とても優しくて温かな永遠
汐海有真(白木犀)
01 傷だらけの少年
あの日からちょうど百年が経った今日なら、死ねる気がした。
視界に広がる海はどこまでも澄んでいる。わたしはゆっくりとブーツを脱いで、足を浸した。冬の始まりだからか海水は酷く冷たい。視線を落とせば、水面に映り込んだわたしがいる。ほのかに青みがかった銀色の長髪と、榛色の瞳を持つ少女。どれほど時間を経ても、わたしはかつて魔王を殺したときの、愚かな十八歳の姿のままだった。
自分と目を合わせるのをやめて、わたしは寒い海を少しずつ進んでいく。段々と、呼吸のペースが乱れていくのがわかった。海水が自分の胸の辺りまで到達した頃、わたしの足はぴたりと動かなくなる。
「…………何で」
そう呟いたけれど、理由なんて既にわかりきっていた。結局わたしは、怖いのだ。不老の自分がちゃんと死ねるかどうかを明らかにすること、仮に死ねる存在だったとしてもその行為はきっと苦しみを伴うこと、死を迎えたらもしかしたら全てが終わってしまうかもしれないこと――そういう全部が、怖くて堪らない。
『永遠は、壊せるんだよ!』
かつて自分が叫んだ言葉が、脳内に反響する。そう信じて疑うことのなかった昔のわたしを、心底軽蔑した。簡単に言いやがって、永遠であることを何一つ知らないくせに……
わたしは最早、これ以上先に進むことはできそうになかった。口角を歪めながら、右手の爪で左手の甲を少しだけ抉る。微かな痛みに、許されたように思った。
夕陽の橙が溶け出した海を、砂浜に座りながら見つめていた。衣服は中々乾かなくて、吹き付ける海風も相まって凍えてしまいそうだった。
両脚を腕で掻き抱きながら、わたしは誰に聞かせるでもない呟きを零す。
「……寂しい、な」
言葉にしてしまうと一気に寂寥感に襲われて、わたしは顔を腕の中に埋めた。大きく息を吐き出して、どうにか心を落ち着ける。
そのとき、だった。
「あのっ!」
背後からいきなりそんな声がして、わたしは驚いて身体を震わせる。
顔だけ振り向くと、そこには傷だらけの少年が立っていた。赤い線、青痣、白い傷跡――そんな痛々しい色彩が、肌の上を踏み荒らすように幾つも存在している。燃えるような赤毛と深い紫色の瞳は、夕暮れの光を浴びてきらきらと輝いていた。
彼はわたしの顔をじっくりと見つめたあとで、「……やっぱり」と言って微笑った。とても無垢で、柔らかな微笑みだった。
「……何が『やっぱり』なんだ?」
「え? いや、ほら……お前って、勇者エティルだろ?」
――ゆうしゃ、えてぃる。
その響きを聞いたとき、自分の心臓がぐらりと揺れたのがわかった。それはきっと、ずっと誰にも呼ばれていなかったから。恐ろしいほどに、懐かしい音だったから。
「……そうだけど」
わたしが肯定すると、少年は「ほら、やっぱり! そうなんだ!」と言って、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。それから小走りでわたしの目の前に来ると、小さな両手でわたしの右手を取った。
余りにも久しぶりに触れた人肌に、また心臓が揺れてしまう。
わたしと海の間に立ちながら、少年はにかっと笑った。
「ずっと探してた。勇者エティル、おれを弟子にしてください!」
断ることもできたはずなのに、長い沈黙のあとで自分の口から出てきた言葉は、「いいけど」の四文字だった。
それほどまでにわたしは、孤独であることを憂いていたのかもしれない。
少年は「やったあ!」と再び飛び跳ね、そうして真っ直ぐにわたしを見据える。
「おれは、ファイ。八歳。よろしくな、師匠!」
◇
黒い宮殿の一室、豪奢な窓から見えるのは狂気的な赤さをした空。
わたしの周りには仲間の亡骸が転がっている。下らない話でわたしたちを幾度となく笑顔にしてくれた戦士アルテノも、皮肉屋ながら本当は誰よりも人々を救うことに必死だった魔術師シレフィクも、自らの医術で世界から苦しむ人をなくしたいと真摯に語った僧侶ミリアも、皆、死んでいた。
わたしは魔王の大きな身体の上に乗って、奥に心臓の潜む肉に刃を突き立てている。魔王には最早、身体を動かす体力も魔術を唱える魔力も残っていない。
(こいつのせいで……皆が。尊くて、優しかった、皆が)
強く唇を噛むと鉄の味がした。わたしは魔王を睨み付けながら、血の滲んだ身体を大きく震わせて、叫んだ。
「貴様は言っていたな、自分の時代は永遠だと! いいか、よく聞け! 本当の永遠なんて存在しないんだよ! 全てのものには等しく終わりがあるんだ!」
魔王は何も言わずに、わたしの泣き顔を眺めていた。
「永遠は、壊せるんだよ!」
勝手に溢れる涙を拭いながら、わたしは「……何か言い残すことはあるか」と問う。
滲んだ視界で、魔王の口角が確かに上がったのを、見た。
魔王は何も言わずに、ずっとそうしていた。わたしのことを嘲笑しているかのようで、その表情が酷く不快で、わたしは「ないんだな」と呟いて、魔王を刺した。
その瞬間、何かが身体にべとりと纏わり付くようなおぞましさを覚えて、それを振り払おうとするように魔王を何度も壊した。狂いそうになりながら、返り血を浴びて、何度も、何度も――
「…………ッ!」
わたしはがばりと起き上がる。
視界に広がるのは真っ暗な自室だった。額に手を当てると、べとりとした汗が付着する。
(……わたしはまた、あの夢を)
深い溜め息を吐いた。もう、数えることのできないほどに見た夢だった。どれだけ回数を重ねても、わたしにはその光景が恐ろしくて堪らない。
「…………くるしい」
「何が?」
突如として隣から聞こえた声に、息を呑んだ。
暗闇に慣れてきた目が、ファイの輪郭を捉える。優しい目をしているのが、わかった。
「……起きていたのか」
「うん」
「子どもはちゃんと寝なきゃ駄目だ」
「寝るの、怖いんだもん」
「何で」
「夢の中で殴られるから」
「……そうか」
わたしはそれだけ言って、ファイの小さな身体を抱きしめた。
「わたしも、怖い。お揃いだ」
「師匠もなんだ」
「ああ。嫌なことを思い出して、苦しいよ」
「そっか。……師匠は、あったかいな」
魔王の呪いによって永遠に染められた自分にも、温もりのようなものがあることに安堵した。
君も温かいとそう告げて、わたしは再び目を閉じる。
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