[箱]

おるか。

[箱]

 これは、箱である。

 種類のわからない木の板がつなぎ合わされ一辺の壁に穴が三つ空いた、山羊一匹が入れるくらいの大きさの箱である。

 この箱は室内にある。

 この『室内』がどんな場所なのかは謎である。ただこの箱のある場所が、恐ろしい程暗くて風の音さえしない程静かな事しか、少年にはわからないのだ。  

 少年は箱の中にいる。

 知らない間に目を覚まし、知らない間に箱の中にいた。

 彼のそれまでの記憶はない。

 自分の知らない間に誰かに取られてしまったのか、はたまた自分で失くしたのかもわからない。きっとこの先もわからないままだろう。

 そのため少年は全く持って無垢であった。

 自分がどこの言語を話すのかもわからないし、自分の顔も見たことがないのでどんな顔なのかもわからない。

 どこで生まれたのかも、どんな両親・兄弟がいたのかも、友達がいたのかも、どんな生活をしていたのかも、どんな人間がどんなことをするのかも、彼はわからない。

 最も、彼は別のことを考えているのでそれらについて考えようとすることもないだろう。

 少年は考え事をしている。

 自分がいるこの場所の外のことである。

 ここの外には何があるのだろう。何がいるのだろう。きっと、素敵なんだろうな。

 少年は目覚めて以降、特に出ようと暴れもせずこう考え続けている。

 元から想像するのが好きだったのかもしれないが、単に目覚めてから何も口にしていないことによる空腹を忘れるためのものかもしれない。

 一通り考え事が済むと、少年は眠る。

 考えたことを繰り返し繰り返し反芻しながら何度も眠りにつく。

 次目覚めるときに、なにか素敵なことがありますようにと願って。

 あくび一つすることもなく、静かに眠りにつく。





 ―ガッ、バタン!

 少年は大きな音と、それと同時に横倒しにされる感覚に目を覚ました。

 それまで目を覚ますときは変わらず真っ暗な場所ですぐにははっきりしない意識でまた考えたり二度寝したりするのだが、いつもと全く違う目覚めに少年の意識はすぐに覚醒した。

 そこは隙間だった。大きな壁と大きな壁の隙間の細い道だった。

 少年は体を起こし、真っ暗でも静かでもない場所に目を白黒させた。そして初めて見る、もしくは聞く全てに目を輝かせた。

 しばらくして彼は後ろを振り返った。先程の衝撃は、きっと誰かが自分のいる場所になにかしたから起こったのだと考えたからだ。

 しかし、そこには誰も居なかった。自分のいた場所、改め入っていたものが転がっているだけだった。

 少年は自分の格好を見た。彼は白い襟付きのシャツに深い緑で膝丈のズボン。それと同色のサスペンダーに、足には少し汚れた革のブーツがはまっていた。

 少年は流石にそれらが何だか知らなかったが、自分が素敵なものを身に着けていたことに驚いた。

 のまわりを見てみる。それは、少年が思っていたより小さくて、叩くと丸い音がした。そして角は、所々ぼろぼろになっていた。

 ふと、それの横に空を写しているものがあることに気づく。

 少年がそれを覗くと、そこには少年の顔が写った。

 ぼさぼさとしながらも艶のある明るい茶色の髪に、緑の混じった青色の瞳だった。

 少年はそれを見て先程よりも驚いた。

 少年は隙間から出ることにした。光が射す方向から聞こえてくるものにすごくワクワクしたのだ。

 隙間から出ると、そこは小さな町だった。

 街とは言えど、道が荒れた埃っぽい、活気がなくて人も道端に座る失業者のみの、貧相な街である。それでも少年にはまるで夢の国のように思えた。

 少年は通りを歩いた。特に何をするでもなく、ゆっくり街を見て歩いた。

 その際足元に座っていたホームレスの何人かが少年を見て、街の景気に合わぬ服装と雰囲気に怪訝な顔をした。

 そして、少年は見てしまった。道の端においてある茶色く焦げ目の付いた物、それはパンだった。

 それまで忘れていた空腹が一気に押し寄せる。抑えることなどできなかった。あの中に居た間、ずっと何も口にしていなかったのだから。

 少年は口から少々涎を垂らし、パンに手を伸ばした。

 しかしそれは、頰に走った衝撃によって阻まれた。

 男だった。少年よりずっと年上でずっとぼろぼろの服を着た、大きな男だった。

 男は少年の頰を思いっきり殴った。そして地面に倒れた少年に大声で怒鳴った。

「これは俺のパンだ!誰にもやらん!立ち去れ!」

 少年は来た方向を真っ直ぐに走り出した。

 痛みと恐怖で空腹など忘れて、街の建物が終わっても、ずっと走り続けた。

 木を叩く音と全く違う重い音と激痛が、ずっと頭に残っていた。





 少年が足を止めたのは、街の建物が見えなくなってからしばらくした、小さな丘の上だった。

 殴られた頰の痛みは治まったが、凄まじい恐怖と、長く走ったことによる足の痛みと息切れは簡単には治まらなかった。

 彼は地面に倒れた。疲れ果てて、もう目も開けていられなかった。

 空はもうほとんど濃い青色になっている。次第に少年を眠気が襲った。

「……!」

 少年は目を開いた。

 何処かから、楽しげな音楽が聞こえてくる。

 ゆっくりと身体を起こす。

 音のする先には、明るく賑わう先程の街とは全く別の街があった。

 少年は再び立ち上がった。そしてその街までゆっくりと歩き出した。


 やっとの思いで街の入口までやってきた少年は、光を失っていた目を再び輝かせた。

 街は人で溢れていた。どこを見てもみんな笑顔で、楽しそうに踊ったり、何か光るものを吹いている。

 少年も人混みに混ざった。誰も少年を追い出そうとせず、笑って迎えてくれた。

 少年は涙を流した。こんなに楽しかったことは、今までなかった。

 不意に肩を掴まれて、少年は足を止めた。

 その方向には、華やかな格好の女性が居た。

 足首丈のオレンジのドレスに花や羽の付いた大きなつばの帽子を被った、赤いリップの女性である。

 少年は緊張した。またあの男のように恐ろしい事をされるのかもと思ったのだ。

 しかし女性はその反対に、少年にこう声をかけた。

「いやだ、あなたどうしたの?そのほっぺ」

 女性は少年に目線を合わせて続けた。

「痛そう……あなたご両親は?」

 意外なことに、少年はこの女性の言葉を理解できた。しかし『ご両親』という知らない言葉と思いがけぬ彼女の対応に、少年は固まった。

「もしかして一人なのかな……僕、お話できる?」

 理解はできても話せるかは別である。少年は大きく首を横に振った。

「どうしよう……とりあえず、私と来てくれる?」

 女性は少年に手を差し出した。戸惑ったままの少年は抵抗することもなく、女性の手を取った。

 女性はそのまま少年を建物の中に連れて行った。

 中には沢山の人が居て、色んなものを食べたり飲んだりしていた。

 少年はその様子を見て、先程の空腹を思い出した。そのせいで思いっきりお腹を鳴らしてしまった。

「ふふふ、ここで座って待ってて」

 女性は少年をカウンターの高い椅子に座らせ、奥の部屋に消えていった。

 彼女が戻ってくるまでの間、カウンターに居た二つの丸を顔に掛けた男性にじっと見つめられ、彼はまた少し緊張した。

「はい、どうぞ」

 女性は戻ってくるなり少年の前にパンとクリームのスープ、そしてリンゴが乗ったトレーを置いた。

 少年は驚いて女性を見る。彼女は優しく微笑んでいた。

 少年は凄まじい勢いでそれらを食べた。その健啖ぶりにこれでは足りないと思った女性は、もう一つパンをくれた。

 全て食べ終え一息ついたとき、少年は気付いた。自分はすごく失礼なことをしていないかと。

 食べ終えて以降わたわたと慌てだした少年に、女性と男性は驚いた。

「この子、どうしたんだろう?」

「……知らない人なのにご飯をもらっちゃって、申し訳ないことしたかも、って思ってるんじゃない?エマちゃん、何も言わず連れてきたんでしょう」

「なるほど!さすがジャック!」

 男性と話を終えた女性は少年のいる側にまわり、先程と同じように目線を合わせた。

「初めまして。急に連れてきちゃってごめんなさいね。ご飯は足りた?」

 彼女の問いかけに少年は首を縦に振って答えた。

「よかった。私はエマっていうの。それと彼はジャック。私の旦那さん」

 エマと言った彼女は緑色の瞳で、金髪を帽子を被るためなのか控えめに団子にした爽やかな女性だった。そして彼女に紹介されたジャックは焦げ茶の髪を後ろに流し、少年と同じ青い目を丸二つに囲われている、優しく賢そうな人だった。

「君、名前は?お母さんかお父さんはいないの?」

 少年は名前を覚えていないし、そもそもそれらの単語の意味も知らないので、首を傾げることしかできなかった。

「ご両親は居なくて名前がない、お話もできない…か……」

「一旦、顔の手当しようか」

「あ」

 ごめん忘れてた、と言ってエマはまた奥の部屋に消えた。それからすぐ自分が入っていたものより一回り二回り、いや半分程小さな箱をもって戻ってきた。

「ごめんね、ちょっと染みるよ」

 その箱の中から取り出した瓶の中身を垂らしたふわふわで頬に触れられる。途端に走ったヒリヒリとした痛みに、思わず顔をしかめた。それからすぐ、白い布とぺたぺたした細い紙で、そこを覆われた。

「よし、よく我慢できました」

 エマはポケットから宝石のようにきらきらしたなにかを少年に差し出した。べっこう飴だった。口に含むと、優しくて甘い味がした。

「さて、どうやってコミュニケーションを取ろうか」

「君、文字は書けるかい?」

 文字、と言われて少年はまたも頭に?を浮かべた。

「これ、ここにいっぱい書いてあるの」

 エマは料理の名が沢山書かれた紙を差し出した。少年はゆっくりではあるが、その内容を理解できた。二人に向かって頷いて見せる。

「なら、問題は解決しそうだな」

「ほんと流石だよジャック。私一人じゃ何も分からなかったわ……」

「君じゃなけりゃこの子を連れてこられなかっただろう。僕にはできないことだよ」

「絶対そんなことないのに……はい僕、これを使って」

 会話の内容は、少年にはうまく理解できなかった。

 少年は、眼の前に差し出された紙と先の黒くなった羽にほんの少し違和感を感じたが、羽を手にとって紙にこう書いた。

『たすけていただいてありがとうございました。』

「あら、礼儀正しい」

「気にしなくていいよ。さっきも聞いたが、君、一人なのかい?」

『ひとりです。なまえとりょうしんもありません。おききしたいのですが、それはなんですか?』

 少年はその年ごろに見合わぬ言葉でこう書き記した。その問いかけに夫婦は目を見合わせた。

「ジャック……」

「……名前は、エマとか、ジャックとか、その人を表す言葉で、両親は、僕らを産んで育てた人、でいいのかな。理解できたかい?」

『なんとなくですが。ありがとうございます。』

「いや、いいんだが……」

『もうひとつおききしてもいいですか?』

「なあに?」

『どうしてみんな、おどっているのですか?』

 少年はずっと気になっていたのだ。この華やかな大騒ぎの理由を。

「ああ、今日は秋祭りなのよ。一年に一度、リンゴ……さっき出した赤い食べ物が沢山採れたことをお祝いするお祭りなの。僕は……呼びづらいわね……」

 少年は思った。説明は丸の彼よりも彼女のほうが得意としていると。そう思考している間にも、エマはまた話しだした。

「あなたに名前をつけてもいい?」

 まるで母のような、優しい表情で言った。少年にはその深層も、の意味もわからなかったが、恩人の申し出ならと首を縦に振った。

「本当に?ありがとう。どうしようかな……」

 その様子をジャックは優しい目で見ていた。

「……よし、フォールにしよう!」

「いい名前じゃないか」

『どうやってかきますか?』

「えっとねぇ…こうよ」

 エマは紙の空いたところに小さく『fall』と書いた。しなやかに美しい字だ。少年の、フォールの心が少し暖かくなった気がした。

「秋のお祭りの日に出会えたから、そこから取ったの。どう?気に入ってくれた?」

『はい。ありがとうございます。』

「よかったぁ!」

「……君、これからどうするんだい?」

 不意にジャックが問いかけた。フォールは考え、また羽を持った。

『わかりません』

「何か、やりたいこととか、ないの?」

『それはなんですか?』

「え、ぇっと……」

「僕らは店をやっているんだ。やりたいことの一つとして」

「あぁ、そうね!私がどうしてもやりたくて、それが夢だったから今ジャックとこうしてごはん屋さんをしているの」

 フォールはなんとなく理解したが、ある言葉が引っかかった。

『ゆめとはなんですか?』

「夢は、何よりもずっとやりたいことの事よ。子供の時からずっと誰しももっているもの」

「君の夢は?」

『ぼくは』と書いて手が止まったが、何故かすんなり答えが湧いてきて、再び書き始めた。

『ぼくはゆめをみつけたいです』

「いいじゃない!きっとみつかるわ!」

「僕もそう思うが、状況は変わらないな」

「あ、そうだったぁ……」

 二人が考え込んでしまったのでフォールはまた慌てた。

 するとそこに男性が話しかけてきた。青いオーバーオールに麦わら帽のにこやかな男性だ。

「エマちゃん、ジャック君、久しぶり」

「エイムズさん!お久しぶり、今年もリンゴありがとう!」

「いいんだよ。うちのを一番美味しく料理してくれるのはエマちゃんのお店だけだからね。ジャック君、俺を覚えているかい?」

「はい、もちろん」

「そうか。良かったな。…おや、この子は?」

 そうして彼はフォールを見た。彼自身かなり警戒して男性を見ていたので、見つかった瞬間体をこわばらせることになった。

「さっき通りに一人で居たのを保護したんです。家族も居なくて話せなくて。でも文字の読み書きはできるみたいだからお話してたんです。私が名前もつけちゃって。今はフォールっていうんです」

「へえ、かわいいじゃないか。よろしくな、ロビン・エイムズだ」

 エイムズと呼ばれる男性は、フォールに手を差し出した。少年も習って差し出すと、ロビンは手を取って握手をした。

「さっきリンゴもあげたのよ。ね?」

「そうだったのかい。どうだ、美味しかったろううちのリンゴは」

『おいしかったです。ありがとうございます。』

「そうかい。そりゃ良かった」

「……そうだ!エイムズさん、フォールの手助けをお願いできない?」

「手助け?この子のかい?」

「どうするっていうの?エマ」

「大丈夫よ。この子、今自分の夢を探してて、もちろんここにいるのもいいけど、リンゴ農園なら子供もいっぱいいるし、刺激になるかなーと思ったんだけど。どうかしら」

 フォールは動揺した。人とはあってすぐの子供を連れて行ってくれるほど優しいのだろうか。脳裏をまたあの男がよぎる。

 少年が冷や汗をかく様な思いをする中、エイムズは優しく微笑んでみせた。

「そうゆうことなら、喜んで受けさせてもらうよ」

「本当に!?よかったぁ……」

「何だい良かったって」

「たとえエイムズさんでも駄目かと思って……」

「こら、失礼だろう。すみません」

「いいんだよ。ただ、彼が良いと言うかはわからないからね」

 と言って、エイムズはフォールに向き直った。

「一緒にくるかい?」

 エマの考えや、エイムズの気持ちを思えば、答えはすぐに出た。

『よろしくおねがいします』

 そう書いた部分を、彼は優しげな男性に差し出した。

「よし、なら決まりだな」

「ありがとうエイムズさん。この子をよろしくね」

「なんだかお母さんみたいだな」

「ふふふ」

 心が落ち着く雰囲気に、彼も自然と笑っていた。


 街で買い物を済ませてくると言ったエイムズの指示通り、フォールは馬車の荷台の中に座っていた。

 すぐ近くには馬車を見張るためジャックが立っている。エマは客に料理の注文を受けたため店の中に戻った。

 しばらく彼らは無言だったが、不意にジャックが口を開いた。

「君は大切なものを忘れるんじゃないよ。絶対にね」

 何のことを言っているのか分からず、フォールは意味を聞こうと紙と羽を探した。しかしその前にジャックはその場に座り込み、同時に用事を済ませたエマが店から現れた。

「ねえ台所に忘れたの誰ですか…ジャック!」

 エマは彼を助け起こした。

「ジャック?」

「……貴方は……」

「ぁ……、大丈夫よ。大丈夫だから」

 そう言って彼の頭を抱き寄せ、優しく撫で始めた。

 フォールには何が起こったのか全く分からなかった。しかし、彼らに何があったのかを聞く気にもなれなかった。

 程なくしてエイムズが戻ってくる。彼は二人の様子を見て何かを理解したようだった。

「……それじゃあ、もう行くからな。また春になったら顔を出すよ」

「ええ、楽しみにしてるわ」

「出発するぞ坊主」

「……元気でねフォール」

 馬車が動き出す。

 エマはそのままの体制でフォールたちに手を振り続けていたが、ジャックが顔を上げることはなかった。

 フォールはしばらく考えていたが、馬車の揺れと疲れに耐えられず、そのまま眠ってしまった。

 彼は知らないのだ。

 結婚した二人が揃いのアクセサリーをつける風習も、エマの指には常に嵌りジャックの指からは何度も外れてしまう銀色の指輪のことも。

 全部、知らないのだ。






「フォール、起きろ。もうじきだぞ」

 エイムズの声で目が覚めた。それは昨日よりも明るい声だった。

「見ろ。あれがリンゴ農園だ」

 エイムズの広い背中から前を覗くとそこには広大な草原が広がっていて、大きな家がいくつも建てられている。空はとても青かった。

「あの一番端のが俺の家だ。今日からうちで暮らすと良い」

 フォールは小さく頷いた。

 それからまた少しして、とうとう家に到着した。

 エイムズに促され荷台を降りると、そこにはたくさんの子供達が居た。

「パパー!おかえり!」

「おうノア!ただいま」

 一人の男の子がエイムズに駆け寄り、彼はそのまま男の子を抱き上げた。

「ノアのパパ、この子誰ー?」

「ああこの子はな…」

「リンゴ!」

 唐突に現れた子どもたちに若干引いていた彼は、ノアと呼ばれた男の子に突然指をさされた。彼はエイムズの腕から飛び降りる。

「…?」

「リンゴだ!」

「どうゆうことだノア、彼を知っているのか?」

「リンゴ、リンゴだよ!」

「リンゴ!」

「リンゴ!!」

「リンゴ…?」

 子どもたちは口々にそういった。

「この子はリンゴじゃないぞ。この子はな…おい聞いてくれよ……」

「貴方、お帰りなさい」

「ああエリー、ただいま」

 家の方向から女性が現れた。黄色い半袖のドレスにブラウンの長い髪をなびかせた、落ち着いた印象の女性だ。

「この子どうしたの?」

「グレイス夫妻のところから預かってきた。身寄りがないらしくてな。しばらくうちで面倒を……あれどこいった?」

 エイムズが驚くのも無理ないだろう。

 さっきまで眼の前で子どもたちに囲まれていた少年が、忽然と姿を消したのだから。勿論、子どもたちも一緒に。


「こっち!こっちだよ!」

 その頃フォールは走っていた。子どもたちに手を引かれるままに。家がある通りを抜け、とうとう着いた広い空き地で子どもたちの案内は終わった。

「???」

「ここ、公園!みんなでいっつも遊ぶの!」

 空き地には木でできた遊具がいくつかあった。しかし、どれも彼には使い方が分からなかった。

「ぼくノア!」

「あたしマーガレット!」

「おれはトーマス!!」

「わたし、サラ……」

「リンゴ、遊ぼ!!」

 出会って数分の子どもたちにリンゴと呼ばれ遊びに誘われる。この状況にかなり戸惑っていたが、手を引かれてしまえば最後、ものすごくワクワクしていた。存外彼はその場その場に合った行動ができるらしい。


「おお、やっと帰ってきたか」

「ただいまー!」

 たくさん遊んで満足げなノアの横で、少年は膝をついてうなだれた。

 あれから約六時間、子どもたちのエネルギーは尽きることを知らなかった。

 彼らとの遊びは鬼ごっこから始まった。

 公園は思っていたより広く、すばしっこく逃げ回る子どもたちをなかなか捕まえられなかった。

 続いて行われたかくれんぼではノアが鬼役を名乗り出た。

「僕、今まで負けたことないの!」

 と自信満々に言っていたが、制限時間終了後、見つかったメンバーの中に少年はいなかった。

 そこで泣かないのがノアの良いところだ。

「くやしいけど、リンゴすごいね!」

 この子はきっと自分より大人なんだろうなと、少年は一人感心してしまった。

 その後はほとんど同じことを繰り返し、気づけばあんなに青かった空も濃いオレンジ色になっていた。 

 子どもたちはそれぞれの家に帰り、身寄りのない少年はノアに付いて行った。

「あのね、リンゴ、かくれんぼすっごいつよいんだよ!」

「そうなのか。ごめんなフォール、俺たちが目を離した隙に…フォール?」

 エイムズが首を傾げたのは、少年がいくら呼んでも反応を示さなかったからである。

 少年は膝をついたまま動かない。

「フォール?聞こえるかい、フォール?………?」

 少年は顔を上げた。まるで自分の名前を呼ばれたかのように。

 夫妻は顔を見合わせた。そしてもう一度、少年に問いかけた。

「君、名前はどうしたんだい?」

 少年は首を傾げた。

「ここに来る前のこと、覚えていないのかい?」

 少年は固まった。

 全く思い出せなかったのだ。どこから来たのかも、なにをしていたのかも、どうしてここにいるのかも、全部。自分はリンゴといい、自分はここで生まれ子どもたちと毎日遊んでいたと、そうとしか思えなくなっていた。

 動かなくなった少年に、エイムズは優しく声をかけた。

「大丈夫だ、もう考えなくて良い。……ああ、紹介するよ。俺の妻だ」

「初めまして、挨拶が遅れてごめんなさい。エリザベスっていうの。よろしくね」

 エリザベスは少年に寄り添った。その目は我が子を見る目であった。

 少年は助け起こされた。彼に、父に言われた様に何も考えなかった。

 帰ってすぐ、四人は夕食を食べた。

 ふわふわのパンにトマトのスープ、瑞々しいサラダに分厚いステーキ、そして採れたばかりのリンゴを使ったアップルパイが振る舞われた。

「今日はお祝いだ。好きなだけ食べなさい」

「わーい!いただきます!」

 ノアが手を組みそう言ったのを見て、リンゴも同じことをした。

 これらの料理もまたいつかの健啖ぶりで食べ進め、終えたときは初まりと同じ様に手を組んでみせた。

「覚えるのが早いのね」

「きっと頭のいい子なんだろう」

「ママ!おかわり!」

「はいはい」

 リンゴはやはり理解できていなかった。

 夕食の後、リンゴは彼の兄弟と風呂に入った。

 身体の洗い方も知らない自分よりも大きな弟に、ノアは丁寧に教えた。

 眠るときも、彼らは一緒だった。

 元々狭いノアのベッドに彼の二倍くらいもの身長があるリンゴが入ったので、ベッドから落ちないように二人は身を寄せ合って眠った。


 翌朝からの生活は、この日とほとんど同じである。

 朝起きて身支度を済ませると朝ごはんを食べ、ノア含む子どもたちに農園中を連れ回され、夕方頃帰ってきては夕食を食べ風呂に入り眠る。昼食は子どもたちとその親からもらった出荷できない形の悪いリンゴを山ほど食べる。そんな生活を繰り返してはや一週間が過ぎた。

 この日リンゴとノアは二人だった。他の子供達はそれぞれ家で過ごしている。今日はなんだと。

『みんなはいえにいるのに、ぼくらはそとにいていいの?』

 リンゴはノートに書いてノアに見せた。

 このノートは彼がエイムズのところにやってきた翌日にえんぴつと贈られたもので、彼はこれに書くことで周りとコミュニケーションをとった。子どもたちは最近字を覚えたばかりなので、読むのに時間がかかってしまうのだが。

「えー…と、ああ、うん!だいじょうぶだよ!ゆうがたまでにはかえらなきゃいけないけど」

『なんで?』

「きょうがだいじなひだから!」

『だいじなひって、なにをするの?』

「しょうらいのゆめを、パパとママにおしえるの!」

 夢。

 彼は忘れていた。自分がなぜここへ来たのか。夢を見つけるためだ。それを今、思い出した。

 急に出できた寒さのせいだろうか、震える手でこう続けた。

『ノアは、もうゆめをみつけたの?』

「うん!みつけたよ!」

 少し感覚が空いて、また続けた。

『それは、なに?』

「えーまだないしょだよー。パパとママにいちばんにおしえなきゃ!あ、もういかなきゃ、かえろうリンゴ!」

 ノアは座っていたベンチから飛び降りて走り出した。リンゴは、立ち上がることができなかった。

 すごくもやもやする。ざわざわする。彼は感じたことのない感情に侵されていた。

「リンゴー!おいてくよー!」

 ノアが呼んでいる。彼は正体の分からないものを振り切って、兄のもとに走った。

 夜、農園の集会所には小さなステージが建てられた。子どもたちが、それぞれ両親に立派な姿を見せるために。

 会場には彼らの両親だけでなく農園で暮らすすべての人が集まってきた。勿論リンゴもその中にいる。

 ステージ上に子どもたちが現れる。みんなこの日のための華やかな衣装に身を包んでいる。

 初めに前に出たのはマーガレットだった。

「マーガレット・ウィルソンろくさいです!あたしは、けーきやさんになりたいです!」

 勢いよく拍手が起こり、マーガレットは元いたところに下がった。

 次に出てきたのはトーマスだ。いつも通り大きな声で話し出す。

「トーマス・アンダーソンろくさいです!!しょうぼうしになりたいです!!!」

 これもまた大きな拍手が起こった。少し離れたところで彼の父親が息子の名を叫んでいる。

 前の二人と違いゆっくりでてきたのはサラだった。震える声で話し始める。

「さ、サラ・ミラーろ、ろくさいです……お、おいしゃさんに、なりたいで、す」

 同じ様に大きな拍手が起こる。彼女の両親は感動して泣いていた。

 最後に出てきたのはノアだ。リンゴはまた心に黒いなにかが広がるのを感じた。

「ノア・エイムズろくさいです!ぼくは、パパとおなじリンゴのうかさんになります!」

 今までになく大きな拍手が起こった。やはりリンゴ農園にいる子どもが農家になると言うのは、後継という点で喜ばれるのだろう。

 リンゴも喜ばしい気持ちになりたかった。父や母の様に、兄の晴れ舞台を祝いたかった。しかし、無理だった。笑顔になれない、手を叩くことも出来ない。ただただ黒い何かに思考を奪われてしまう。

 彼は、静かにその場を後にした。


 夜。皆が寝静まった時間でも、彼は起きていた。

 隣では家に帰ってきてからというもの両親にこれほどかと言うほど甘やかされたノアが、すうすうと寝息を立てている。

 ひっそりと、彼を起こさないようにベッドを抜け出した。

 

 音を立てないように階段を降り向かったのは、台所だった。

 普段は母が書き物をしていたりするのだが、今日はもう寝ているらしかった。

 窓から月明かりが射して、水回りを照らしている。

 その中でもより月光を反射するもの、彼は包丁を手に取った。

 自分の光を失った瞳がくっきり写るほど研がれた包丁。これを兄の腹に刺したら、一体どうなるのだろうか。

 人間が何かに身を裂かれるさまを、彼は見たことがない。

 何か出てくるんだろうか、どんな感覚なんだろうか、んだろうか。でも、きっとそうでもなく、あっけなく終わるんだろうな。そう、きっと、あっけないはず―


「……?!」


 今、自分はなにを考えた?なにをしようとした?

 自分をあんなに大切にしてくれた兄に、これを?

 ありえない、おかしい、人としてどうかしている。もう、

 ここには居られない。

 彼は持っていたそれをシンクに放り捨てた。そしてその寝間着のまま、一週間ほど過ごした我が家を出た。覚束おぼつかない、弱々しい足取りであった。

 突然姿を消した彼に農園中が大騒ぎになり、居なくなってしまった弟を恋しく思って彼の残した服を兄が手放せなくなったのは、その翌日の朝のことである。




それから一週間、彼は歩き続けた。

 二度とあの場所に帰ることのできないよう、ずっと遠くまで歩いた。

 途中で何度も転び、何度も木やら岩やらにぶつかった。そのせいで寝間着はぼろぼろになり、靴のそこはほとんど剥がれて足裏が地面に触れていた。

 道中何人か人とすれ違ったが、全員その後で彼を振り返って、その脆い様子を訝しんだ。

 少年がとうとう足を止めたのは、海に面した崖の上だった。

 淡く潮の香りのする、穏やかな風の吹く崖だった。

 少年は、もうここで眠りたいと思った。

 どうせ生きていても、またああみたいなことを考えてしまうかもしれない。それだけはもう嫌だ。……でも、って、何だったっけ。そもそも、自分は今何で嫌だと思ったんだっけ。

 彼はまた、わからなくなった。

「……大丈夫?」

 声だった。凛と透った、鈴のような声だった。

 目だけでその方向を見ると、黒く長い髪を潮風に踊らせる、青い瞳の少女が立っていた。首には、瞳と同じ色の宝石がさげられている。

「すごくボロボロ……あなた、誰?」

 問われても書けるものも気力もない。少年はなにも反応しなかった。

「……ちょっと、ごめんね」

 少女は白いワンピースで隠れた膝を折ってしゃがみ、少年の身体を仰向けにした。存外力が強いんだなと、遠い意識で思った。

「別に大きな怪我はしてない……栄養失調なだけ?」

 少女は小さな声で暫くブツブツ喋った後、少年の身体を起こし担いだ。

「私の家なら、薬があるから。安心して」

 少年の意識はそこで途絶えた。


 少年が再び目を覚ましたのはそれから三十分ほど後、小さなベッドの上だった。

 身体を起こす。そこは病室だった。

 壁際に沢山瓶が詰まった棚があり、真ん中に鎮座する白い机にはえんぴつやら紙やらが散乱し、空いた窓から吹く風が潮の香りと一緒に薬品の香りを連れてきた。

「目が覚めた?」

 隣には少女が座っていた。それに気づかなかった少年は飛び上がる勢いで驚いた。少女は気にしていない様子で少年の手首に触れる。

「ぁぇ……」

「脈……正常だね。やっぱり栄養失調と過労が原因かな。おばあちゃん、患者さん起きたー」

 少女は立ち上がり部屋を出た。突然のことに少年の息は若干荒れていた。

 程なくして少女が戻り、その後ろから杖をついたおばあさんが現れた。

 少女と同じ青い目をきりりと吊り上げた、恐ろしい印象のおばあさんだ。

「気分はどうだい?」

 低く不機嫌の滲む声色に、少年は狼に囲まれた子鹿の如く固まった。

「おばあちゃん、怖い。固まっちゃったじゃん」

「そう言われてもこれが普通だ。なに言っても無駄よ」

「ごめん、私のおばあちゃんちょっと偏屈で」

 少女は再びベッド脇の椅子に腰掛けた。

 おばあさんは机に備えられた椅子にゆっくり腰掛ける。

「……名前は?」

 少年は固まった。

「………年は?」

 少年は動けなかった。

「…………親は?」

 少年は、気を失った。

「おばあちゃん!」

「わしはなにもしとらんわい」

「ちょっと、大丈夫?」

 少年の意識はすぐに戻った。少女は再び彼に問うた。

「あなた、話せないの?」

 少年は頷いた。

「お母さんは?それかお父さん」

 少年は首を傾げた。

「……文字、書ける?」

 少年は強く頷いた。

「やっぱおばあちゃんが怖いんだよ」

「そんなの知るかいな」

 少女は鉛筆と紙を持ってきた。

「あなた、名前は?」

『わすれてしまいました』

「ご両親は?」

『それもわかりません。どちらさまですか?』

「あ、私はアリア。アリア・グリーン。あれは私のおばあちゃん。セレナっていうの」

 アリアは簡単に自分たちのことを紹介した。

 ここはセレナが経営する病院で、アリアは助手として働いていること。ここは海辺の大きな村の端にあること。村には沢山の人が住んでいて、学校という子供が行くところに彼女は通っていること。

「友達もいるの。みんないい人」

『そうなんですか。おしえていただきありがとうございます。』

「いいえ。ところであなた、どこからきたの?」

『すみません。なにもおぼえていないので、ほとんどおこたえできません』

「そうなんだ……」

「……なら、うちに居なさい」

 少年の返答に黙ってしまった少女に代わり、セレナが口を開いた。

「おばあちゃん、いいの?」

「記憶がないのにそこら辺にほっぽれる程、わしは悪魔じゃないわ」

「それはちょっとどうだか…」

「あ?」

「よかったね!」

 唐突にそう呼ばれ、少年は戸惑った。

「ごめんね急に。名前無しじゃ可哀想だと思って」

 嫌だった?と問われ少年は首を横に振った。なんとなくしっくりくる名前だった。

「じゃあ決まりだね。よろしくねアダム」

 差し出された少女の手を、アダムは躊躇いなく握った。

 何だか懐かしい気分だった。


 アダムはその日のうちに病院で働き出した。

 働いて、いろんなことを覚えたいと思ったのだ。

 アリアは最初、倒れたばかりなのに動いて大丈夫なのか心配したが、その心配は、昼食をものすごい勢いで食べる彼を見て吹き飛んだようだった。

 働きながら、アダムは発話を教わった。

 初めは全く聞けたものではなかったが、夕方には拙くも話せるようになった。これにはセレナも驚いていた。

 夕食を食べているとき、アリアは唐突にこう言った。

「ねえおばあちゃん、明日の学校、アダムも連れて行って良い?」

「……!?」

「わしは構わないがね、おまえはどう思うんだい」

「あ、お、ぼく、は……」

「きっといい経験になると思うの。話す練習にもなるし、私の友達も優しいから」

 少年は躊躇ったが、彼女の言葉を信じることにした。彼女と会ってから、決断が容易くなったような気がする。

「あ、い、いき、ます。が、こう」

「ほんと?嬉しい」

 彼女に笑いかけられて顔を真っ赤にした彼を、セレナはカラカラと笑い飛ばした。


 翌日の朝、制服というものを着て現れたアリアに、少々見覚えのある服を差し出された。ちなみに彼女の胸元にはペンダントが輝いている。

「はいこれ、流石に病院着で学校へは行かせられないから」

 白い襟付きのシャツに濃い青色のサスペンダー付きの半ズボン。更に青いネクタイを渡された。

「着替えたら戻ってきて。ネクタイはやってあげるから」

 アリアが出ていった後、知らないふわふわした感情に少年はまたも頰を染めるのだった。

 朝食後、いよいよ学校へ出発する時が来た。

 アリアはベレー帽を被り革でできた通学鞄を背負って、ローファーというらしい革靴に足を突っ込んだ。アダムには壊れた靴の代わりに、アリアのものより一回り大きなローファーが渡されていた。彼もそれに足を突っ込む。

「今日はすぐ帰ってくるからね」

「夕飯は」

「私が作るから」

「ん」

「じゃあ、行ってきます」

 そう言ってドアを開けたアリアと目が合う。はっとして、アダムは振り返った。

「い、てきます」

「気をつけるんだよ」

 セレナに返事をしてもらえたのが嬉しかったのか、昨日よりうまく発音できたのがうれしかったのか定かではないが、嬉しそうに家を飛び出してきたアダムにアリアは静かに微笑んだ。

 初めて見る村の景色は、彼の思っていたより大きなものだった。

 広い草原に敷かれた道に沿うように、店や家が立ち並んでいる。アリアが言うには、学校はこの先にあるらしい。暫く二人で歩いていると、二人と同じくらいの年頃の女の子が四人、前から走ってきた。

「おはようアリア!」

「みんなおはよう。紹介するね、この子はアダム。病院の新しい助手なの」

「へえ、よろしくねー」

「よ、ろしくおねがいし、ます」

 四人の少女は彼の歪な話し方に戸惑ったようだが、アリアがすかさず口を開いた。

「昨日まで話せなかったの、この子。記憶もないみたいだから、色々よろしくね」

「なるほどん」

「気をつけるね。私、カミラ・キング。よろしくね」

 カミラは赤みがかった茶色の髪を一つに結んだ、活気のある印象の少女だ。

「シャーロット・ウォーカーです。お見知りおきを」

 シャーロットは雪のように白い髪を肩あたりで揃え緑色の瞳を細める、上品な印象の少女だった。

「ミア・リーベルよ。よろしくねん」

 ミアは言葉遣いが特徴的で、どことなく掴めない、不思議な印象が目立つ子だった。

「エブリン・ミッチェルだよー。よろしくねー」

 エブリンはのんびりした雰囲気の少女で、茶色の瞳を眠そうに細めている。

「あだ、むです。おせわに、なります」

 彼が自己紹介をすると少女たちは目を輝かせて拍手し、何故かアリアは得意な顔をした。

「で、みんなにちょっとお願いなんだけど」

 ぱっと表情を切り替えて、アリアが話しだした。

「なになに?」

「先生を説得するのを手伝ってほしいの」

「先生って、あのチョーキビシいミス・バーバラのこと言ってるのん?」

 ミアが大きな目をパチパチ瞬かせた。

「そう。私がアダムを連れた来たのは、学校で一緒に勉強させてあげたかったからなの。教養がなきゃきっとこの先不便だろうし、何より彼のためになると思うの。協力してくれる?」

 アリアは友達四人に問うた。彼女は少し不安な顔をしているが、少女らの答えはすでに決まっているようだった。

「やだ」

「……え」

 青い瞳は絶句した。

「ちょっと冗談よ。勿論、協力するわ」

「私達、友達ですもの」

「え、ああ、なんだもう……」

「もう、いっつも本気にしちゃうんだから」

「五人がいれば、なんとかなるはずなのねん」

「がんばろー」

「「おー!」」

 少女たちは拳を突き上げた。先の戦いの勝利を願って。

 五人と、最早蚊帳の外であった一人は、目的地への道のりを急いだ。


「駄目に決まっています」

 朝のホームルームの後、少女五人は担任であるミス・バーバラへの交渉に見事敗北した。当事者であるアダムは、門の外に立たされたままである。

「どうしてですか!アダムには学校での経験が必要なんです。先生も記憶喪失の子供を放ってくことなどできないでしょう?」

 口をつぐんでしまったアリアの代わりにカミラが訴えた。

「ここは女学園です。女の園である我が学園に、何故男児が入れると思うのですか」

「うっ……」

「盲点なのねん」

「ミア…!」

「ぬ?」

「とにかく、その男児を我が学園に招くことはできません。いいですね」

「そんな!」

「それに仮に私が許可しても、男児分の学費は誰が支払うのですか」

「それは……」

「私はこれで」

「あ、先生!」

 生徒たちが訴えたにも関わらず、教師が振り返ることはなかった。

「……そうだった。ここ、女学園だった」

「なんでわすれてたんだろー……」

「少し、張り切りすぎたのでしょうか……」

「アリア……」

「……アダムに伝えてくるね」

「待って……!」

 アリアは友人を残して廊下を走った。


「アダム」

 彼は門の左側の柱の下に腰掛けていた。呼びかけるとすぐに応えた。

「どう、でした?」

「……ごめん駄目だった」

「…そうでした、か」

 沈黙した二人の間を冷たい風が通り抜けた。冬という時期が近づくと吹く風らしい。

「私、毎日学校で習ったこと、全部貴方に教える!そのためにもっと集中する!」

「ありあ?」

「だから、あの……」

 アダムは静かに彼女に近寄った。

「おこってな、んかいないので、なかないでください」

 アリアは泣いていた。先生を説得できなかったのが相当悔しかったのだろうなと思った。

 それからすぐ、他の四人も外に出てきた。

「アリアさん!」

「み゛んなぁ……」

「うぇ、めちゃ泣いてるん」

「「ミア!」」

「ぬぅ!?」 

「みんなの力も無駄にしちゃったぁ……ッホントにごめんなさぁぁーー」

「わぁぁぁぁぁやばいやばいどうしよう!」

「ミア!なんか踊って!」

「ぬぅえ?!?!」

 そうしてしばらくアリアは泣いていたが、やがて鼻だけを啜るようになり、授業の時間も近づいてきた。

「ごめんね、アダム。ぐす、みんなも」

「いーいーのー!気にしない。あれは相手が悪かった」

 エブリンが背中をポンと叩く。

「でも……」

「私達もまた手伝うよ。一人で全部抱え込まないで?」

「……うん」

 こうして事は毎日放課後に五人でアダムに勉強を教えるということで治まった。

「じゃあ、アダムはそれまでお家のお手伝いってことになっちゃうけど、大丈夫?」

「だいじょうぶです」

「ありがとう。アダムもごめんね。先生説得できなくて」

「いえ、おてすうをおかけしました」

「本当に私達と同い年なのかなん」

「案外私達より賢いのかもね」

 アダムは少女たち五人が建物の中へ戻っていくのを静かに見守っていた。しかし、不意にカミラとシャーロットに背中を支えられていたアリアが振り返って

「アダム、また家でね!」

 と言ったので、笑顔で手を振って見送った。


 それから、彼と彼女らの新しい生活が始まった。

 朝六時頃に自然と目を覚まして身支度をし、アリアが朝食を作っている間に建物中のカーテンを開けそのついでにセレナを起こす。彼女が洗面所に向かったのを見届けてから未だ朝食を作っているアリアの代わりに彼女の通学鞄の中身に不備がないかを確認し、時間が余れば教えてもらった内容を復習する。朝食ができたら三人で食べ、学校へ行くアリアを途中まで送る。四人と合流したところで彼は帰宅しセレナに言われるまま雑用をこなし、患者の応対をする。五人がやって来たらセレナの手伝いを中断し、彼女らによる授業に取り組む。すべてを終えると四人はそれぞれ帰路につき、彼は教わった内容をもう一度復習する。もし分からないところがあっても、後ろでアリアが夕食を作っているのでいつでも聞ける状態である。夕食ができたところでセレナも事務作業を切り上げまた三人で食卓を囲む。その後はセレナ、アリア、アダムの順でシャワーを浴び、それぞれ眠りにつく。

 この生活は彼にとってとても楽しいものだった。

 初めは全く理解できなかった勉強も、少しやっているうちにすぐマスターした。

 セレナの手伝いで患者へ対応していると何故か仲良く慣れることが増え、街にお使いを頼まれたときにすれ違うと挨拶してくれたり、魚屋は特別に品物を割引してくれた。

 この生活が、いつまでも続けば良いと思った。

 ある日、雨が振っていた日、アリアは一人で帰宅した。

「お帰り。今日みんなは?」

「雨が酷くなるだろうからって、学校で寄り道を禁止されたの。酷い嵐が来るって」

「そっか。なら仕方ないね」

「安心してアダム。勉強を教えるなら私一人でも大丈夫だから!」

「そこは別に心配してないよ……」

 それからすぐ、いつも通り勉強会を始めた。アダムは今までの総復習、アリアは定期テストが近いので課題をしている。

 しかし一時間もしないうちに、アリアはペンを置いてしまった。

「疲れてる?」

「うーん、ちょっとだけ?」

「ちょっとには見えないけどな。何か学校であった?」

「全然?そんなに大したことは…」

 本当になんでもないように言うが、彼にはどうしてもそれが信じられなかった。

「……アリア?」

「……やっぱりアダムにはなにも隠せないな」

 彼女はそう言ってへらりと笑った。

「やっぱりなにかあったの?」

「本当に些細なことなの。別に気にしないで」

「アリア、話して」

「……友達との関わり方に、ついていけないっていうか…」

「友達って、いつものみんなのこと?」

「うん。最近冗談を言われる事が多いな、とか、ほんのちょっとだけ困ることをされるのが増えたなって思って。ほら、私って色々本気にしやすいから、反応とかからかわれたりして。そこまで傷ついてはいないんだけど、ちょっともやもやするなー、みたいな」

「そうなんだ……」

「別にこれをどうこうしようとかは思ってないから、気にしないでね。本当に」

「君がそこまで言うならそうするけど、もしなにかあったら言うんだよ?一応弟だし。ぎり、だけど」

「今、辞書見ていったでしょ」

「今見てた範囲にあったんだもの。使い方合ってるでしょう?」

「ふふ、うん。合ってる」

 彼らはそれぞれ勉強に戻った。

 このときの判断を、彼は後に後悔することとなる。


 その日、アリアの帰りが遅いことに気付いたのはセレナだった。

「あの子、いつもはもう帰ってきているのにねえ」

「そうですね……僕、ちょっと行ってきます」

 彼は家を出た。もう冬も下旬、この日は雪が降っていた。

 姉の姿を探しながら街を歩くも、その姿は見つからない。

 魚屋の前を通りかかったときすでに店主の娘が帰っている事に気づき、彼は声をかけた。

「オリヴィエ」

「おー、ばあさんの助手」

「アリアを見なかった?まだ帰っていないんだ」

「アリア?あいつまだ学校にいるぞ?」

「なんで?」

「さあな。今日ちょっとあいつらと険悪だったから、それ関連じゃねーの?」

「あいつらって?」

「いつもの五人衆だよ。何だよそこまで聞きやがって……っておい!どうしたんだよ!」

 アダムは嫌な予感がして、学校までの道を走った。

 雪は家を出たときより強く、吹雪いていた。


「いい加減にして!」

 学校についたとき、一番に聞こえたのはアリアの声だった。どうやら相当怒っているらしい。

 誰かがすすり泣く声も聞こえる。これは、カミラだろうか。

「なんで私がそう言われなくちゃならないの?事を始めたのはあなた達じゃない!」

「確かにそうだけど、そこまで言うなんて酷いよ。そんなペンダント一つで」

「このペンダントは大事なものなの!簡単に渡せるものじゃないの!前にも言ったじゃない!なのになんでこんな真似をして、それが冗談で済まされて、許されるものだと思うの?おかしいよ!」

「アリアさん、落ち着いてください……」

「落ち着けるわけないじゃない!本当に呆れた。なんでそんなことが言えるのかわからない」

 アダムは状況が掴めなかった。いつも仲の良い五人がこんな事になっているところは初めて見た。

「ほ、ほらー、アリアいっつも面白い反応してくれるし、カミラもそこまで深く考えてなかったのよん。だからそんなに怒ることじゃ……ねん?」

「そうだよ、カミラも謝ったじゃーん」

「……もういいよ」

 アリアがこちらに走ってくる。まずいと思ったが間に合わず、アダムは彼女に見つかってしまった。

「アリア……?」

「……もう嫌!」

「待って!」

 アリアはそのまま家の方向に走り出す。アダムもそれを追いかけた。

 四人だけが残った校庭には、雪が強さを増しながら降り注いでいた。


「アリア!」

 家に帰ってから彼女は部屋にこもり、出てこなくなってしまった。

「来ないで!」

「なにがあったって言うの。いつもあんなに仲が良さそうだったのに」

「私は悪くないの!」

「君が悪いとは少しも思っていないよ!だからお願い、教えて?」

 アダムがそう言うと、アリアはゆっくりとドアを開けてくれた。目が腫れている。あれから相当泣いたのだろう。

「なにがあったの?」

 部屋のソファに二人で腰掛けた後、穏やかな雰囲気を心がけて訪ねた。

「全部、あの人達が悪いの」

 彼女は少し間をおいてこう言った。

 今朝学校に行くと担任の先生に突然、今日の授業で小テストをすると言い、クラス中でブーイングが起こった。当たり前だが撤回されることはなく、朝のホームルームが終わった。このことに一番腹を立てていたのはカミラだったという。その日の昼食の時間まで機嫌が悪く、他四人も楽しげに話せる雰囲気ではなかったそうだ。

 事が起こったのはこの直後だった。昼食後、唐突に立ち上がったカミラはアリアに近づき、彼女のペンダントを奪った。突然のことですぐには反応できず、取り返せなかったがためにカミラはそのまま学校中を逃げ回った。

 カミラがミス・バーバラにぶつかったのはそれからすぐのことだ。カミラと、彼女を追いかけていたアリアの二人は減点対象となり、ペンダントは暫く没収となった。

 その後二人は一切話さなかったが、放課後になってカミラは謝った。しかし、アリアが言うには決して反省したような態度ではなかったそうだ。加えて貴方にも悪いところはあるとでも言いたげなことを言い出したので、アリアはそれに激怒し、現在に至る。

「あのペンダントはお父さんがお母さんに送った一番のプレゼントで、私にとっては二人の大事な形見なの。今まで私とおばあちゃん以外の人が触れたことはなかったし、これからもないはずだったのに」

「いつ返してくれるって?」

「保護者の方に事情をお話して、相互の理解が得られたらお返ししますって。訳が分からない」

「そっか……」

 二人はそれきり黙ってしまった。北から吹く風が、部屋の小さな窓をカタカタと揺らす。

「……仲直り、できるといいね」

「べつにしたいと思わない」

「なんでそう思うの。君たちは最高の友達だったじゃない」

「貴方は気にしなくていいの」

「なんでそんな事言うの」

「いいんだよ。あの人を許せる気がしないもの。確実にカミラが悪いのに私の方が悪いみたいに振る舞ってくる三人もよ。まるで腫れ物扱いだったじゃない。そんなことをする人たちと私は仲直りしたくないし、できなくていい。だから貴方も気にしないで」

 アリアはまるで自分にも言い聞かせているような言い方をした。その表情が淋しげで、アダムはどうしていいか分からなくなってしまった。

「……アリア」

「さ、話せてスッキリしたわ。夕飯の支度しなきゃ」

「ねえ」

に戻っただけ」

「……え?」

「そう、戻っただけなの」

「それどうゆうことなの……ねえ!」

 アリアは彼を置いて部屋を出た。

 その後、彼女がそれに対し答えてくれることはなかった。


 翌日から、四人は家に来なくなった。

 アリアは当たり前に一人で帰宅しアダムに勉強を教えた。だが、それはとても理解できたものではなく、一週間経つ頃には教科書を見るほうが理解しやすいと感じてしまうほどになっていた。

 毎日家では笑顔を絶やさなかった彼女の顔からは笑顔が消え、セレナはとても心配した。

 そのうち彼女は食事を残すようになった。パンは半切れ、サラダは一口、好物のステーキも半分食べたところでアダムの皿に移してしまう。

 セレナが言ったところでそれは変わらず、そのまま一週間が過ぎた。


 日曜日の朝、彼女は朝食を完食した。

 前日に行われた面談で、とうとうペンダントが彼女のもとに帰ってきたのだ。

 これにはアダムもセレナも酷く安心した。きっと彼女はいい方向に進んでいけると。

 そう、思っていた。

 彼女が家に居ないことにアダムが気付いたのは、時刻昼に差し掛かった頃だった。

「おばあちゃん、アリアはどこに行ったの?」

「部屋に居ないのかい?」

「居なかったけど……もしかして…!」

 アダムは家中を探し回ったがそのどこにも彼女の姿はなく、なにかを感じ取った彼は家の外に飛び出した。

「アダム、アリアは」

「居ない…居なくなった……」


「アリアが消えた?」

 街に出たアダムが始めに訪ねたのは、カミラの家だった。

 彼女はアダムの知らせに酷く驚いた顔をした後、表情を曇らせた。

「さっき気付いたんだ。心当たりはない?」

「あれっきり話していないもの。わからないわ」

 やはり変わっていなかった状況に、彼は表情を歪めた。

「他の三人にも聞いてみてほしい。頼む、協力してくれ」

「…わかったわ」

 アダムは街中を探し回った。魚屋、菓子屋、公園、学校の教室まで徹底的に探した。

 街の人々の何人にも聞き回った。アリアと面識のあった人に限らず、街の人であれば全員。

 だが、彼女は見つからなかった。

 街から少し離れた家まで走っているとき、彼は石につまずいて転び、頭を強く打ってしまった。そのせいで意識が朦朧とする。

 だめだ、起きろ、ここで気を失うわけにはいかないだろう、絶対にアリアを見つけなきゃ、それが僕の……

「……夢…?」

 それは突然頭に浮かんできた。いつ聞いたかも、いつ考えたかもわからない。覚えていない。でも、それは妙に懐かしく、納得できるものだった。

 アリアを見つける。アリアの笑顔をもう一度見る。それが僕の夢。絶対叶える。絶対助ける。

 アダムは再び立ち上がった。

 とうとう、彼はいつかの崖までやってきた。

 そのいつかのときのように、彼はもう倒れる寸前だった。足は走りすぎてがくがくし、転んだときにぶつけた頭からは血が流れていた。

 だがしかし、彼は諦めなかった。

 大切な家族を見つけるためか、夢を叶えるためかもう分からなかったが、それを原動力にここまで走ってきたのだ。

 だがそれでも限界だった。彼は寒さで枯れてあの日とは変わった草原の上に倒れた。

「……おねがい…かえってきてよ……」

 もう目を閉じようとしたとき、眼の前でなにかが光った。

 それは草に降りた霜が発するような光ではなかった。

 体を起こしてその出元を見る。彼は息を呑んだ。

 それはあのペンダントだった。

 震える手でそれを取る。間違いなく、それは彼女のものだった。

 それのあった先を見る。そこにもう地面は続いていない。あるのは奈落の崖だけだ。

 恐る恐る、崖の下を覗いた。

 その瞬間彼はその場に崩れ落ち、今までにないほど泣き叫んだ。

 は、間違いなくアリアだった。

 岩の上に点々と散った、赤い破片。液体。それだけでわかるはずないと思いたいのに、それは彼女以外にありえないと、身体が先に判断してしまった。

「アリアぁ…アリアぁ!」

 彼はひたすらに泣いた。

 悲しかった。彼女が自分の前から姿を消してしまったこと。悔しかった。彼女の死を止められなかったこと。それ以外にも感情が溢れて止まらない。しか悪魔のいたずらか、はたまた彼女がそうさせたのか、彼の中でまた別のものが動き出した。

「あ……ああ…………」

 思い出した。

 自分は初め箱の中に居たこと。あるときそこから放り出されたこと。の怖さを知ったこと。心優しく儚い運命にあった夫婦に助けられたこと。その時自分はであったこと。になったとき、その前の記憶を亡くし自分は少し醜くなったこと。その自分から逃げてまた忘れて、アリアに出会って、今の自分アダムがあること。

 全部、全部思い出した。

 わからない。何故あんなところに閉じ込められていたんだ。何故いつも大事なことを忘れてしまうんだ。何故あのとき自分の欲に負けそうになった。何故大切なものを、人を守れなかった。何故自分はこうも愚かな人間なんだ。自分は一体何者なんだ。

 何故、何故、何故……

「だれか、僕を――――」






 ―――――ガタン。











 少年は、未だ箱の中である。




[箱] 完








 

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[箱] おるか。 @orca-love

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