三章 羅刹姫の恋②

 金剛の日を数日後に控えたある日、明彩は夕食前になって突然涼牙に呼び出されていた。

 ここ最近、涼牙は何か忙しいらしく屋敷にいないことが多く、帰宅しても明彩とはすれ違いばかり。

 顔を見られないのは寂しいが、会いたいと我が儘を言えるような立場にないことは自覚しているので、明彩はただ涼牙が無事に帰ってくることを願う日々を過ごしていた。

 何か手紙でも書くべきではないかと考えている最中の呼び出しだったので、明彩はそわそわしながら部屋を訪ねた。

 襖を開けて中に入れば、疲れた様子の涼牙が、なにやらげんなりした顔で手紙を広げていた。

「涼牙様?」

「ああ、来たか」

 先ほどまで険しかった表情が、ふっと和らぐ。

 その表情に、胸の奥にちいさな火が灯る気がした。

「どうされたんですか?」

「いや、少し面倒な連絡が来てな……」

 涼牙は短く息を吐き出しながら手紙をたたみはじめた。わずかに見えた文面は、達筆すぎて読むことはできない。だが、その表情から察するによほど問題のある内容なのだろう。

「お忙しいんですか? 顔色が少し悪いように見えます。よければ、治療を……」

「いやいい。俺のことは気にするな。少々のことで倒れるような身体はしていない」

「でも……」

「それよりも君だ。俺がいない間、変わりはなかったか?」

「はい。こちらの生活にもずいぶん慣れましたよ」

 嘘偽りなく本当だった。

 こちらでは誰もが優しく接してくれるし。力を使えば感謝される。最初は、逆に怖くもあったこの環境を明彩はようやく受け入れられるようになっていた。

「涼牙様のおかげです」

 この世界に連れてきてくれたことだけではない。峡によって連れ出された明彩に、涼牙は自分を大事にしろと言ってくれた。それだけの価値があるとも。

「そうか。だが、くれぐれも無理をするなよ。玄と峡を必ず傍に置いておけ」

「ふふ」

 まるで子を案じる親のような口調に、明彩は思わず笑ってしまう。涼牙は本当に過保護だ。

「それを言うためにわざわざ呼んでくださったのですか?」

「いや。まあ、それもあるが……」

 めずらしく口ごもる涼牙の態度に、明彩は首を傾げる。

 いつも堂々としているのに、妙なこともあるものだ。

 何を言われるのかとじっと顔を見ていれば、青い瞳がちらりと明彩に向けられた。

「ただ、君の顔が見たくて」

「!」

 じん、と耳が熱くなる。まっすぐな言葉を向けられるとは思ってもみなかった。

 急に、自分の身だしなみが気になり始める。仕事を終え、あとは夕食だけの時間だったから服は普段着のままだし、髪は少し整えたがそれだけだ。

 ──お化粧くらいすればよかった。

 久しぶりに涼牙の顔が見られるという気ばかりが急いてここに来てしまったことが、今更ながらに悔やまれてしまう。

 阿貴や女人姿の怪異から身だしなみだからと紅をもらったはいいが、使うタイミングがわからずしまい込んだままにしている自分が情けない。

「すみません、その、大したことがない顔なのに」

「そんなことはない。君はそこにいるだけで、いつも綺麗だから」

「っ〜!」

 今日の涼牙は疲れすぎていてどこかおかしいのではないだろうか。きっと頬がみっともないほどに赤くなっているような気がして、明彩は顔を隠すように俯いた。

「涼牙様は、私をからかいたいのですか……」

「ちが……すまない。ああくそ……」

 がりがりと頭をかきながら涼牙が感情的になっているのがわかる。

 やはりどこかがおかしい。やはり治療を申し出ようと明彩が顔を上げれば、思いがけないほどに近くに涼牙が立っていた。

「あ……」

 いつ近づいてきたのだろうか。手を伸ばせば触れられるほどの距離で、涼牙の香りと体温をわずかに感じる。

「これを、君に渡したかった」

 涼牙の手が、明彩へと差し出される。

 手のひらに載っていたのは、白い小花がいくつも付けられた、髪飾りだった。一瞬、生花のように見えたそれは、光に淡く反射している。

「出先で見つけたんだ。貝殻を使った細工だと聞いている」

「すごく、綺麗」

 花びらを一枚ごとに彫ってあるそれは、光の加減でなんとも言えない光彩を放っていた。

「これを見て、君を思い出したんだ」

 言いながら、涼牙は明彩の髪に髪飾りを付けてくれた。長い指が髪をかき上げる感触に、心臓が奇妙な音を立てる。わずかに肌をかすめた涼牙の指先は明彩よりも少し冷たい。

 体温の違いなのか、明彩がひとり勝手に火照っているだけなのかわからない。

「あ……」

「やはり、よく似合う」

 目を上げれば、涼牙がふわりと目元をほころばせた。

 笑顔と呼ぶには少し硬い表情ではあったが、美しいことには変わりない。

 お礼を言わなければと思うのに、言葉が口から出てくれず、明彩ははくはくと口を開閉させる。

「君はずいぶんと頑張ってくれているからな。ずっと何かしてやりたいと思っていたんだ。他にも、新しい服をいくつか仕立てさせた。着るといい」

「服まで!」

 驚きでようやく声がまろび出た。

 こちらに来てからの衣食住は全て涼牙が面倒をみてくれており、その質量共に過分なほどだった。

 西須央の家では、片手で足りるほどの服を着回していたというのに、今では与えられた箪笥に収まりきれぬほどの服がある。

 洋服だけではなく、着物だったり、どこか異国情緒があるものや、見たことのない形の服などさまざまだ。一体どこで買ってくるのかとずっと不思議に思っていた。

「もう十分です。これ以上は、逆に申し訳ないです……」

「気にするな。俺がしたくてやっている。今回仕立てたものは、金剛の日に着るといい。玄がお前を街に連れ出したいと張り切っていたぞ」

「街、ですか」

「ああ」

 涼牙の屋敷から少し丘を下ったところには、この土地に住む怪異たちが暮らす大きな集落があった。特に呼び名はなく、皆は「街」と呼んでいた。

 阿貴に連れられ一度だけ近くまで行ったことがあるが、結局足を踏み入れなかった。

「ずっと屋敷の中では息が詰まるだろう。峡もこの土地にはずいぶん慣れただろうから、二人が一緒ならば問題ない。阿貴たちも行くと言っていたから遠慮なく遊んでくればいい」

 楽しんでおいでと柔らかな言葉をかけてくれる涼牙の優しさがくすぐったい。

「ありがとうございます」

「ああ」

「涼牙様は行かないのですか……?」

 許されるのならば、一緒に過ごしたい。そんな想いがつい口からこぼれてしまった。

 すると先ほどまで機嫌のよさそうだった涼牙の表情が途端に曇る。

「できることなら同行したいのだが……」

 言いながら涼牙が目を向けたのは先ほどまで読んでいた手紙だ。

「実は、俺の故郷から客が来る。一度は断ったのだが、それでも来ると譲らなくてな。放置しておけば、やっかいなことになりかねないから面倒をみなければならんのだ」

 ──故郷ということは、同族の方?

 そういえば、この場所には涼牙以外の鬼がいないことを思い出す。

「ご家族の方、でしょうか」

 思いつきでそう口にすれば、涼牙の表情がわずかに曇る。なにか余計なことを言ったのだろうかと明彩が慌てれば、涼牙が小さく首を振った。

「そうか……君は、まだ知らないんだったな」

 苦いものを噛みしめるように呟いた涼牙が、長い息を吐く。

「涼牙様」

「せっかくだし、少し話をしておこう」

 涼牙は記憶を辿るようにして静かに語り始めた。

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