第七章⑤

 一年五組の教室に変わるところは何もない。出てきたときのままだ。黒板の消し跡も、びようさったモルタルの壁も。

「……キョン、見て……」

 窓にけ寄ったハルヒはそう言ったきり絶句した。そのとなりで、俺もまた眼下の世界を見下ろした。

 わたす限りダークグレーの世界が広がっていた。山の中腹に建っている校舎の四階からは遠くの海岸線までを目にすることが出来る。左右百八十度、視界が届く範囲に、人間の生活を思わせる光はどこにもない。すべての家々はやみざされ、カーテンしにでも光をらす窓が一つもなかった。この世から人間が残らず消えてしまったかのように。

「どこなの、ここ……」

 俺たち以外の人間が消えたのではなく、消えたのは俺たちのほうだ。この場合、俺たちこそがだれもいない世界にまぎれ込んだちんにゆう者になるのだろう。

「気味が悪い」

 ハルヒは自分のかたくようにしてつぶやいた。



 行く当てもない。そんなわけで俺たちは夕方に後にしたばかりの部室にやって来た。鍵は職員室からガメてきたので問題ない。

 蛍光灯の下、俺たちは見慣れた根城にもどった安心感からかどちらともなくあんの息を漏らした。

 ラジオをつけてみてもホワイトノイズすら入らず、風の音一つしない静まりかえった部屋にポットからきゆうがれる湯の音だけがこだました。茶葉を入れえる気にもならないので出がらしのお茶だ。れているのは俺。ハルヒは半ばぼうぜんと灰色のかいながめている。

「飲むか?」

「いらない」

 俺は自分のぶんの湯飲みを持ってパイプを引き寄せた。一口飲んでみる。朝比奈さんのお茶のが百倍美味うまい。

「どうなってんのよ、何なのよ、さっぱりわからない。ここはどこで、なぜあたしはこんな場所に来ているの?」

 ハルヒは窓の前に立ったままり返らずに言った。後ろ姿がやけに細く見えた。

「おまけに、どうしてあんたと二人だけなのよ?」

 知るものか。ハルヒはスカートとかみひるがえし、俺をおこったような顔で見ると、

「探検してくる」と言って、部室を出ようとする。こしをあげかけた俺に、

「あんたはここにいて。すぐ戻るから」

 言い残してさっさと出て行った。うむ、そういうところはハルヒらしいな。はつらつとした足音が遠ざかるのを聞きながら一人不味まずい茶を飲む俺の前に、やっとやつが現れた。

 小さな赤い光の玉。最初、ピンポン球くらいの大きさ、次いでじよじよりんかくを広げた光はほたるのようなめいめつり返して、最終的に人型を取った。

「古泉か?」

 人の形をしていても人間には見えない。目も鼻も口もない、赤くかがやく人の形。

「やあ、どうも」

 能天気な声は、確かに赤い光の中から届く。

おそかったな。もうちょっとまともな姿で登場すると思ってたが……」

「それも込みで、お話しすることがあります。手間取ったのはほかでもありません。正直に言いましょう。これは異常事態です」

 赤い光がらめいた。

つうへい空間なら僕は難なくしんにゆう出来ます。しかし今回はそうではありませんでした。こんな不完全な形態で、しかも仲間のすべての力を借り受けてやっとなんです。それも長くは持たないでしょう。我々に宿った能力が今にも消えようとしているんです」

「どうなってるんだ? ここにいるのはハルヒと俺だけなのか?」

 その通りです、と古泉は言い、

「つまりですね、我々のおそれていたことがついに始まってしまったわけですよ。とうとう涼宮さんは現実世界に愛想をかして新しい世界を創造することに決めたようです」

「…………」

「おかげで我々の上の方はきようこう状態ですよ。神を失ったこちらの世界がどうなるのか、誰にも解りません。涼宮さんが深ければこのまま何もなく存続する可能性もありますが、次のしゆんかんに無に帰することもありえます」

「何だってまた……」

「さあて」

 赤い光がほのおのようにふらふらと、

「ともかく涼宮さんとあなたはこちらの世界から完全に消えています。そこはただの閉鎖空間じゃない。涼宮さんが構築した新しい時空なんです。もしかしたら今までの閉鎖空間もその予行演習だったのかも」

 おもしろじようだんだが、それのどこで笑っていいのか教えてくれ。はっはっはっ。

「笑い事じゃないですよ。大マジです。そちらの世界は今までの世界より涼宮さんの望むものに近づくでしょう。彼女が何を望んでいるかまでは知りようがありませんが。さあどうなるんでしょうね」

「それはいいとして、俺がここにいるのはどういうわけだ」

「本当にお解りでないんですか? あなたは涼宮さんに選ばれたんですよ。こちらの世界からゆいいつ、涼宮さんが共にいたいと思ったのがあなたです。とっくに気付いていたと思いましたが」

 古泉の光は今や電池切れ間近のかいちゆう電灯並に光度が落ちていた。

「そろそろ限界のようです。このままいくとあなたがたとはもう会えそうにありませんが、ちょっとホッとしてるんですよ、僕は。もうあの《神人》狩りに行くこともないでしょうから」

「こんな灰色の世界で、俺はハルヒと二人で暮らさないといかんのか」

「アダムとイヴですよ。産めや増やせばいいじゃないですか」

「……なぐるぞ、お前」

「冗談です。おそらくですが、閉ざされた空間なのは今だけでそのうち見慣れた世界になると思いますよ。ただしこちらとまったく同じではないでしょうが。今やそちらが真実で、こっちが閉鎖空間だと言えます。どうちがってしまうのか、それを観測出来ないのは残念です。まあそっちに僕が生まれるようなことがあれば、よろしくしてやってください」

 古泉はもとのピンポン球にもどりつつあった。人間の形がくずれ、え尽きたこうせいのように収縮していく。

「俺たちはもうそっちに戻れないのか?」

「涼宮さんが望めば、あるいは。望みうすですがね。僕としましては、あなたや涼宮さんともう少し付き合ってみたかったのでしむ気分でもあります。SOS団での活動は楽しかったですよ。……ああ、そうそう、朝比奈みくると長門有希からの伝言を言付かっていたのを忘れてました」

 完全に消えせる前に、古泉はこう言い残した。

「朝比奈みくるからは謝っておいて欲しいと言われました。『ごめんなさい、わたしのせいです』と。長門有希は、『パソコンの電源を入れるように』。では」

 最後はあっさりしたものだった。ろうそくの火をき消したような。

 俺は朝比奈さんの伝言とやらに頭をひねった。なぜ謝る。朝比奈さんが何をしたと言うんだ。考えるのは後にして、俺はもう一つの伝言に従ってパソコンのスイッチを押した。ハードディスクがシーク音を立てながらディスプレイにOSのロゴマークをかび上がらせ……なかった。ものの数秒で立ち上がるはずのOSがいつまでたっても表示されず、モニタは真っ黒のまま、白いカーソルだけが左はしてんめつしていた。そのカーソルが音もなく動き、素っ気なく文字をつむぐ。


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