第七章④

 夜になって、晩飯だのだの明日の英語で和訳を当てられそうなところの予習だのを適当に済ませ、もう後はるしかない時間を時計の針が指したあたりで、俺は自室のベッドに寝ころんで長門から押しつけられた厚い書物をひもといていた。たまには読書もいいかなと思って何の気なしに読み始めたのだが、これが存外面白くてすいすいページが進む進む。やっぱり本なんてものは読むまで面白さが解らないもんだ。いいね、読書は。

 ただし一夜で読み切るにはあまりに文字量が多いので、俺は登場人物の一人が長々とした独白をちょうど終えたキリのいいところで本を置いた。そろそろすいろうぶたの上でキャンプを張ったころいだ。長門の文字が刻まれたしおりはさんで本を閉じ、電気を消してとんもぐり込む。まどろみ数分、俺は寝付きよくねむりに落ちた。



 ところで人が夢を見る仕組みをご存じだろうか。睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠の二種類があって周期的に繰り返されるわけなのだが、眠りばなの数時間は深い眠り、ノンレム睡眠が多く訪れる。この時の脳は活動を休止しており、身体からだは眠っているが脳が軽く活動しているレム睡眠時に我々は夢を見るのである。朝方になってレム睡眠の構成比は増えていき、つまり夢というものはほとんど寝起き直前に続けて見るものなのだ。俺も毎日のように夢を見るが、ギリギリまでどこにいていざ起きたらあわただしく登校の用意をしなくてはならないからすぐに忘れてしまう。ふとしたきっかけで何年か前の見たことも忘れていた夢の内容を思い出すこともあって、いや人間のおくの仕組みってのはまだ不思議で満ちているんだな。

 かんきゆうだい。そんなことはどうでもいいんだ。

 ほおだれかがたたいている。うざい。眠い。気持ちよく眠っている俺をじやするな。

「……キョン」

 まだ目覚ましは鳴ってないぞ。何度鳴ってもすぐ止めてしまうけどな。おふくろに命じられた妹がおもしろ半分に俺を布団から引きずり出すにはまだゆうがあるはずだ。

「起きてよ」

 いやだ。俺は寝ていたい。ろんな夢を見ているヒマもない。

「起きろってんでしょうが!」

 首をめた手が俺をり動かし、後頭部を固い地面に打ち付けて俺はやっと目を開いた。

……固い地面?

 上半身をね上げる。俺をのぞき込んでいたハルヒの顔がひょいと俺の頭をけた。

「やっと起きた?」

 俺の横でひざ立ちになっているセーラー服姿のハルヒが、白い顔に不安をにじませていた。

「ここ、どこだかわかる?」

 解る。学校だ。俺たちの通う県立北高校。その校門からくつぎ場までのいしだたみの上。明かり一つともっていない、夜の校舎が灰色のかげとなって俺の目の前にそびえ──、

 ちがう。

 夜空じゃない。

 ただ一面に広がる暗い灰色の平面。単一色につぶされたりんこうを放つ天空。月も星も雲さえない、かべのような灰色空。

 世界がせいじやくうすやみに支配されていた。

 へい空間。

 俺はゆっくりと立ち上がった。がわりのスウェットではなく、ブレザーの制服が俺の身体をまとっている。

「目が覚めたと思ったら、いつの間にかこんな所にいて、となりであんたがびてたのよ。どういうこと? どうしてあたしたち学校なんかにいるの?」

 ハルヒがめずらしくか細い声でいている。俺は返事の代わりに自分の身体にあちこち手をれてみた。手のこうをつねったかんしよくも、制服のざわりも、まるで夢とは思えない。かみの毛を二本ばかり引っ張ってくと確かに痛い。

「ハルヒ、ここにいたのは俺たちだけか?」

「そうよ。ちゃんと布団で寝てたはずなのに、なんでこんな所にいるわけ? それに空も変……」

「古泉を見なかったか?」

「いいえ。……どうして?」

「いや何となくだが」

 ここが例の次元断層がどうのこうのしたとかの閉鎖空間なら、光のきよじんと古泉たちもいるはずだ。

「とりあえず学校を出よう。どこかで誰かに会うかもしれない」

「あんた、あんまりおどろかないのね」

 驚いてるさ。特にお前がここにいることにな。ここはお前が作り出す巨人の遊び場じゃなかったのか? それともやはりこれは異常にリアル感のある俺が見ている夢か。人気のない学校でハルヒと二人きり。フロイト博士ならなんとぶんせきしてくれるだろう。

 ハルヒとかずはなれず並んでもんから足をみ出そうとした俺の鼻先が見えない壁に押された。ねっとりした感触には記憶がある。力を込めればある程度は進めるものの、すぐに固い壁にぶち当たる。とうめいな壁が校門のすぐ外に立ちはだかっていた。

「……何、これ」

 ハルヒが両手を盛んにき出しながら、目を見開いている。俺は学校のしきぞいに歩いて確認する。不可視の壁は歩いたはん内ではれることなく続いていた。

 まるで、俺たちを学校に閉じこめるように。

「ここからは出られないらしい」

 風がそよともいていない。大気すら動きを止めたようだ。

「裏門へ回ってみるか」

「それより、どこかとれんらくが取れない? 電話でもあればいいんだけど、けいたいは持ってないし」

 ここが古泉が説明したとおりの閉鎖空間なら電話があってもだろうが、俺たちはいったん校舎へ入ることにした。職員室に行けば電話くらいあるだろう。

 電気のついていない、暗い校舎というのはなかなかに不気味なものだ。俺たちは土足のままばこの列を通り抜け、無音の校舎を歩く。ちゆう、一階の教室のスイッチを入れてやるとまたたきながらけいこうとうがついた。味も素っ気もない人工の光だが、それだけでも俺とハルヒは、ほっとした顔を見合わせた。

 俺たちはまず宿直室へと向かい、誰もいないことを確認してから職員室へ、当然かぎがかかっていたのでしようせんとびらから消火器を取り出してその底を窓ガラスに叩きつけ、窓から部屋にしんにゆうした。

「……通じてないみたい」

 ハルヒが差し出す受話器を耳に押し当てる。何の音もしない。試しにダイヤルボタンを押してみたが反応なし。

 職員室を後にした俺たちは、教室の電気を次々点灯させながら上を目差した。我らが一年五組の教室は最上階にある。そこから下界をのぞけば、周囲がどうなってんのか解るかもしれない、とハルヒは言った。

 校舎を歩いている間、ハルヒは俺のブレザーのすそをつまんでいた。たよりにしてくれるなよ、俺には何の力もないんだからな。それにこわいならいっそうでにすがりついてくれよ。そっちのほうが気分が出る。

「バカ」

 ハルヒは上目づかいで俺にきつい視線を送ったものの、指を離そうとはしなかった。

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