三章 羅刹姫の恋①
異界での暮らしは、気がつけば半年を迎えようとしていた。
明彩が烏天狗の頭領である丈響を、瀕死の状態から癒やしたという話が広まったこともあり、涼牙の元には以前にも増して弱った怪異たちが訪ねてくるようになっていた。
今ではすっかり『夜叉の姫』として、明彩は有名になっている。
「ありがとうございます、姫様」
治療を終えた犬の怪異が深々と頭を下げて帰っていくのを見送りながら、明彩は優しい笑みを浮かべた。
以前とやっていることは変わらないのに、ここでは毎日のように感謝をされる。
最初は慣れなかったが、最近はずいぶんと素直に受け入れられている。
──災い転じて、といったところかしら。
不意に、峡に連れ出されたあとの出来事を思い出し、明彩は苦笑いを浮かべた。
屋敷に戻ってきたときの騒ぎようといったらなかった。阿貴など半泣きで駆け寄ってきて無事を喜んでくれたくらいだ。
「ああ、よかった。姫様がさらわれたと聞いて生きた心地がしなかったよ」
小さな怪異たちは、しばらく明彩から離れなかったほどだ。
だが、あの事件はひとつだけ利をもたらした。
涼牙たちが、明彩が人間であり、こちらの理に疎いと気がついてくれたのだ。
屋敷の中だけなら問題ないが、この先、また同じようなことが起きるとも限らないと、明彩はようやくこの世界で生きるためのいろはを教わったのだ。
こちらの世界も人の世と同じように十二の月に分かれており、おおよその暦も似通っているのがわかった。
一日の時間の流れは少し曖昧で、昼と夜の長さに決まりはないらしい。
『宿日』と呼ばれる日がいくつか存在するのも知った。
それは奇しくも退魔師が吉凶を占うときに使うものによく似ており、おかげで明彩はこの世界とあちらがそこまで大きくズレのない時間を過ごしていたと知ることができたのだった。
今ではすっかりこちらの暮らしが身体に馴染んでいる。
ある日の午後、阿貴の手伝いで繕い物をしていた明彩の傍で玄が興奮気味に喋り始めた。
「月が替われば金剛の日が来ます。忙しくなりますよ」
「こちらでは、金剛はお祭りの日だったわね」
「はい! 手先の器用な怪異が屋台を出して、それはそれは賑わうのです。屋敷でもいつもとは違う料理を食べて酒を飲みます。ああ、楽しみだ」
以前のことを思い出しているのか、玄は小さな舌でペロリと鼻を舐めた。
「お前は食い意地がはりすぎだ」
呆れたように目を細めた峡が、肩をすくめた。
「なんだとぉ。うまい飯と酒が飲めるんだ。楽しみにして何が悪い」
「浮かれてお役目を怠るな、と言っている」
睨み合う玄と峡に、明彩は笑みを浮かべる。
一緒に明彩の傍に付くようになった最初の頃は何かと衝突の多かった二人だが、今では喧嘩仲間としてそれなりにいい関係を築いている。
今のように憎まれ口を叩き合うこともあるが、仲が悪いわけではない。
無理に治療を迫ってくる怪異がいたときなどは、息の合った動きで退けてくれた。
何かと騒がしいが、二人が傍にいてくれることは心強く頼もしかった。
「私の暮らしていたところでは、金剛の日は禊ぎをする日だったの。食事をとらず、身を清め、己の力を見極める日だと定められていたわ」
金剛の日は年に二度。夏至と冬至の日だと定められていた。
食事の用意をする必要がなかったので、明彩にしてみれば数少ない休日のようだったと思い出す。
──私も食事をとれなかったけれど、静かに過ごせる貴重な日だったわね。
それがこちらでは怪異の上下なく大騒ぎする日というのは奇妙なものだ。
「そうだ、金剛があるということは……羅刹の日もあるの?」
針を握っている手を止めた明彩は、宿日の存在を知ったときから気になっていた質問を玄へと向ける。
羅刹は退魔師にとって最も忌むべき凶日。それがこの世界にもあるとしたら、どんな日なのか。
自分で聞いておきながら、じわりと緊張で手のひらが汗ばむ。
もしこの世界でも羅刹が忌み嫌われている日だったら。
「羅刹! ええ、ありますよ」
「そう、なの?」
「はい。羅刹の日は我らにとっては吉祥の日です。力が高まり上の位へと転じる者も現れるくらいです」
「まあ……」
あちらとは違う意味を持つとは想像していたが、まさかそこまでだったとはと明彩は目を丸くする。
「よくご存じでしたね。羅刹の日は、数十年に一度来るか来ないかの日です。若い怪異では存在すら知らぬ者もいるというのに」
「ああ。俺も一度しか経験をしてない。その日が来るまで、誰もが羅刹の日が来るとは気づかないほどに突然なるものだからな」
人の世では、退魔師を統べる場所で羅刹の日がいつになるか占われているが、異界では自然と訪れを待つ日らしい。
「何もかも違うのね。私のいたところでは、羅刹の日は凶日だったのよ」
その日に生まれたが故に、明彩はずっと虐げられて生きることになった。
「なんと勿体ない。人とは不思議なものですなぁ」
「誠だ。もし羅刹の日に子が生まれれば、こちらでは一族繁栄の象徴だと大切にされるのですよ」
住む世界が違えばそこまで異なるのか。
「……私、こちらで生まれればよかったのかも」
心に留めておくつもりだった言葉がぽろりとこぼれてしまう。
玄と峡がきょとんとした顔で動きを止め、明彩を見つめてくる。
「姫様?」
「あ、ごめんなさい。つい……その、私は羅刹の日に生まれたものだから」
あちらではそのせいで虐げられていたとは言い出せずに口ごもっていれば、玄と峡は顔を見合わせ、それから歓声めいた声を上げた。
「それは素晴らしい! 羅刹に生まれ、なおかつ姫とは」
「ああ、なるほどなるほど。明彩様が特別な理由がわかりました。そうだったのですね」
「あの、二人とも……?」
あまりの喜びように明彩は狼狽える。
「つまり、明彩様は羅刹姫ということですね!」
「羅刹姫! なんとよい名か! これはぜひ広めねば」
嬉々として語り合う二人の姿に明彩は口を挟めない。
この世界で羅刹の日に生まれるということは、本当に吉祥の証なのだろう。
──羅刹姫、って。
西須央にいた退魔師からは侮蔑をこめて「羅刹」と呼ばれていた。凶日と同じ名前で呼ばれる蔑称に、何度苦しめられたかわからない。
だが、二人が羅刹姫と口にする声には深い愛情がこもっているのがわかる。
同じ言葉なのに、こもる想いでこうも違って聞こえるのか。
胸からせり上がってくる熱い何かで言葉が詰まる。
潤んだ目元を見られないように顔を伏せながら、明彩はそっと目元を拭ったのだった。
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