二章 夜叉の姫⑤
「う……こ、れは……」
ぐったりと横たわっていた身体が光に包まれていく。
明彩が流し込んでいく力に呼応し、干からびていた嘴に水気が戻り表面が輝きを帯び、色が抜けてぼさぼさだった羽に艶が戻りふわりと大きく広がった。
そして、どんよりと力なく曇っていた瞳が活力を取り戻し、瞼が大きく開かれた。
「お、おお……!」
歓喜の声を上げながら丈響が立ち上がる。つい先ほどまでは命の灯火が消えかかっていたのが嘘のような機敏な動きだった。
「父上!」
「当主様!!」
峡や周りの烏天狗たちが歓声を上げる。
「はぁ……」
深い溜息を吐きながら、明彩は丈響から手を離した。
全身が汗みずくだし、疲労感で座っているのがやっとだ。こんなに疲れたのは、かつて鬼の少年を癒やしたとき以来かもしれない。
丈響は寝所から勢いよく飛び出すと、手足を伸ばしたり羽を羽ばたかせる。空洞の中にこもっていた熱気が一気に入れ替わり、涼やかな風が明彩の頬を撫でた。
「素晴らしい! 全身に力がみなぎっておる! おお、今なら常世の果てまで飛んでゆけそうじゃ」
「父上! ああ、夜叉の姫よ。なんと礼を言ったらいいか!!」
「ありがとう。本当にありがとう!」
烏天狗たちが一気に明彩へと押しかけ、その場に頭を下げはじめる。皆して床に額をぶつけているので、これは烏天狗特有の感情表現なのかもしれない。
「あの、そのへんで……」
これ以上されたら彼らにまで治療を施さなければいけなくなりそうで、明彩はなんとか止めようとしたが、彼らは動きを止める気配がない。
さてどうしたものかと困っていると、丈響がぐんぐん近づいてきた。
「夜叉の姫。いや、明彩殿。そなたの力は本物じゃ。まさかここまでとは……ずっとあった羽の古傷まで治っておる」
嬉しそうに羽をばたつかせる大天狗の姿に、明彩もまた嬉しくなってくる。
「ありがとう。誠にありがとう」
「いいえ。お礼なら峡に。ここに私を連れてきたのは峡ですから。どうか叱らないであげてください」
床に頭をこすりつけたままの峡を示せば、丈響は少し困ったように眉を寄せる。
「峡よ。お前が儂を想って動いてくれたことは嬉しい。感謝しておるぞ」
「父上!」
「だが無断で夜叉の姫を連れ出したのはまた別。殺される覚悟あってのことだろうな」
突然飛び出してきた物騒な言葉に明彩は目を丸くする。
「え、今、なんて」
「覚悟のうえです。俺は、どうしても父上を助けたかった」
「そうか……」
本当に今生の別れのような態度の二人に、明彩は慌てて割り込んだ。
「待ってください。どういうことですか。殺される、って」
「明彩殿こそ、なにを言っておる。姫を奪うというのはそれほどのことだ。たとえどんな理由であれ、死闘を申し込むに等しい」
「涼牙様はそんなことをする方ではありません!」
「いいや、儂にはわかる。きっとそろそろ……」
心配そうに空洞の入り口に丈響が視線を向けた。何かあるのだろうかと明彩が釣られて入り口に目を向けた、その瞬間だった。
静電気に触れたときのような弾けた音が聞こえた。
「ひぇぇ……!」
次いで、耳に届いたのは引き攣った誰かの悲鳴。それが、入り口近くに控えていた烏天狗が発したものだと気がついたときには、さらなる悲鳴が空洞の中に響き渡る。
「夜叉が! 夜叉が来た!」
「逃げろ……!」
蜘蛛の子を散らすような勢いで烏天狗たちが奥へと走ってくる。
「夜叉って……」
──涼牙様?
もしそうなら、何をそんなに怯えているのかと明彩が入り口に近づこうとすれば、峡が慌てた様子で腕を掴んで引き留める。
「駄目だ。今外に出たら危険だ」
「でも」
真っ青になった峡に、これがただごとではないと理解した明彩はつられて血の気を引かせる。
玄ですら、全身の毛を逆立てて入り口に向かって牙を剥いていた。
「姫様、いけません。主様が……」
「玄まで……どうして」
おろおろと視線を泳がせながら、ふたたび入り口に目を向ける。
「あ」
思わずほろりと声がこぼれた。
外から射し込む光を遮るように、大きな人影が入り口を塞ぐように立っている。逆光のせいで顔が見えず、それが誰なのか一瞬わからず明彩は目を細めた。
「涼牙様?」
呼びかければ、その人影がわずかに身体を揺らしたのがわかった。
見つめ続けていれば、ようやく目が慣れてその人が間違いなく涼牙なのがわかった。だが、表情までは読み取れない。こちらをじっと見つめる瞳だけがらんらんと輝いている。
──え?
青かったはずの涼牙の目が、金色だった。心臓が奇妙な音を立てて高鳴り、かつて助けた鬼の少年の姿が涼牙に重なる。
──そんな、まさか。
何かの間違いかと何度か瞬いていると、金色に見えたのは光の加減だったようで、涼牙の目はいつも通りの青になっていた。
──見間違い、だったの?
混乱しながらも明彩は一歩前へと進もうとするが、峡に腕を掴まれているせいで、その場から動けない。
「いけない。今の夜叉は正気ではないかもしれぬ」
「峡。大丈夫だから……」
「放せ」
低く重い声が響く。
「誰の許可を得て、俺の姫に触れている……!」
「っ!」
短い呻き声を上げて峡が明彩の手を放した。見れば、先ほどまで明彩の腕を掴んでいた峡の手の甲に真っ赤な亀裂が走っている。ぼたぼたと地面を汚す鮮血に、明彩は息を呑んだ。
「大変……!」
地面にうずくまった峡を助けるため身体をかがめようとするが、それよりも先に大きな手が明彩の身体をふわりと抱え上げた。
「無事か!」
今にも泣きそうな顔をした涼牙が、明彩の身体をひしと抱きしめた。
上質な生地がわずかに汗ばんでいるのがわかる。背中と後頭部を包む手のひらは小刻みに震えており、腕を緩めたら明彩が消えてしまうと思っているような必死さだった。
「突然気配が消え、どれほど案じたか! 怪我はないか? 何もされていないか?」
大丈夫だと伝えたいのに、顔を押しつけるように抱きしめられているためうまく喋れない。もごもごと唸りながら、涼牙の腕を叩くが力が緩む気配はない。
──うわああ……!
明彩は顔が焼けるように熱くなるのを感じていた。こんな風に抱きしめられるのは、生まれてはじめてだった。しかも相手は男性で、涼牙。
緊迫した状況にもかかわらず、混乱と恥ずかしさで頭の中がぐるぐると回る。
「貴様……! 自分が何をしたのかわかっているのか!」
身体の芯まで震えるような怒号が響き渡る。涼牙が怒りを向けているのが誰か、考えなくてもわかる。
「すまぬ。本当に悪いことをした。だが、仕方がなかったのだ……父が」
「うるさい!」
「っあ……!」
鈍い音がして何かが床に転がる音が聞こえた。
──駄目!
明彩は涼牙の腕の中でばたばたと手を動かし、必死で存在を訴えた。すると、涼牙の腕がようやく緩む。
「どうした」
「ぷはっ……涼牙様、駄目です。峡を怒らないで」
「は……?」
涼牙の美しい額に青筋が浮かんだ。優しい顔しか知らぬ明彩は、その豹変にひゅっと喉を鳴らす。
「今、なんと言った」
「え、あ……駄目、と」
「その後だ。何故、此奴を名で呼ぶ。俺のことはまだ……くそっ!」
此奴、と指さされたのは地面に倒れ込んだ峡だ。涼牙に蹴飛ばされるか殴られるかしたのか、口から血を流していた。
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