三章 羅刹姫の恋③

「俺の父は蒼家を治める頭首だった。蒼家は鬼の家門では二番目に古い家柄でな。俺が生まれた場所は、蒼家に連なる鬼ばかりが暮らす土地だ」

 そこはこことは違い、ずっと冬のような凍てついた土地だという。

 厚い雲が常に空を覆い、吐く息は白い。夜の間に降り積もった雪が、朝には真っ白に世界を染めるという。

「お父様が頭首、ということは涼牙様は、その蒼家の跡取りということですか?」

「まあ、そうなるな」

 まさかの事実に明彩は目を丸くする。力の強い鬼だとは思っていたが、それほどまでとは想像していなかった。

「……だから『夜叉王』?」

 ぽつりと口を突いて出たのは、以前、玄が呟いた言葉だ。

「その名をどこで?」

「あ、えっと……ごめんなさい」

 しまった、と明彩が慌てて謝れば涼牙は気にするなとでも言いたげに首を振った。

「君のよくないところは、そうやってすぐに謝るところだ。別に、責めているわけでも怒っているわけでもない」

 苦笑いをしながら、涼牙が前髪をかき上げる。

「特に強い力を持つ鬼を『夜叉』と呼ぶのだ。俺は、夜叉として生まれた」

 何かを懐かしむように目を細め、涼牙が遠くを見つめる。

「そのせいで、俺の母は死んだ」

「!」

 涼牙の告白に、明彩は息を呑む。

「母は鬼ではなく花の化身だ。百蓮花というこちらでしか咲かぬ花から生まれたかよわい存在だったそうだ。だから、夜叉である俺を産んだことで身体を弱くしてずっと寝たきりの身だった。俺は、眠っている母の姿しか知らない」

 そう語る涼牙の表情には、隠しきれない悲しみがにじんでいた。

「俺がただの鬼であったならば、母は身体を壊すことはなかっただろう。父にとって、母は全てだった。母が死んだのち、父は俺を疎むようになった」

「そんな……」

「皮肉なことに、父に疎まれたことで俺は強くなった。親の庇護のない俺が生きていくためには強くなるしかなかったのだ。いつの間にか、俺の力は蒼家の頭首である父すら超え、周囲から俺はいずれは鬼を統べる王……夜叉王になるといわれるまでになってしまった」

 ようやく、明彩は何故自分が『夜叉の姫』と呼ばれたかの理由を知った。夜叉王とは涼牙が望まずとも得てしまった名なのだろう。だから、玄はあのとき言い淀んだのだ。

 自嘲気味な笑みを浮かべ、涼牙がわずかに首を傾げる。

「周囲は俺を称えると同時に、恐れるようになった。俺を跡継ぎに据えたい者もいれば、成り代わりたい者もいる。ずいぶんと酷い争いも起きた」

 そのときのことを思い出したのか、涼牙の表情に剣呑な色が混じる。

「俺は何も望んでいないのに、身勝手な連中だ。だから俺は故郷を捨て、この土地に住むことにしたんだ」

 思わず胸を押さえ、明彩は唇を引き結んだ。

 ──ああ、そうか。そうだったのね。

 ずっと心にひっかかっていた疑問がほどけていくのを感じた。

 ──涼牙様が私に心を砕いてくださるのは、同じ境遇だったからなのね。

 立場や力の有り様は違うが、異端故にのけものにされていたのは同じだ。涼牙は、明彩が味わった苦しみや悲しみを知っているのだろう。

 理解すると同時に、ほんのわずかだけ寂しさがこみ上げてくる。

 ここに連れてこられたのは姫という理由からだけではない。涼牙は、明彩の立場を憐れんで、手を差し伸べてくれたのだ。同情よりも憐憫に近いのかもしれない。傷ついた怪異を癒やすように、囲い込むように、明彩のことをも受け入れてくれたのだ。

「寂しかった、ですか」

 明彩はずっと寂しかった。

 どうして自分ばかりがこんな思いをするのかと、ずっと心を凍えさせていた。誰か一人でもいい。傍で寄り添ってくれればきっと耐えられたのに。

「……そうだな。そうだったのかもしれない。だが、もう忘れてしまった。ずいぶんと昔の話だからな……」

 明彩はそれ以上何も言えなくなってしまう。

「ここに来てからは、ずいぶんと気持ちが楽になった。君の知る通り、ここで玄や阿貴のような者たちと暮らしている。居場所がないものを受け入れていったせいで、いつしかこんな大所帯になってしまったがな」

 先ほどまでの表情から一変し、涼牙の表情が和らぐ。

 明彩にとってそうであるように、涼牙にとってもここはようやく得た居場所なのだろう。この屋敷に暮らす怪異は皆、涼牙を慕い尊敬している。きっと彼らは明彩のように救われたのだ。

「俺はとっくに彼方を捨てた気でいるが、一族の中には俺を跡継ぎに担ぎたい者がまだ残っていてな。ときどきこうやって手紙を寄越したり、人を送り込んでくる」

 涼牙の視線が、ふたたび件の手紙に向けられる。

「では、そのお客様というのは」

「その一派だ。毎度追い返すが、どうも懲りない」

「大変なんですね……」

 肩を落とす涼牙の姿に、それがどれほどの苦労だろうかと想像するだけで明彩の肩も重くなった。

「俺が相手をしなければ、屋敷の者にちょっかいをかけて毎度騒ぎを起こす。君の存在を知れば余計にだろう。客が帰るまでの間は、急ぎの治療以外は断って屋敷の奥で静かに過ごしてほしい」

 よほど明彩とその客を会わせたくないらしいのが伝わってくる。

「では、お客様のお相手は涼牙様が?」

「腹立たしいがな。おそらくひと月は居座るだろう。その間、君にはあまり会えないかもしれない」

 きっと明彩を守ろうとしてくれているのだろう。その優しさに胸が疼く。

 青い瞳がじとりと明彩に向けられる。

「本当は祭りに連れていってやりたかった。いろいろと見せたいものもあったんだ……」

「涼牙様」

「よりにもよってこの時期に来るとは……」

 どこか拗ねた子どものような声を上げる姿は可愛らしく、口元が緩んでしまう。

「……では、次の祭りは一緒に行ってください」

「明彩」

 それははじめて明彩が自分から抱いた願いだった。

 これまでは与えられるまま、命じられるままに生きてきた。自分から何かを欲したことなどないに等しかった。でも、今は。

「私は、涼牙様と祭りに行ってみたいです」

 外を一緒に歩けたならば、それはきっと素晴らしいことだろう。

 夢というにはあまりにささやかだが、明彩にとっては想像もしたことがない光景だ。

「駄目、ですか」

「駄目なものか。もちろんだ……!」

 わずかに腰を浮かせた涼牙が、うわずった声を上げている。

 明彩が何かを願ったことがよほど嬉しいらしい。

「……くそ。余計に腹が立ってきた」

 じろりと手紙を睨み付ける瞳には、本気の怒りが混じっている気がして、明彩はつい笑い声を上げてしまう。

「ご無理なさらないでくださいね。疲れたときは呼んでください」

 ──いつでもあなたのために力を使いたい。

 それは、まだ口にする勇気のない、明彩のもう一つの願いだった。

 涼牙のためにこの力を使いたい。この力は涼牙のためにあるのだ、と伝えられたなら。

 今も間違いなく明彩は涼牙の所有物で、姫として求められ必要とされている。それはとても嬉しい。でも、それだけでは少し足りないと思う欲ばりな気持ちが生まれてしまっている。

 強靱な夜叉である涼牙が、治療を必要とするほどの怪我を負う日が来るとは思えないが、そのときが来たら明彩は全てをかけて力を使うと考えなくてもわかる。

「案ずるな。君の手を煩わせるようなことは、ない」

 優しい声に心の奥がずんと重くなる。落胆するなどみっともないことなのに、隠しきれない本心が、どうしてと、か細い声を上げた気がした。

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