第1話
「……ッ、アレス!」
息苦しさと共に、エレンは目を覚ました。
「ッ、はぁ、はぁ……」
跳ね起きて、肩で息をする。吸って吐いて、喘ぐように空気を求めて、けれど上手く吸えないのか、息苦しさはなかなか消え去ってくれない。
まるで水底に沈められていたかのような。あるいは、呼吸の仕方を忘れていたかのようだった。
手が恐る恐る、胸元へ伸びる。
(わたし、アレスに……)
――刺された。
しかし膨らみの薄い胸には、傷一つなく、血の一滴もついていない。心臓は痛いほどに脈打って、エレンが生きていることを主張している。
夢、だったのだろうか。でも、胸を貫いたあの痛みは――
「アレス……」
ポツリ。彼の名が、口の端から零れ落ちる。
けれどその呼び声に応える声はなくて、
「エレ姉? アレスってだぁれ?」
代わりにすぐ傍らから、幼い声が返ってきた。
びくりと、それこそエレンは飛び上がるように驚いて、視線を下ろす。
そこに、ベッドを取り囲む幼い子供たちの姿があった。
ベッドの縁にしがみついた子供たちは、揃って不思議そうにじっとエレンを見上げている。無垢な丸い目が、ぱちぱちと瞬いていた。
「モニカ、マルク……? 一体どうし……」
どうしたの。そう言いかけて、ようやく気付く。
エレンがいるのは、孤児院にあった自分の部屋だった。
古ぼけた床に天井、家具の配置も、エレンが孤児院を去った時のまま。けれどその懐かしさに耽っている間はなかった。
栗毛の女の子・モニカも、賢そうな顔立ちの男の子・マルクも、記憶の中の幼い姿のまま。それに――
「コニー……? あなた、どうして……」
生きてるの。
やんちゃそうな男の子・コニーを前に、続く言葉は、言うことができなかった。
「……エレ姉、大丈夫? 汗びっしょり」
「具合、悪い?」
子供たちが口々にエレンの顔を覗き込む。
その不安げな顔にどう応えていいものかと困惑していた、その時だった。
「あらあら。ようやく起きたのね、エレン」
開きっぱなしになっていた扉から飛び込んできた優しい声に、エレンはハッと顔を上げた。
「マザー・アガーテ……」
「寝坊なんて珍しいじゃない。昨日は夜更かしでもしたの?」
そう言ってエプロン姿の女性は、クスクスと屈託なく笑う。
マザー・アガーテ。
この孤児院を一人で切り盛りする、教会の修道女。エレンたちは母親代わりである彼女を、親しみと愛情を込めて『マザー』と呼んでいた。
「さぁさぁみんな。お寝坊さんを洗面所に連れてってあげてね」
マザー・アガーテはそう言い残すと、洗濯物の入った籠を抱え直しどこかへ行ってしまう。子供たちは「はーい!」と元気の良い返事をすると、おもむろにエレンの手を取った。
「エレ姉、ねぼすけ!」
「ねぼすけー!」
「ねぼすけは洗面所に連行だ!」
「連行だー!」
「ちょ、ちょっと待って……」
子供たちに手を引かれ、エレンはたたらを踏みながら院内を進んで行く。子供たちの無邪気な声が響く院内は、どこを見回しても自分がいた頃のまま。エレンの混乱はますます酷くなるばかりだった。
それに、と手を引く子供たちの後ろ姿を眺めて思う。
自分はこんなに背が低かっただろうか?
そう思いながら洗面所に辿り着き――
「……嘘」
鏡に映った顔を見て、エレンは絶句した。
そこにいたのは、年の頃は十歳になったばかりかという、幼いエレンだった。
思わず頬に手を当てて、確かめる。
みすぼらしいと罵られた赤色の髪も、ネズミの色だと蔑まれた灰の目も確かにエレンのものだ。けれど鏡に映った顔は記憶にあるよりもずっと丸みを帯びていて、目鼻立ちも幼い。『貴族らしく』と言いつけられて腰まで伸ばしたはずの髪は、肩口で雑に切り揃えられていた。
何もかもが昔のまま。
「夢、なの……?」
思わず頬をつねりそうになる。けれど夢にしてはあまりにも記憶がハッキリしすぎていた。
男爵家で虐げられたこと。魔法学校で虐められたこと。戦争に駆り出され多くの人を殺めたこと。そして――
(アレス)
愛しい彼に、刺された痛み。
「エレ姉?」
子供たちが足にしがみついてくる。その手は温かくて、夢だなんて思えなかった。
――夢じゃない。
――全部、現実だ。
エレンは死んだ。
アレスに殺された。
その瞬間、エレンの頬を一筋の涙が滑り落ちた。
「え、エレ姉!?」
「どうしたの? どこか痛いの?」
突然泣き出したエレンに、子供たちが戸惑いながらも声を掛けてくれる。けれど一度堰を切って溢れ出した涙は止まってくれない。それどころか子供たちの思いやりに、余計に涙が零れ落ちる。
みんながいる。もう二度と会えないと思った、みんながいる。
「ち、違うの……どこも痛くないの……痛くないの、本当なの……」
身体は痛くない。どこも痛くなんてないはずなのに――
そうこうしているうちに、騒ぎに気付いたマザーが駆けつけてくる。
「あら、あらあらあら。どうしたの」
「マザー……」
マザー・アガーテは両目から止め処なく涙を流すエレンに気付く。驚きを見せたのは、一瞬だった。
「どうしたの、エレン? 怖い夢でも見たの?」
ふっと表情を和らげ、両手を広げて微笑む。
まるで「おいで」と言うように。
その優しい声に抗えきれず、エレンは堪らず彼女の胸に飛び込んだ。
押さえ込んでいた嗚咽が零れ、次から次へと溢れ出た大粒の雫が、マザーのエプロンに吸い込まれていく。
「……よっぽど怖い夢だったのね」
そんなエレンの頭を、マザーは何も聞かずそっと撫でる。
エレンは泣いた。声を上げて泣いた。
まるで子供のように、子供のエレンは泣いた。
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