8.夏休みまであと
「……あんた、そのためにあの弾丸を?」
「結果論です。隠形術の奥にあれほどの力が眠っているとは、あどみも予想外でした」
あどみの言葉は信用ならないが、もはや信用の是非が関係ない領域まで話は進んでいた。
「他区の闇祓いを呼べばいいじゃないの」
「闇祓いは常に不足しています。その上、親玉を討てるレベルとなれば相当な人員をこちらに割く必要があります。戦力の移動は慎重に行う必要が」
「そんなもんが!」
荒げた声が響き渡る。途端に冷静になりかけるが、湧き上がる激情は止まらない。心を噛み潰して、声を抑えて。
「ルリが死んでいい理由になるかよ……!」
万が一でもルリが起きるかもしれない──そう考えると、激情を握り締めてあどみに抗議する他ない。
切り忘れていた爪が、風呂に浸かって柔らかくなった皮膚を突き刺している。
「あなたのその躊躇が、この区に住む多くの人や、ここに派遣される闇祓いの担当地区に住まう人々を危険に曝すとしても?」
「わかんねえよ! 区とか、人々とか言われても、私には……」
「あなたの学生はみんな水乱学区の人間と言っても差し支えないはずです」
湯船に浸かっている筈なのに、体の奥までヒヤリとした怖気が駆け抜ける。ルリしか見えていなかった。ルリとの時間があまりにも多かったから。
三ヶ月、水乱高校で過ごしているのだ。あっという間だったし、大変なことしかなかったけれど、私はもう三ヶ月もあそこに居た。それだけで十分、私の心は怯えていた。
「あんた、脅すの上手いね」
「そう思うなら、そうなのでしょう」
「……一回だけ、あんたのこと本気で殴っていい?」
「お好きにどうぞ。あどみはやり返しません」
改めて拳を握り締めたが、今の今まで握り続けていた拳だ。強く握るだけで痛みを覚え、自分のやっていることを自覚し直した。
私は、私の頬を殴った。
「たとえ子供かどうかわからなくても、子供の姿したあんたを殴るなんて出来ない」
「先生は優しいですね」
「これ以上喋らないで。本当に殴っちゃいそう」
風呂を後にして脱衣所に戻ると、セーラー服の横に新しいバスタオルが置かれていた。ルリは寝ているらしいから、用意したのはあどみだろうか。
手に取ると、血がついてしまった。さっき握り締めすぎた手のひらが出血していた。
ドライヤーで髪を乾かしていると、ルリがひょこりと脱衣所に顔を出した。私はドライヤーを止めて、ルリに声をかける。
「体は大丈夫?」
「うん。手伝っても、いい?」
ルリを手招きし、ドライヤー二台体制で髪を乾かすことにした。毎日こんな風に出来たら長い髪の手入れも楽だろう。
「先生、こんな長い髪大変でしょ」
「うん。かなり、めちゃくちゃ、マジで大変だよ」
「わたしだって大変なのに。こんな長いの、ちょっと想像できないや」
「でも、綺麗でしょ?」
「うわー、先生自画自賛してる」
「どうなのよ、そこんとこ」
「決まってんじゃん。先生はぜんぶ最高だよ」
「言わせたみたいになっちゃった」
「ふひひっ。……先生、なんかあった?」
ふと私の手が止まり、ルリの手とドライヤーだけが動く瞬間があった。
「……ちょっと、疲れてるかも。頑張ってくれたあなたの前で、こんなこと言える立場じゃないけど」
一通り乾いたので、用意されていたセーラー服に袖を通す。
正直拒否感が大きかったが、いざ着てみるとテンションが上がり始めるから驚きだ。これがコスプレイヤーの心境なのかも。
「先生! いや……先輩!」
「はいはい、人生の先輩だよ」
「先生やっぱり似合うよ! まだまだJKやれるって!」
「バリバリ現役のJKにそう言われると信じたくなっちゃうけど、いいの?」
「…………どうだろ」
「ちょっと、ここまで来てはしご外さないでよ」
着てきた服の洗濯乾燥が終わるまでしばらく時間がある。私たちは待合所のソファに腰を降ろして、ルリはスポーツドリンクを。私はフルーツ牛乳を飲みながら時間を潰すことにした。
「ねえ先生、わたしもうピンピンしてるからさ。一緒にお風呂……」
「え~、また髪乾かすことになる……けど。まあ、ルリがそんなに言うなら」
すると、ルリは目を丸くして私を見つめて来る。かと思えば、肩を寄せるぐらいまで距離を詰めてきて、私の頬にキスをしてきた。
「ちょっと、誰彼構わずこういうことしてるんじゃないでしょうね」
「先生だけだよ」
「そ、そう? それはそれで……って、いきなりどうしたの」
「や。なんか、今の先生ならなんでも言うこと聞いてくれそうだと思って」
この子妙なところで鋭いな。やはりと言うべきか、私がルリに感じる負い目は露骨に態度に出ているようだ。
「なんでもは聞かないよ。で、お風呂入るの?」
「ううん。今日はいい。今度行こうよ! お休みの日!」
「そうね。ルリの行きたいところに連れてってあげる」
「え! いいの……?」
「いつも言ってるでしょ。こうして一緒に戦ってくれてるのに、お礼してもし足りないぐらいなんだから」
一緒に戦ってくれている。そう言うのが的確なのだろうけど、私からすれば巻き込んだと言うのが適した表現だ。
そして巻き込んだ果てに、取り返しのつかないところへ彼女を連れてきてしまった。
私にひっついてくれているルリの肩を抱き寄せて、そのまま抱き締めた。
「先生?」
「ほんと、ありがとうね」
感謝を伝えるという言い訳は、ぬくもりを欲しているのを隠す言い訳になってくれた。
ああ、私はなんて弱いんだろう。この子はどうしてこんなに強いんだろう。
大人と子供。教師と生徒。そんな肩書きや年数で隔てられたものがバカらしくなる。私は私。この子はこの子。どこまでも対等で、私たちはまごうことなきパートナーだ。
いっそこの子を連れて、全部捨てて逃げてしまおうか。反界は結局学区という範囲に縛られていて、あどみだってそれは同様の筈だ。アサルトライフルだって町の外までは届くまい。
しかし、私とルリの情報を握っているのもまたあどみだ。全国指名手配みたいな感じになって、行き先の闇祓いにさっぱり殺されてしまうかもしれない。銃と弾がなければ、私もただの人間みたいなものなのだ。
リミットは二週間。逃げても地獄。踏ん張っても地獄。
なら、わずかでも光が差す地獄で戦おう。
そうしてなにもかも間に合わないようなことがあれば──責任を取って、地獄に落ちよう。
「もう服の乾燥も終わるし、帰ろうか。自転車は、ぶっ壊れたし……私の後ろ、乗る?」
「二人乗り!」
憔悴していたルリの目がパッと輝き出した。単純な子だ。その気持ち、わからなくはないけれど。
乾きたての服に着替えて銭湯を後にし、自転車にまたがる。そして、後ろの荷物置きみたいなところにルリが腰を下ろした。
「そこお尻痛くないの?」
「痛いけど、いいよ」
「そう。じゃ、安全運転で行くからね」
行きより何倍も重たくなったペダルをゆるゆると進ませて町を行く。ルリが重いってわけじゃない。さっき持ち上げたときは私でもスッと上げられた。むしろ軽すぎるくらいだ。
来たときと今では、過ごす時間の重みが変わってしまった。
「先生、そろそろ夏だね」
破裂までは、あと二週間。
「……ええ。女にとって最悪の季節ね」
「でも最高の季節でもある」
「大人になったらルリにもわかるよ」
「え~? そんなの知りたくないけど……大人になったわたしを先生に見てもらうのは、ちょっと楽しみかも」
誰も居ない町を二人乗りで走っておしゃべりなんて、あまりにも夢の光景だった。
「ねえねえ。夏休みになったらさ、海かプール行こうよ!」
夏休みまでは、あと一ヶ月ほどある。
「うん、行こう」
「えっ、いいの!」
「ルリとならどこだって行くよ」
「ちょ、今日の先生積極的……♡」
「行きたいところ、たくさん考えといて。私はもう、あなたと違ってたくさん夢見れない悲しい大人だから」
「先生、たまにものすごい年増みたいなこと言うけどまだ二十三だよね」
「いいこと教えてあげる。悲しいけど年齢って結構関係ないの」
「それは割りとイヤなことだと思うんだけど……」
私はなんでもない道で自転車を止めて、ルリの方へ顔を向けた。
「私みたいな大人にはなっちゃダメだからね」
微笑んでそう言うと、ルリもにこりと笑ってくれる。
私とこの子は一緒に戦うパートナーだ。その事実に変わりはない。
それでもやはり、私とこの子は教師と生徒で、大人と子供なのだ。
⇔
学校に戻って反界を出たら、先生がいきなり五千円くれた。
千円札五枚じゃなくて、五千円札が一枚。ポンと渡された。
「タクシー呼んどいた。いつもこうしておけばよかったね」
「先生もタクシー?」
「うん。ここで一緒に待とう」
もう暗くなった空の下、校門の前でタクシーを待っていた。先生はすぐ来ると言っていたけど、意外と長い。先生と居られる時間が長いのは、ちょっぴり嬉しいけど。
「ルリ、明日も学校なのにごめんね。遅くなっちゃって」
「遅くなるかもって言ってあるから大丈……夫。今日はちょっと怒られるかもだけど」
「なんかあったら私の名前出していいからね。言ったでしょ、責任取るって」
「もう、大げさだなあ」
どんどん先生が私を認めてくれてるのもわかる。けど、なんとなく大人と子供って考えようとしているのもわかる。
正直、わたしとしては大人……というか、対等に扱ってもらえる方が嬉しい。
そのためには、もっと先生の役に立たなくちゃいけない。もっと強くならなくちゃいけない。空いた時間に先生や友達と遊ぶのも欠かさないけど、同じかそれ以上に体を鍛えなくっちゃ。
「ねえ、ルリ」
わたしを呼ぶ先生の声が、いつもより沈んでいた。名前を呼ばれるのは嬉しいけれど、先生がしょんぼりしているのは嫌だった。
先生が続きを話そうとしたとき、わたしたちの前にタクシーがやって来た。普段タクシーなんて乗らないから、自動で扉が開いてびっくりしてしまう。
「先生……なにか、言いにくいこと?」
「ううん、大丈夫。週末の予定を相談しようと思っただけだから。明日また話しましょ」
「先生は乗らないの?」
「私たち家正反対でしょ。大丈夫、私が乗るタクシーも呼んであるから」
一緒にタクシーで駅まで行って、電車でお別れの方が長く一緒に居られるのに。
でも先生の厚意を無下にするのはダメだし、その日はちゃんとタクシーに乗ってお家に帰ることにした。
それから、闇祓いの帰りは毎回タクシーで帰ることになった。
校門の前でタクシーを待ってそこでバイバイするのは最初こそ慣れなかったけど、疲れた先生がタクシーでビュンッと帰れるならそれでもいいのかな、とか思ったりして。
一つ気がかりなのは、どんどん先生がやつれていってることだった。
私が先生と一緒に戦うようになった頃から、先生の調子は少しづつ良くなっていた。最近は不眠も良くなってきたって嬉しそうに言ってたし、若返っているのが見た目にもわかるくらい。
そこにタクシー帰宅も重なれば、さらに先生の調子も良くなっていくはず……だと、思うんだけど。
タクシーでの帰宅が始まって、もう三週間が過ぎていた。
先生は顔から生気が抜けて髪にもツヤがないし、足取りも時々覚束ない。保健室で居眠りをしちゃうことも多いみたいで、まるでわたしと出会う前の先生そのものだった。
「ねえ運転手さん。いつも見送ってくれるあの金髪の人、乗せたことある?」
思い切っておじさんに訊いてみる。もう三週間もここからタクシーに乗っているので、お互いいつもの人みたいになりつつあるのだ。
「ああ、あの美人さん? 俺はないよ」
「う~ん。あの先生がちゃんと家に帰ってるかどうか知りたいんだけど」
「お、訳ありかい?」
「そう! 訳あり!」
運転手さんは「よし来た」と言い、校門前の通りを抜けた先のコンビニにタクシーを停めた。
「あの校門前の道ね、一方通行なんだ。先生とやらがタクシーに乗って出てくれば、ここから見えるはずだよ」
「おじさん天才! ありがと~!」
「常連さんのためだ、お安い御用よ」
おじさんの粋すぎるはからいにおんぶに抱っこで、わたしは道路を凝視する。
どんな車が出てきても見逃すつもりはない。おじさんがコンビニに買い物に行っている間も、わたしはずっと道路を見つめていた。
やがておじさんが戻って来て「来たかい?」と訊いて来る。わたしは首を横に振った。
「そりゃ変だね。タクシーを呼んでるなら、迎車料金ってのがかかる代わりにすぐ来る仕組みになってる。最近はアプリとかも発達してるからね」
おじさんの長年の勘を信じれば、おそらく先生はタクシーに乗っていない。
わたしの疑いはなんとなく形になっていたけど、まだ確定じゃない。
翌日。いつも通りの悪魔狩りを終えて、わたしはタクシーに乗る。
けど、通りに出てすぐのコンビニで停めてもらい、お金を払ってその場で降りた。
おじさんからのサムズアップに同じサインで返して、わたしは学校への道を戻る。
見る限り、校門前に先生は居なかった。万が一のことを考えて駆け足で学校に向かい、校門を通って中へ。
すると、暗い校舎の中へ戻っていく先生の姿が目に入った。
走って追いかけ、靴も脱がないまま下駄箱を抜けて廊下へ。寂しげな白衣の背中に叫んだ。
「先生! 先生待って!」
振り向いた先生は、悲しげに目元を歪めていた。
「バレちゃったか。もう少しやりようはあったかな」
「先生、わたしに秘密で残業してたんでしょ」
「いつ気づいた?」
「ちょっとずつ気づいてた。先生のこと、ずっと見てたから」
「……あなたのことも、見てたつもりだったんだけど」
先生は頭をかきながら、ため息を一つ落とした。出会った頃の、悪魔先生と呼ばれていた頃を思い出す。綺麗な姿に刺々しさを併せ持った、危うい影がそこにある。
「ねえ先生、なんで秘密にしたの? わたしたち、一緒に戦う相棒じゃないの?」
「それは……」
「言えない理由があるの?」
先生は俯いたまま、それ以上答えてはくれなかった。
「なんとか言ってよ!」
「……ごめん」
今すぐにでも先生の方に駆け寄りたかったけど、急に涙が出てきてびっくりして、こんな姿先生に見せたくないって思ったら先生に背を向けていた。
わかり合えてると思ってた。
過ごした時間は三ヶ月くらいなのに、片手で数えられるくらいしか居ない本当に大事な人になってくれた。
いつか本当に本当の、お互いの一番になるかもしれないって、思ってた。
でも、まだ三ヶ月だった。調子に乗ってたんだ。
わたしにも秘密はある。でも、先生が言ってくれたんだ。本当に言いたくないことは言わなくていい。それだって、いつか先生には打ち明けたいと思ってた。
ただ、一緒にやっているこの戦いのことだけは、なにも秘密にしてほしくなかった。わたしたちだけじゃなく、この町を守るために二人で戦っているんだと思ってた。
このまま背を見せ続けてたってダメなのはわかってるけど、どうすればいいかわからない。このまま泣いていたら先生が来てくれればいい。でも、それは違う気がして。
その時、重たい音が後ろで鳴った。
「……先生?」
振り向くと、先生が倒れていた。
〈つづく〉
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