第44話 家族2
表向きの家族。
化けの皮を剥がされた家族。
「……家族、か」
重い溜め息と共に、知らず知らず呟きが漏れてしまう。
ずっとパソコンへ一直線に向けられていた灰本の視線が寄越されたことなど気付かないまま、両手を天井へ突き上げ伸びをして、頭から排除しようとしたが、あまりうまくいかなかった。
そんな時は、どうすればいいか。
「灰本さん、お酒ありませんか?」
悪巧みしている風の笑みを見せると、灰本は、前のめりになっていた身体を椅子の背もたれに預けて呆れ顔になっていた。
「飲む気か?」
「集中力にも限界があります」
「疲れたのなら、寝ろ」
模範解答は無視して、キッチンに立って物色し始めることにした。食器棚を開けてみる。一人暮らしく、食器の数も少ない。殺伐としたものがあるが、酒用のグラスは充実していた。タンブラー、ロックグラス。ジョッキグラス。すべてペアになっていた。
もしかして、彼女用なのかもしれない。やっぱりやめようかと思い始めたところで「最近は飲んでないが、下の棚にワインが入ってる」という声が飛んできた。飲んでいいという了承の返答。閉じようと伸ばしかけた手を伸ばす。
「俺の分のグラスも持って来いよ」
「人使い荒いなぁ」
文句を言いながら少しだけ靄っとした気持ちを振り払う。そして、私は二人分のワイングラスを手にして、ワインが入っていると言われた場所の前にしゃがみ込んで、開いた。
ワインが行列していて、思わず「おー」と声が出てしまう。
ワインについて詳しくないが、いかにも年代物の高そうなものもありそうだ。灰本は、ワイン好きなのか。
一緒に仕事を始めてからしばらく経つ。性格は、嫌というほど理解しているが、それ以外のことは、何も知らない気がする。私は何でもかんでも話しているが、灰本からはそういった話は一切聞いたことがない。
私が知っていることといえば、灰本は元刑事で、天海という親友の記者が昔いて、その人はもうこの世にはいないということ。仕事仲間としては、それだけ知っていれば十分ということなのかもしれないけれど。手に持った二人分のグラスを見比べる。どうしてか、何とも言えない深いため息が出てしまう。そんな自分は、どんどん陰気な人間になってきたように思えてくる。
余計な詮索や想像は、やめよう。
目の前へ集中することにするが、行列しているワインを前に、打ちのめされてしまいそうになる。
「さっきから、何してるんだ?」
いつの間にか、真横に立って私を見下ろしていた。思わず、ぎょっとする。
「適当に選べばいいだろ」
「適当といわれても……」
ごにょごにょ言っていると、灰本は手を伸ばして、言っていた通り、たいして確認もせず手にしていた。
「それ、明らかに高そうですけど、いいんですか?」
「俺もワインは、よくわからない。この辺は全部、天海が勝手に持ち込まんできたものだ」
天海が持ち込んだという言葉が、胸に突き刺さってしまうが、すぐに衝撃は和らいでいた。彼女はとてもキレイで大人で、二人並ぶと本当に絵になるお似合いの恋人同士にしか見えない。美波と私を比べるなんて、おこがましいだろう。
「美波さん、ワイン好きなんですね。まさにイメージにピッタリ」
明るく言ってみせる。うまく言えているか自信はないが、笑顔でカバーすればいい。笑顔、笑顔。
念仏のように頭の中で言い聞かせていると、灰本は引き出しからワインオープナーをさっと取り出して、ワインコルクにさし始めていた。きゅっきゅっと瓶とコルクが擦れて、徐々に栓が抜けていく音がする。それを決起に、笑顔の準備をしながら立ち上がろうと足に力を込めたとき。
「美波じゃなくて、兄の方だ」
灰本がそういうのと同時に、ポンっと軽快な音が響いた。コルクと一緒に、足の力も抜けてしまう。
「取引先からもらったとかいって、よく大量にワインを持ち込んできては、うちに来て飲んでたんだよ。あの辺のグラスも、全部あいつが持ってきて、置いていったものだ」
ワインを注ぐ音が、静かな空間に流れる。
自分の中に存在していた美波への嫉妬は、あまりにレベルの低いものに思えて、情けなくなる。
私の前に綺麗に並べられていたワインに目を向ける。その列に穴が開いていた。
灰本がずっと大切にしていたものを、私は勝手に荒らしてしまったような気がして、急に落ち込みそうになってくる。
「あの、勝手にすみませんでした」
しゃがみこんだまま、立ち上がることもできず、口をつく。灰本にとっては、私から出てきた言葉は、言葉なものだったらしい。困惑が飛んでくる。
「なんで、謝るんだ?」
「だって、大切なものだったんですよね? 私、何も知らず、ずかずかと」
「別に、大切にしようと思っていたわけじゃない。ただ処分に困っていただけさ。普段、家で酒なんて飲まないし。むしろ、今日はやっと消費できるいい機会だ」
灰本から私を救い上げるような柔らかい声が降ってくる。自然と顔は引き上げられて灰本を見上げる。
「ほら、早く飲むぞ」
柔らかく笑う灰本。そこには、私の知る前の灰本がいるような気がした。
ダイニングテーブルに広げていたパソコンや資料を横へ追いやって、早速灰本はグラスに口をつけて、懐かしむように目を細めている。私も、続いて口に含む。口の中に苦さが広がったが、それはすぐに消えて華やかな香りとまろやかさが広がった。 アルコール独特の刺激もなく、するっとのどを通っていく。
「うわぁ、おいしい」
感嘆する私。その隙間に、灰本は息を吐くようにいった。
「ワイン通だったからな。あいつが持ち込んできたもので、外れはなかった」
「本当に、仲がよかったんですね。まるで、私と陽菜みたい」
「なるほど。兄弟ってそんな感じか」
やけに納得したようにいって、目を記憶を辿るように目を細める。そして、本当に何気なくだった。
「俺には家族がいないんだ。俺は親の顔も、なにも知らない。生まれたときからずっと施設で、一人だった」
さらっと、告げられた灰本の背景。思わず手が止まってしまうほどの驚きがあった。
私は、勝手に思っていたのだ。元刑事だったというから、きっと親もそういった関係の仕事についている人だろう。そして、その息子である灰本誠一は、優秀な親の下、みんなが羨むような理想の家庭で育ってきたのだとばかり、思っていた。
彼の冷静さ、聡明さは、両親から手厚い愛情や教育を受けてきた結果なのだろうと。
灰本はグラスを傾ける。グラスの縁についたワインが、ゆっくりと滑り落ちる。
「だから、友達や家族……目にみえない何かで繋がっているものや、誰かのために泣いたり、笑ったり、怒ったりする……そういう、実際に目にみえない曖昧なものがよくわからなかった。まぁ、別に理解したいとも思っていなかったし、どうでもいいと思っていたがな。でもある日、そいつは嵐のように突然現れて、俺の目を覚まさせた」
どこかの誰かみたいに。
小さく付け加えて、灰本は懐かしそうに目を細める。その声は柔らかく、私の心臓に触れた。
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