第五章⑤

 ほうけているヒマはなかった。後ろ手に隠されていた朝倉の右手がいつせん、さっきまで俺の首があった空間をにぶい金属光がいだ。

 ねこひざいて背中をでているような笑顔で、朝倉は右手のナイフを振りかざした。軍隊に採用されてそうなおそろしげなナイフだ。

 俺が最初のいちげきをかわせたのはほとんどぎようこうだ。そのしように俺は無様にしりもちをついて、しかもアホづらで朝倉の姿を見上げている。マウントポジションを取られたらげようがない。あわててバッタみたいにびすさる。

 なぜか朝倉は追ってこない。

 ……いや、待て。このじようきようは何だ? なんで俺が朝倉にナイフをきつけられねばならんのか。待て待て、朝倉は何と言った? 俺を殺す? ホワイ、なぜ?

じようだんはやめろ」

 こういうときにはじようとうしか言えない。

「マジ危ないって! それが本物じゃなかったとしてもビビるって。だから、よせ!」

 もうまったくワケが解らない。解るやつがいたらここに来い。そして俺に説明しろ。

「冗談だと思う?」

 朝倉はあくまで晴れやかに問いかける。それを見ているとまるで本気には見えない。笑顔でナイフを向けてくる女子高生がいたら、それはとてもこわいと思う。と言うか、確かに今俺はめっちゃ怖い。

「ふーん」

 朝倉はナイフの背でかたたたいた。

「死ぬのっていや? 殺されたくない? わたしには有機生命体の死のがいねんがよく理解出来ないけど」

 俺はそろそろと立ち上がる。冗談、シャレだよな、これ。本気だったらシャレですまされんが。だいたい信じられるわけがないだろ。別にどろぬま化したあげくこっぴどく振った女でもなくクラスでもロクにしやべりゃしないな委員長にものりつけられるなんて、本気の出来事だと思えるわけがない。

 だが、もしあのナイフが本物だったなら、とっさにけなければ俺はいまごろ血だまりの中にしずんでいたにちがいないだろう。

「意味がわからないし、笑えない。いいからその危ないのをどこかに置いてくれ」

「うん、それ無理」

 じやそのもので朝倉は教室で女子同士かたまっているときと同じ顔で微笑ほほえんだ。

「だって、あたしは本当にあなたに死んで欲しいのだもの」

 ナイフをこしだめに構えた姿勢で突っ込んで来た。速い! が、今度は俺にもゆうがあった。朝倉が動く前にだつのごとく走り出し、教室から逃げだそう──として、俺はかべげきとつした。

 ?????

 ドアがない。窓もない。ろう側に面した教室の壁は、まったくのり壁さながらにネズミ色一色で染まっていた。

 ありえない。

なの」

 背後から近づいてくる声。

「この空間は、あたしの情報せいぎよ下にある。だつしゆつふうした。簡単なこと。このわくせいの建造物なんて、ちょっと分子の結合情報をいじってやればすぐに改変出来る。今のこの教室は密室。出ることも入ることも出来ない」

 り返る。夕日すら消えている。校庭側の窓もすべてコンクリートの壁に置きわっていた。知らないうちに点灯していたけいこうとうが寒々しく並んだ机の表面を照らしている。

 うそだろ?

 うすかげゆかに落としながら朝倉がゆっくりと歩いてくる。

「ねえ、あきらめてよ。結果はどうせ同じことになるんだしさあ」

「……何者なんだ、お前は」

 何回見ても壁は壁でしかない。立て付けの悪かった引き戸もりガラスの窓も何もない。それとも、どうかしちまったのは俺の頭のほうなのか。

 俺はじりじりと机の間をぬって朝倉から少しでもはなれようとする。しかし朝倉は一直線に俺に向かってきた。机が勝手に動いて朝倉の進路をぼうがいしないようにしているのに比べて、俺の下がる先には必ず机が一団になっている。

 おっかけっこは長くは続かず、俺はたちまちのうちに教室のはしに追いやられた。

 こうなったら。

 を持ち上げて思い切り投げつけてやった。椅子は朝倉の手前で方向てんかんすると横に飛んで、落ちた。そんなアホな。

「無駄。言ったでしょう。今のこの教室はすべてあたしの意のままに動くって」

 待て待て待て待て。

 何だこれは。何なんだこれは。冗談でもシャレでも俺か朝倉の頭が変になったわけでもないとしたら、いったいこれは何だ。

 あなたを殺して涼宮ハルヒの出方を見る。

 またハルヒか。人気者だな、ハルヒ。

「最初からこうしておけばよかった」

 その言葉で俺は身体からだを動かせなくなっているのを知る。アリかよ! 反則だ。

 足が床から生える木にでもなったみたいにどうだにしない。手もパラフィンで固められたみたいに上がらない。それどころか指一本動かせない。下を向いた状態で固定された俺の視線に朝倉のうわきが入ってきた。

「あなたが死ねば、必ず涼宮ハルヒは何らかのアクションを起こす。多分、大きな情報ばくはつが観測出来るはず。またとない機会だわ」

 知らねえよ。

「じゃあ死んで」

 朝倉がナイフを構える気配。どこをねらってるんだろう。けいどうみやくか、心臓か。解っていれば少しは心構えも出来るんだが。せめて目を閉じ……れない。なんつうこっちゃ。

 空気が動いた。ナイフが俺に降ってくる。

 その時。

 てんじようをぶち破るような音とともにれきの山が降ってきた。コンクリートの破片が俺の頭にぶつかって痛えなこのろう! 降り注ぐ白い石の雨が俺の身体を粉まみれにして、このぶんじゃ朝倉も粉だらけだろう、しかし確認しようにも身体がピクリとも……あれ、動く。

 顔を上げた俺は見た。何を?

 俺の首筋に今にもれようとしているナイフの切っ先とナイフのさかにぎっておどろきの表情で静止する朝倉とナイフので握りしめている──素手でだぜ──長門有希のがらな姿だった。

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