第13話 暗転

 松井は、じっとりとした笑みを浮かべ、私のスマホを操作し続けていた。そして、やっぱりな、と録音アプリ画面を向けてくる。

「いきなりお前が来るから、おかしいと思ったぜ。お前一人の判断でここにきたのか? それとも、付き合ってる刑事の男に、指示を出されて、ここにきたのか?」

 動かしていたアプリの停止ボタンを押して、ゴミ箱へ入れ消去しながら、片手間に質問してくる 。

 どうして、松井が灰本を知っているのかと思いめぐらせてみれば、ぼんやりしている頭でも理解できた。

 昨日、バイトへ顔を出す前の時間帯は、松井が、入っていた。その時、灰本と会ったのだろう。

 今までの録音は、きれいさっぱり消えたぞと、松井は満足気に笑っている。そんな松井に、私ははっきりと答えてやる。

「私一人に、決まってるでしょ。 彼に言ったら、止められるに決まってる」

 私の返答に、松井は更なる笑みを浮かべていた。

「そりゃあ、そうか。バイトに入っている時も、店長相手にいまにも殴りかかってきそうな客に向かって、食って掛かって掛かるようなお前だ。正義感だけで、殴りこんできたいう方が、筋は通る。さすがだよ」

 ゲラゲラ見下す笑い声に反応して、心臓から煮えたぎるような血液が競りあがってくる。亜由美を陥れたときも、きっとこんな顔をして馬鹿みたいに笑っていたのだろう。そう思ったら、目の前が赤黒い炎で、覆われていくようだった。

 松井を睨み付ける。


「私は、絶対あんたを、許さない」

「へぇ。まだ喋れるのか。一番強力な薬を使ったのに、しぶといな。子守唄の代わりに教えてやるよ。どうして、亜由美を狙ったか」

 松井は、ニヤニヤ薄汚い笑みを浮かべる。

「お前、言ってたよな? 亜由美は、超大手の会社に就職決まったんだって。俺はな、そういう順風満帆な人生を送る優等生が大嫌いなんだ。俺はこんなに苦労してるっていうのにさ。そういう奴をみると、地獄に突き落としてやりたくなるんだよ。まぁ、言い換えれば、お前がそんな話ペラペラしなきゃ、亜由美は俺の手には落ちなかったということだ。お前が悪いんだ」

「ふざけるな」

 叫んだつもりなのに、大きな波が覆いかぶさるように、瞼が重くなるのと比例して喉が絞まる。もう囁くくらいの声しか出なかった。

 大波に何とか耐え、引いていくと、今度は私の力を奪い去っていこうとする。それに必死に耐えることしかできない。次にくる波を巨大化させるかのように松井は、つづけた。


「春香を狙ったのも、バイト先にお前が連れてきたとき、就職が決まったと、馬鹿みたいにはしゃいでいた。それが理由だよ」

 松井は、手を叩いてはしゃぐ真似をして、ケラケラ笑う。何もかもが不快だ。

 突然、松井の薄汚い笑みが消えた。

 

「そして、それ以上に」

 松井が、ぎろりと私を見下ろし、腰を低くして、目線を合わせた。

「俺はな、お前のような正義ぶった人間がこの世で、一番嫌いなんだよ。本当は、お前が一番最後のメインイベントとして残していたんだが、ちょうどいい。今日、たっぷり痛めつけてやる」

 濁った瞳が私を捉え、悪魔は囁いた。  

「お前の男さぁ、正義感溢れた優秀な刑事様なんだって? 俺に出し抜かれて、さぞ悔しい思いをするんだろうな? 優秀な男が、怒りに震えて、地獄に落ちる顔も楽しみだよ。俺を不快にさせた報いを、二人揃ってたっぷり悔いろ」

 ぼんやりする意識と働かない頭でも、理解できる。こいつは、ガキ以下どころか、人間の形だけしたクズだ。

「まるで、独裁者気分ね……。権力も、実力も、何もないくせに」

 落ちそうな意識を持ち上げて、吐き捨てる。

 怒りに震えている松井の顔になると、唐突に、右頬にバチンと衝撃が走った。

 痛みはほとんど感じなかったが、強烈なビンタを食らったらしい。それほど、意識は混濁としてしまっている。

「お前、本当にむかつくな。わかった。お前は、やっぱり特別だ。一生抜け出すことのできない悪魔の薬を調達してやるよ」

 それだけ言うと、ポケットから自分のスマホを取り出して必死に操作していた。

 その間落ちる沈黙が、重い。更なる大波を運んでくる。限界が近いと、自分でもわかるほどだった。

 松井の嗅覚が働いたのか、手が伸びてくる。

「さて、そろそろ喋る元気もなくなってきたか」

 

 汚い手を払いのけたい一心で、自分の体を支えていた両手を床から離した。その瞬間、ガクンと身体が落ちた。

 顔面を床にたたきつけられる直前で、支えてくる。

 そのまま、私の片腕を引き上げて、自分の首へ私の手を回した。生ぬるい感覚に虫唾が走る。

 ずるっと落ちるショルダーバッグを松井が反対の手で取り上げた。中身を器用に確認する。スマホの電源はしっかり切れているか、他に不審物はないか手慣れたように確認し、何もないことを確信すると、「大丈夫かい?」下手な役者のようなセリフを吐いていた。

 

 途中でウエイターが何か声をかけていたようだったが、海の底にいるみたいによく聞こえない。

 助けてと言いたいのに、顔も上げられないし、泥酔している人のように呂律が回らない。それをいいことに松井が「ウイスキー飲みすぎたみたいで」と言っているのだけは、聞こえてくる。

 底なし沼の中へ飲み込まれていく中でも、自分へ言い聞かせる。最悪の状況ではあるが、これも数ある想定の内だ。

 私自身が被害者になれば、すぐに警察に駆け込んでやる。いくら脅されようが、地獄を見ようが私は絶対怯まない。

 全部、ぶちまけてやる。

 

 ほとんど、引きずられるようにして、階段を上がり地上へ出た。頬を冷たい風が負けるなと、叩かれた右頬の上から叩いてくる。

 刹那、一番大きな真っ黒な波が襲ってきた。

 視界が黒になる。身体もピクリとも動かせなくなった。

 誰かの声が、聞こえてくる。

 ウエイターと交わしたような問いと、答えが途切れ途切れに繰り返されていた。それさえも、さらに遠くに追いやられ、真っ暗な世界へ完全に引きずり込まれていた。




 


 暗く深い森にかかる霧。

 そこを一人裸足で歩く。私はどこへ向かえばいいのかわからない。

 途方に暮れる私が行くべき道を示すように、霞に変わり一本の道が現れた。

 その先に、うっすらと現れた人物。誰だろう。目を凝らせて相手をじっとみつめると、白い靄もさっと引いていた。

 鮮明になる視界。その先に、松井がいた。

 脳天から地面へ雷が落ちたような感覚とともに、煮えたぎるような憎悪が、身体を支配していた。

 不明瞭だった頭が、どんどん覚醒していく。


 その瞬間、飛び起きていた。

 私がいた場所は、見知らぬ部屋のベッドの上だった。ぞっと背筋に冷たいものが走る。

 心臓が早打ちしている。手にもじっとりと汗が滲ませながら、自分の体を見下ろす。衣服に乱れもなく、記憶が飛ぶ前のままだった。飛び起きたせいで、足元にすっ飛んでいたが、毛布が掛けられていた形跡があった。

 ぐるりと部屋を見回す。視界の左奥にドアがあり、右奥にはデスク、ベッドの右側には本棚。ベッド脇には、サイドテーブルがあって、私のショルダーバッが置かれていた。手を伸ばして、中身を確認してみる。スマホもちゃんと入っているし、無くなったものもなさそうだ。監禁されているような様子もなさそうだ。

 私が背にしている側には窓から、明るい陽射しが降り注いでいる。ずいぶん長い間、意識が飛んでいたということになるが、その間に松井が宣言していた最悪の事態には陥っていないようだ。

 安堵と困惑が同時に、湧き上がると、右頬が急にじりじりと痛みだし、同調するように頭に鈍痛が走った。思わず額に手をやって、蹲まる。

「……いった……」

 呻き声が部屋に響く。それが合図だったかのように、視界の左奥にあったドアが開く音。

 部屋の空気が揺れ、感情のない声が鼓膜に届いた。

「目が覚めたか」

 驚いて、痛みを抑えながら顔をあげる。その先に、グレーのスーツがよく似合う男。腕を組んで、口角を下げ目尻が鋭利になっている。端正な顔立ちのせいで、苛立ちがより一層際立っているように見えた。



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