二章 夜叉の姫⑦

「そんな」

 涼牙になんの非があるというのだろうか。

 あの苦しい場所から連れ出してくれただけではなく、居場所まで与えてくれたのに。

「いいえ、悪いのは全て俺です」

 ぽつりと、峡が苦しげに呟いた。

「夜叉殿の屋敷に姫がいるという噂を聞きつけたとき、もうそこにすがるしかないと思った。父上は意識がはっきりとせず、このままでは明日をも知れぬと言われ……」

 声に混じる涙に、明彩の心までもが苦しくなる。

「本来ならば手紙を送り、許可を得てから訪ねるべきでした。手順を惜しみ、礼を欠いた。たとえお二方が許してくださっても、俺は自分を許せぬ……」

 嘴を割りそうなほどに噛みしめる峡の肩を、丈響が慰めるように叩く。

「峡よ。これからおぬしがすべきことは後悔ではなく、誠意じゃ」

「父上……」

「涼牙殿。こやつはまだ若い。儂の跡を継ぎ、一族を治めるにはまだ力不足。どうか、鍛えると思ってしばらく預かってはくれぬか」

「!」

 その場にいた丈響以外の全員が目を丸くした。

「預かるとは、一体」

「何、小僧と思って死なぬ程度にこき使ってくだされ。きっと姫様のためならばどんなことでもするはずです」

「丈響殿……」

 困惑しきった涼牙に、今度は峡が頭を下げた。

「夜叉殿……いや、涼牙様! どうか俺を使ってください。俺が言えたことではないですが、姫様をお守りする役目をお与えください……!」

「私を守るって、そんなこと」

 必要はない、と言いかけた明彩を涼牙が止める。

「お前がしでかしたように、明彩を拐かそうとする輩が現れたらどうする」

「この命に代えても必ず守ります。もとより、この命は姫様に救われたも同然。この身が尽きるまでお仕えさせてください」

「峡、そんな必要は」

「わかった」

「え!?」

 明彩が断りの言葉を口にするより先に、涼牙が応えた。腕を組み、静かに峡を見下ろしている。

「信用したわけではない。だが、事情は理解できた。丈響殿には俺も世話になったから、今回は顔を立ててお前を明彩の護衛として預かろう」

「涼牙様!」

 思い切り声を上げて驚く明彩とは真逆に、丈響と峡は満面の笑みだ。

「感謝します涼牙様!」

「至らぬ息子ではありますが、どうぞよろしくお頼み申し上げます」

 このままでは話がまとまってしまうと明彩が慌てていると、涼牙が真剣な顔で明彩を見つめてきた。

「そろそろ玄の他に護衛を付けるべきかと思っていたところだった。今回の件もそうだが、君はとても狙われやすい立場にある」

「でも、護衛だなんて大げさな……」

「大げさなものか。俺の姫である君を狙う者は多い。今回は、ただ姫としての力を請われただけだったが、悪意ある者の所業だったとしたらどうなっていたか」

 苦しげに寄せられた眉に、涼牙の苦しみが伝わってくる。

「明彩。君はもっと自分の価値を知ってくれ。どうか俺が君を大切に想うように、自分を大事にしてほしいんだ」

「っ……!」

 こんなにも誰かに守られ、心配されることなど一度もなかった。

 最初に出会ったあの日から、涼牙はずっと明彩の欲しかったものをくれるばかりだ。

 ありがとう、という言葉だけでは足らぬ思いがこみ上げてくる。

 ふわふわと形を持たない感情になんとか名前を付けようとするがうまくいかず、明彩は少し眉を下げる。

 ──この心を、どうにかしてお見せできたらいいのに。

 感謝、尊敬、信頼。そしてそれよりももう少しだけ強い、情。さまざまな気持ちがない交ぜになって明彩の心をかき乱す。

「君を守りたい」

 真摯な言葉が胸を刺す。

 名前を付けられないでいた感情がふわりと花開くのを感じた。

 ──この方を、私はお慕いしてしまっていたのね。

 真っ暗だった世界ごと変えてくれた、強く美しい鬼。恋をしないでいられるわけがなかったのだ。

「……ごめんなさい」

 自覚した途端に涼牙の顔を見ていられなくなり、明彩は顔を伏せながら謝罪の言葉を口にしていた。恥ずかしさと戸惑いで、胸が苦しくなる。

「謝ってほしいわけではない。ただ、君を守りたいんだ。俺には、君をこの世界に迎えた責任がある」

 責任。その言葉がずんと明彩の心を重くさせた。

 芽吹いたばかりの心を何かに踏み潰されたような苦しみが、喉を詰まらせる。

 ──そうよね。涼牙様は、あの土地を統べる御方。治癒師としての私を守る理由がある。

 涼牙の姫になった以上は、彼の望むままに力を使う必要がある。そして涼牙には得た力を守っていくという責任があるのだ。

 当たり前のことなのに、それを寂しく感じてしまう自分の浅ましさが嫌にななった。

 ──この気持ちは、知られてはいけない。

 身勝手な気持ちは、きっと涼牙に迷惑をかける。だから、明彩はこれまで通り、涼牙の姫として振る舞い続けねばならない。

 そうしてさえいれば、ずっと傍にいられるのだから。

「峡。今日からは明彩から決して目を離すな。わからぬことは玄に教わるといい」

「そうだ。この玄は姫様から名前をもらった、一番の側仕えだ。玄の言うことをしっかりと聞くんだぞ」

 指名され、玄は誇らしげに鼻を鳴らす。

 片や峡は玄よりも立場が下になったらしいことにショックを受けているのか、嘴をぽかんと開けて固まっていた。

 二人の微笑ましい姿に救われた気持ちで、明彩は微笑みを浮かべたのだった。


 峡は明彩たちと共に涼牙の屋敷に戻ることになった。

 住み処を離れるというのに、峡の姿はまるで少しそこまで買い物に行くかのような気軽なもので明彩は驚いてしまった。

 正直にその気持ちを伝えれば、涼牙たちは逆に不思議そうに首を傾げる。

 どうやら、怪異たちにとって別れとはそこまで重要なものではないらしい。

「生きていればまた会えるのだ。惜しむこともあるまい」

「そうですよ。別に死ぬわけでもない。すぐに会いに行ける距離ですから」

 ひょうひょうとした答えに、最初は戸惑っていた明彩だったが、会話をするうちにあっさりとした別れの理由にすぐ気づけた。

 ──そうか。信頼しているのね。家族を。

 たとえ離ればなれになっても、心までも離れるわけではないことを知っているのだ。

 旅立ちで悲しむ理由などないからこそ、見送りだって必要ない。すぐに帰ってくる、いつでも帰ってきていいと信じ合っているからこそ、こんなににもあっさりと旅立てる。

 きっと正しい家族とはそういう目に見えぬ絆で繋がっているのかもしれない。

 ──いいな。

 羨ましいという気持ちがわずかに浮かぶ。

 未練などないと思っていたはずなのに、かつての家族たちの姿が頭をよぎってしまう。彼らはいなくなった明彩にどんな思いを抱いているのだろうか。

 もしかしたら、鬼に食べられてすでに死んだものとして扱っているかもしれない。

 少しは悲しんでくれているだろうかと期待めいた気持ちがわき上がるが、すぐにそれを打ち消すように首を振る。

 本当にそうだったとしても意味はないし、違っていれば空しいだけだ。

「明彩、行くぞ」

 涼牙が明彩に手を伸ばす。屋敷に戻るための空間の切れ目が淡く輝いていた。

 その光景は、この異界に招かれた日に重なる。

「はい」

 ためらいなく明彩はその手を取り、帰路に就いたのだった。

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