二章 夜叉の姫⑥

「なんてことを……!」

「此奴は君に何をしたかわかっているのか、こいつは……!」

 激高という言葉が相応しい態度で怒りをあらわにする涼牙に、明彩はどうすればいいのかわからなくなる。どうしてそんなに怒るのだろうか。

「君が、君がいなくなって俺がどれほど……」

 青い瞳が不安に揺れていた。今にも泣き出しそうに歪んだ表情を見て、涼牙がどんな思いでここに来てくれたのかに、明彩はようやく気づけた。

 ──私を、こんなに心配して。

 驚きと混乱でいっぱいだった思考が急に晴れていく。今すべきことが何なのか。

「……涼牙様、私は無事です。大丈夫ですから」

 やり場に困っていた腕を涼牙に回し、胸に額を押しつけるようにしてそっと抱きつく。そして幼子をあやすように背中を優しく叩いた。

「探しに来てくださったんですね。ごめんなさい、心配させて。でも、本当に大丈夫なんです。何もされてなどいません」

 ゆっくりと噛みしめるように言葉を紡げば、強ばっていた涼牙の身体から力が抜けていくのがわかった。

「明彩」

 ──名前……!

 驚いて顔を上げれば、涼牙もまた驚いたような顔をして明彩を見つめている。

 これまで、涼牙に名前をはっきりと呼ばれたことはなかった。

 周りが『姫』と呼びかけてくれる中、涼牙だけはずっと『君』と口にしていたのに。

「涼牙様、私……」

 抱きしめられたまま見つめ合っていれば、少し離れたところから申し訳なさそうな羽音が聞こえた。

 二人揃ってそちらを見れば、丈響が峡の横で床に額を押しつけている姿が目に入る。その光景に明彩は短い悲鳴を上げた。

「やめてください!」

 異界の仕組みに詳しくない明彩とて、これだけの烏天狗を従えている丈響がどれほどの地位であるかは想像できる。この土地を統べる長に頭を下げさせている。その事態にさっと青ざめる。

「いいや、明彩殿。これはけじめじゃ」

 丈響は額を床に大きくぶつける。

「涼牙殿。この度は、儂の息子がとんでもないことをしでかした。どうか、この首を差し出す故、息子を見逃してくれまいか」

「丈響様!」

「父上!」

 倒れていた峡が身体を起こし、丈響の身体にしがみつく。

「悪いのは俺なのです父上。せっかく身体が治ったのに、何故そのような。咎は俺が受けますから、どうか」

「ならぬ。お前は儂の跡取り。命を落とさせるわけにはいかぬ」

「いいえ! できません! 夜叉よ、どうか俺の命を奪ってくれ。全ては俺がしでかしたこと。父上を身代わりにするような恥は晒せぬ!」

 ごんと小気味いい音をさせながら、峡もまた床に額を押しつけた。

「涼牙様。どうか、彼らを怒らないでください。峡は父親である丈響様を助けたい一心だったのです。私も、話を聞き納得のうえで力を貸したのです」

 明彩はすがる思いで涼牙の腕に手を伸ばす。彼らは互いに慈しみ合っている。どちらにも何ごとも起きてほしくない。

 そんな願いを込めて見つめれば、涼牙が思い切り眉間に皺を寄せたのが見えた。

「……はぁ」

 深く長い息を吐き出した涼牙は、明彩の身体からようやく片腕だけを外し、前髪をぐしゃりとかき混ぜるようにしてかきあげる。

「顔を上げよ、烏天狗よ」

「……しかし」

「俺の姫が、お前たちを罰するなと言っている。俺は姫の気持ちを重んじたいと思う」

 丈響と峡が揃って顔を上げた。二人の額は揃って見事に割れており血がにじんでいる。

「ほ、本当ですか……」

「本来ならば、俺の姫を奪った罪で八つ裂きにしてやるところだ。だが、姫が許したものを俺が許さぬわけにはいかぬだろう……」

 疲れ切ったように言葉を選ぶ涼牙の表情は、いつもの穏やかなものに戻っていた。

「涼牙様、ありがとうございます!」

 嬉しくなって涼牙の身体にすがりつけば、何故か低く呻きながら顔を背けられてしまう。粗相をしてしまったのだろうかと明彩が首を傾げていると、足元からふわふわとしたものが這い上がってきた。

「姫様〜! 主様〜!」

 涙目になった玄が二人の間に入り込み、ひしと明彩にしがみついてくる。

「申し訳ありませぬ、主様。玄が付いていながら……玄を、玄を叱ってください!」

 ぴいぴいと仔猫のような声で泣く玄の姿に、張り詰めていたその場の空気がどこか和らいでいくのがわかる。

「大丈夫よ玄。涼牙様は、あなたのことも怒ったりなんてしないわ」

 優しく玄の頭を撫でてやりながら顔を上げれば、苦笑いと共に涼牙は小さく頷いてくれた。

 ──よかった。

 ほっと安堵の息を吐きながら、明彩は頬を緩ませたのだった。


「なるほどな」

 明彩と玄、そして丈響から何が起きたのかを代わる代わる説明された涼牙は、理解はしたが納得はし切れていない表情で首を緩く振る。

 空洞の中では息苦しいと、今は最初に降り立った枝の上に全員が座っていた。明彩の横には涼牙がぴったりと貼りつくようにして座っている。

 その真向かいには丈響と峡が並んでいた。「事情はわかった。丈響殿、まずは無事でよかった。貴殿に何かあれば、いらぬ争いが生まれていたことだろう」

「涼牙殿。息子を許してくださっただけではなく、気遣いまで……誠に痛み入る」

 感激した様子で丈響がふたたび床に額を突こうとしているのが見て取れ、明彩は慌ててそれを止めた。

「また治療をせねばならなくなります。どうか、安静にしていてください」

「明彩殿はお優しいなぁ」

 声を上げて笑う丈響は、弱り切っていたときとはまるで別人だ。すっかり元気になったからか声にも張りがあり、自信に満ち満ちているのが伝わってくる。

 ──峡が助けたいと思うはずだわ。

 父親ということ以上に、丈響は烏天狗たちにとってなくてはならない存在なのだろう。

「しかしだ。そのような状態だったならば、素直に頼ればよかったのだ。拐かしなどという手段を使うから、俺も……」

 そこまで言って涼牙は疲れ切った声を上げる。

「涼牙様」

 そこまで心配させてしまったという事実に、明彩は眉を下げる。

 ずっと涼牙に庇護されていた明彩は知らなかったことだが、異界には医者と呼べる立場の存在はとても少なく、いたとしても同じ種族のものしか治療できぬのが普通。そのため、希に生まれる『姫』と呼ばれる治癒の力を持つ存在はとても価値が高く、手元に姫を抱えているのは、かなりのステイタスになるらしい。

 高位の怪異ほど姫を欲しており、過去には姫を巡って怪異同士の争いが起きたこともあったという。だから、峡は自分の命を差し出そうとしたのだ。

 峡が明彩を連れ出したのは丈響のためではあったが、結果だけ見れば涼牙から強引に姫を奪ったことになる。つまりは宣戦布告。命を奪われても文句を言えないと丈響や峡が言っていたのは、間違っていなかったのだ。

「もし玄が一緒でなければ、まだ探し続けていただろう」

「玄が?」

「ああ。玄が紡いだ糸が、ここまで案内してくれた」

 そんなことをしていたの? と膝にちょこんと座っている玄に目をやれば、自慢げに胸を反らされた。

「玄は強くはありませんが、いろいろなことができます。主様にここを教えねばと必死だったのです」

「そう……ありがとうね、玄」

 感謝を込めて頭を撫でれば、玄がごろごろと喉を鳴らす。

「……」

 なんだか視線を感じて涼牙を見れば、なんともじっとりとした目を向けられていた。

 もしかして涼牙も撫でられたいのだろうかなどと一瞬考えたが、流石に頭を撫でることははばかられ、明彩はその手に自分の手を重ねることで折り合いを付けることにした。

「涼牙様も、探しに来てくださってありがとうございます」

 明彩よりも一回り大きな涼牙の手は骨張っていた。重なった部分から伝わるぬくもりに、胸の中まであたたかくなっていく。

 明彩を見ていた涼牙が、目元をわずかに緩ませた。

「此度の件は、明彩に姫という立場を正しく説明しなかった俺にも非があることだ」

「涼牙様」

「俺の油断が、お前を危険に晒した。許してくれ明彩」

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