、結婚するんだ」
手を重ねたまま、
コーンポタージュの缶を楔にするように、
沙希は口に出した。
今付き合ってる人にプロポーズされたんだ。って。
「結婚するのにさ。実感も覚悟も、全然出てこないんだ。別に嫌なわけじゃないのに。何かにただ流されてるみたいに感じて。なんでだろう」
沙希の言葉は自動販売機のモーター音に溶けて消えていく。
そんな言葉。聞かないふりしながら。
突然のことだったけれど、言葉を返すことだけは出来た。
それはよかったね、おめでとう。
沙希がその時に誰と付き合っているのかなんて、昔から全部知っていた。
誰と一緒になって、誰と別れたのかってことも。今の相手とは2年くらい続いていたことも。全部沙希が勝手に教えてくれた。
この場所で、声をひそめても響く大きな声で。
結婚。言われてみれば当然なのだけれど。
『あの喫茶店のミートソースが美味しいって聞いて、行ってみたんだけど。私は気づいてしまった。あれは絶対に業務スーパーの味だ。これ家で食べたことある! ってなったし。プリンも四角かったし。ねえ、あの店の厨房を探してよ。私がマスターを引き付けてる間にさ。もしくはゴミを漁るでも良いよ。絶対牛乳みたいなプリン箱があるし、何なら業務スーパーのレシートが大量に出てくる』
『昨日、スーパーでハンバーグ弁当が半額になってて。これは素晴らしすぎる、私の人柄がそうさせたんだってドヤりながら買ったら、店を出るときに70%引きのシールに変わってたよ。私はあの店に裏切られた。世界も、人類も、何もかも。もう私には全部信じられない』
この場所での沙希との記憶。
色々あったけれど、覚えているのはそんな会話ばかり。
コーンポタージュの缶を通して手を握りあったまま、距離が近いから視線は当然のように絡み合う。
冬のような雪のようなその手、
雪は降りしきって、まるでコーンポタージュのよう。
深く落ちていく。広い世界、この小さな缶の周りに凝集していく熱さの中へ。
沙希の向こう側、窓の外には桜が見える。
桜の枝、一面の花びら。
呼吸をするたびに感じる、春の温度、桜の優しい香り、時間が進むときの重力。
向かい風の中みたいで、上手く息が出来ない。
「コーンスープとコーンポタージュの違いって知ってる?」
何かを言わなければいけない気がして、沙希に問いかける。
「なにそれ、よく分かんない。だけど名前だけだとコンポタのほうがおいしそう。冬向きなのはきっとポタージュのほう」
「コーンを使ったスープなら全部コーンスープなんだよね。中華料理のうっすい奴とかもそう。だけどコーンを全部潰さないとポタージュにはならない。つぶして混ぜて、ぐつぐつ煮込んだ濃厚なスープ」
そう答える。
春みたいだね。
と沙希が言う。
「暖かくて甘くて、なんだか、春の真似事をしてるみたい」
沙希の手はまだ冷たいまま。
コーンポタージュは冬の味。
暖かくて甘い。
ただ春を待つ冬の味。
沙希の冷たい手、
雪は積もる、
その中で熱く眩しい、コーンポタージュは黄金色。
沙希は目をつぶる。
春の真ん中で、ぐつぐつ煮込んだポタージュの熱を小さな身体に湛えて。冬だけの温度を大事にしまい込むように見える。
「針でつついたら、あふれだしそう」
窓の外は桜で埋め尽くされている。
空も、酸素も、時間も、全てが桜に置き換わってしまったかのよう。
息が詰まって苦しいのは、きっとそれが理由。
もう春だから。とても暖かい。
姿かたちは違っても、それはまるでコーンポタージュ。
まるでジャムみたいに、濃度を高めていく春の息吹。
その生命力すべてで包みこむ。
ぐつぐつ煮込んだコーンポタージュ。甘くて熱くて、息が止まる。
春の真ん中、欠片だけ残った冬の温度。
「どうしても缶の中に残るんだよね、コーンの粒が。気になってしょうがないんだけど」
コーンポタージュの残りを全て飲んで、沙希が言う。
缶の中を覗き込んでいる。
「飲み終わってからだと、もう出てこないよ」
そう沙希に言う。「飲んでる間に工夫しないと」
沙希は首を傾げてこちらを覗き込む。
「工夫? 何それ」
「教えたいけど。もう全部飲んじゃったから。教えてあげられないよ」
「何それ卑怯」
呟いて缶の飲み口をぺろりと舐める。「その気にさせといてさ」
「だから、また次に会った時だね」
そう言うと、
何それ卑怯。
沙希は目を逸らして呟く。
外に出ると、やはりもう世界は春に変わっている。
「雪が溶けたらどうなるのか」
桜の下、歩き始めて沙希は言う。
私は気づいてしまったんだよ、って。
「春が来てあの場所からコンポタが消えるんだよ」
「コンポタが無くなって、代わりにコーラが入るよね」
「コーラなんて飲まないよ。たまに飲みたくなるけど、重いんだよあれ。だから毎回飲みきれない。いつだって私には多すぎる」
いつもそうなんだよ。沙希は足下を見ながら呟く。桜の花がそこらじゅうに落ちて、いつものコンクリートが隠れていく。
「コンポタみたいに飲みたくなるやつって無いんだよ、春にも夏にも」
それが、すごく喪失感。
だって本当に好きなんだから。
ずっと、大切だったんだから。
沙希はそう言った。
近くで見ると、この桜はまだ8分咲き程度。満開ではない。
だけど満開になったらすぐに散り始める。
「もう春だね」
式の準備もそろそろ忙しくなりそう。
そう言う沙希にコーンポタージュ缶の飲み方を教える日はきっと来ない。
雪が解けたら。
桜が散ったら。
卒業式が終わったら。
春はいつも終わりから始まる。
この桜が世界を覆い尽くしている間に、様々なものが消えていく。
無くなって初めて、そこにあったものの温度に気づく。
暖かいけれど、吹く風はまだ肌寒い。
「桜が満開になるまでは、まだ冬でいいんじゃないかな」
そう言うと沙希は頷く。
「だよね。だって私の手、まだこんなに冷たいんだから」
手を繋ぐでもなく、気づかないふりで小さく触れ合わせながら。
二人で見上げた先に空は見えない。
ただ桜が世界を覆っている。
春はいつも突然にやって来て、冬をさらってしまう。
だからこの暖かさの中では、透き通った冬の空気を惜しむことしか出来ない。
125尺の時計台が道路の向こう側に見える。
手をそっちへ伸ばしてみると、沙希も同じように手を伸ばして笑った。
「やっぱり、届かないね」
触れ合った手の温度が、いつの間にかとても暖かい。
まだ冬だからって誤魔化しながら、コートまで着た瑞希は少し暑そうで。
いつだってそう。
冬がどんなに暖かいものだったか、春が終わるまでは分からない。
今はまだ、桜に紛れて何も見えない。
たった数センチの距離でさえ、手を伸ばしても届かない。
春が終わる日に うみべひろた @beable47
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