10話 あわや熟年離婚の危機
俺は写真に慣れていなかった。幼い頃は写真を撮るという行為が今のように気楽にできたわけではない。貧しい家庭環境だった故にカメラなんて高級品は持っているはずもなく、記憶にあるのは一度だけ写真館で記念写真を撮ってもらったぐらいだ。それが人生最初の写真。
直子と結婚した時、俺はそれなりに蓄えがあったためカメラを購入した。結婚記念日、恵美が生まれた日、いろんな記念日に俺はシャッターを押す。けれど、カメラが向くと緊張してどうしても笑顔がつくれなかった。
(後でこんなことで後悔するはめになるとは思ってもみなかった)
しかし、捲られていくアルバムの最後のページを見て俺は驚いた。横向きだったが俺は確かに微笑んでいる写真が一枚だけ貼ってある。
「お父さんが笑ってる」
恵美も気が付いたようで、その写真を指差しながら言った。
「ああ、これね……覚えてない? これ恵美が撮ったんだよ」
「ええ? 覚えてないや」
「わたしが友達と旅行へ行ったときに買ったインスタントカメラのフィルムがまだ残っててね……恵美がやりたいって言ったから残りの一枚を撮らせてあげたのよ。その一枚がこれ……ちょうどお父さんの好きなクイズ番組やってて、その瞬間を撮ったみたい」
「お父さん、クイズ番組よく見てたもんね」
笑顔の俺が写った写真を見て、直子も恵美も懐かしむように微笑んでいる。そのふたりの姿を見て胸の中がカッと熱くなる。
(こんな風に見てくれるならもっともっと笑ってやれば良かった)
柄にもなく泣きたい衝動に駆られた。
「まだ、こっちにも恵美が生まれた頃の写真あると思うよ」
直子が徐に押し入れの奥から大きな段ボールを出してくる。それを開けることなく、邪魔にならないところへと寄せた。俺はその段ボールに書いてある文字に目を奪われる。
ーーお父さんの遺品。
油性マジックで書かれた直子の文字。さっきまでの暗い感情が一気に吹き飛んだ。
(干渉に浸ってもしょうがないじゃないか!! しっかりするんだ浩之!!)
気持ちを切り替え、またアルバムで盛り上がりだすふたりの目を盗み、段ボールの中身を覗き込む。そこには仕事で使っていた鞄や手帳、愛用していた腕時計などが入っていた。
(ちゃんと捨てずに残してくれているとは有り難い)
これだけ部屋が変化し、あまり俺のものが見当たらないから内心全部捨てられてしまったのではないかとヒヤヒヤしたが、なんとか杞憂で終わりそうだ。
こっそりと安堵の溜め息をつく。
(これだ!!!!)
鞄の中に目当ての物が見えた。黒の折り畳み携帯電話。通称ガラゲー。
すぐに隠さなくてはと俺はズボンのポケットを確認する。
(……これはいかんな)
子供用のポケットはあまりにも小さく、いくらガラゲーでもギリギリ入るぐらいの大きさだ。無理矢理入れてもいいが、これが入ったポケットはパンパンに膨らんで直ぐふたりに気が付かれてしまうだろう。
ーーどうする。どうしたらバレずに持ち出せる。
そんな焦りが汗に変わり、額を濡らした。
(そうだ!)
明暗が閃く。クイズ番組で正解を言い当てたときの爽快感が身体に広がった。
俺はニヤニヤしながら携帯電話をズボンの隙間に押し込み、更にオムツの中に突っ込む。汚いがこれが最も安全な隠し場所だ。
「ぼく、トイレ……ひとりで行けるから!!」
何か言いたげに口を開いた恵美に隙を与えることなく、俺はトイレへ向かって猛ダッシュした。
「ホントに成長したね」
直子の感心したような声が耳に届く。
(そりょそうだ。中身は俺なんだからな)
そんなことを思いつつ、トイレへ駆け込んだ。ドアに念のため鍵をして、またオムツの中から携帯電話を取り出す。
(これで俺が誰とやり取りしたかが分かるぞ)
とは言っても、あの日は送別会で会ったのは会社関係者ばかり。その帰りに誰かと会う予定なんてなかった。それでも何かしらヒントになるものがあるかもしれない。
期待に心を膨らませ、携帯電話を開く。だが、俺の努力は水の泡に変わる。
「電源が……入らない」
そりゃそうだ。4年も段ボールの中にあったのだから、充電なんてされている筈もない。段ボールの中に充電器の類いは見当たらなかった。
(仕方ない。帰ったら、また夜中にこっそり充電して確認するしかないか)
諦めてトイレから出ると、携帯電話をリュックの奥底へと隠した。
怪しまれないうちにまたふたりがいる部屋へと戻る。
「お父さんってさ、お母さんにとってはどんな夫だった?」
ドア越しに漏れる恵美の声。俺はそっと聞き耳を立てる。
「そうね。昔ながらの真面目人間って感じで、面白味には欠けた人だったわね」
直子の本音に若干のショックを受けた。
「ずっと専業主婦をさせてもらって生活には苦労したことはなかったから感謝はしてるの。けど、家族としては円満な家庭とは程遠かったわ。家族で他愛ない話をしたり、一緒に料理して感想を言い合ったり……そんな夫婦に憧れてたのが本音ね」
「わたしもお父さんとあんまり話した記憶はないかな。家にいてもずっと難しい顔して、話しかけにくい雰囲気だったし……正直、何を考えてるのか分からなかった」
恵美がそんな風に思っているとは知らず、俺はドアの前でただ立ち尽くす。
(俺なりに精一杯やってきたつもりなのに……何も伝わっていなかったのか)
「お母さんさ、お父さんと離婚したいとかって思ったことなかったの?」
俺の心臓が一気に跳ね上がる。だが、重苦しい空気を変えるような直子の笑い声が部屋に響いた。
「あるある! 何度もあるわよ!」
顔が青ざめるのを鏡なしでも分かってしまうほど、サーっと血の気の引く音が頭の中で響く。
「お父さんが定年になったらばっさり捨ててやろうってずーっと企んでた」
もしかしたら、あの日生きて家に帰っていたら熟年離婚の危機を迎えていたかもしれない。
俺は衝撃的な事実を受け止めきれず、その場に座り込んだ。
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