第六章⑥

 周辺地域に住む人間が、街に出る、と言えばたいていこの辺りのことを差す。私鉄やJRのターミナルがごちゃごちゃと連なり、デパートや複合建築物が建ち並ぶ日本有数の地方都市。夕日がせわしなく道行く人々を明るくさいしきするスクランブル交差点。どこからいたのかと思うほどの人間が青信号と同時に動き出した。その長い横断歩道のきわで車を降りた俺たち二人は、たちまちのうちに雑踏にまぎれた。

「ここまでお連れして言うのも何ですが」

 ゆっくりと横断歩道をわたりつつ、古泉は前を見たまま、

「今ならまだ引き返せますよ」

「いまさらだな」

 すぐ横を歩く古泉の手が俺の手をにぎった。何のマネだ、気持ち悪い。

「すみませんが、しばし目をじていただけませんか。すぐすみます。ほんの数秒で」

 かたがぶつかりそうになった会社員風のスーツ姿を身体からだをよじってける。青信号がてんめつを始める。

 いいだろう。俺はなおに目をつむった。大量のくつおと、車のエンジン音、一時もえることのない人声、けんそう

 古泉に手を引かれて、一歩、二歩、三歩。ストップ。

「もうけっこうです」

 俺は目を開いた。


 世界が灰色に染まっていた。


 暗い。思わず空を見上げる。あれほどばゆだいだいいろを放っていた太陽はどこにもなく、空はあんかいしよくの雲に閉ざされている。雲なのだろうか? どこにも切れ目のない平面的な空間がどこまでも広がり、周囲をかげおおっている。太陽がない代わりに灰色の空はうすボンヤリとしたりんこうを放って世界を暗黒から救っている。

 だれもいない。

 交差点の真ん中に立ちつくす俺と古泉以外、横断歩道をくすまでだった人の群れは、存在の名残なごりもなく消えせていた。うすやみの中で、信号機だけがむなしく点滅し、今、赤になった。車道側の信号が青に変わる。しかし走り出す車も一台もなかった。地球の自転すら止まったのではないかと思うまでのせいじやく

「次元断層のすき、我々の世界とはかくぜつされた、へい空間です」

 古泉の声が静まりかえった大気の中でやけによくひびいた。

「ちょうどこの横断歩道の真ん中が、この閉鎖空間の《かべ》でしてね。ほら、このように」

 ばした古泉の手がていこうを受けたように止まった。俺も真似まねしてみる。冷たい寒天のようなざわり。だんりよくのある見えない壁はわずかに俺の手を受け入れたが、十センチも進まないうちにビクともしなくなった。

「半径はおよそ五キロメートル。通常、物理的な手段では出入り出来ません。僕の持つ力の一つが、この空間にしんにゆうすることですよ」

 タケノコのように地面から生えているビルの数々には明かり一つともっていない。商店街に並ぶ店にも。人工的な光を放っているのは信号と、弱々しくかがやく街灯だけだ。

「ここはどこだ」

 むしろ、何だ、と言うべきだろうか。

 歩きながら説明しましょう、と古泉はどうということもなさそうに、

しようさいは不明ですが、我々の住む世界とは少しだけズレたところにあるちがう世界……とでも言いましょうか。先ほどの場所から次元断層が発生し、我々はその隙間に入り込んだ状態になっています。今この時でも、外部は何ら変わらない日常が広がっていますよ。常人がここに迷い込むことは……まあめつにありません」

 道路を渡り切り、古泉は目的地が決まっているのか、確かな足取りで歩を進める。

「地上に発生したドーム状の空間を想像して下さい。おわんせたようなと言いますか。ここはその内部ですよ」

 雑居ビルの中に入る。人の気配どころかホコリ一つ落ちていない。

「閉鎖空間はまったくのランダムに発生します。一日おきに現れることもあれば、何ヶ月もおとなしのこともある。ただ一つ明らかなのは、」

 階段を登る。ひどく暗い。前を歩く古泉の姿がわずかでも見えていなければ足を取られるところだ。

「涼宮さんの精神が不安定になると、この空間が生まれるってことです」

 四階建ての雑居ビルの屋上に出る。

「閉鎖空間の現出を僕は探知することが出来ます。僕の仲間も。なぜそれを知ってしまうのかは僕らにもなぞです。なぜだか出る場所と時間がわかってしまう。同時にここへの入り方もね。言葉では説明出来ません、この感覚は」

 屋上の手すりにもたれて空を見上げる。そよとも風がいていない。

「こんなものを見せるために、わざわざ連れてきたのか? 誰もいないだけじゃないか」

「いえ、かくしんはこれからですよ。もう間もなく始まります」

 もったいぶるな。しかし古泉は俺のぶつちようづらに気付かないふりをして、

「僕の能力は閉鎖空間を探知して、ここに入るだけではありません。言うなれば、僕には涼宮さんの理性を反映した能力があたえられているのです。この世界が涼宮さんの精神に生まれたニキビだとしたら、僕はニキビりよう薬なんですよ」

「お前のは解りにくい」

「よく言われます。しかしあなたもたいしたものだ。このじようきようを見て、ほとんどおどろいていませんね」

 俺は消えた朝倉とゴージャスな朝比奈さんを思い出した。すでに色々あったからな。

 不意に古泉は顔を上げた。相対した俺の頭の向こう側に、遠くにしようてんを合わせた目を向ける。

「始まったようです。後ろを見て下さい」

 見た。


 遠くの高層ビルのすきから、青く光るきよじんの姿が見えた。

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