第17話 錨泊

 俺たちは提示された契約書の内容をジルルに翻訳してもらい、これを確認する。

 内容に不審なところも、不明瞭なところもないので契約に同意し、署名した。


 エリーシャ船長は日本語で書かれた俺たちの名前にちょっと首を傾げたが、やがて頷き、書類を巻いて側近に渡す。


「良いでしょう、これで契約成立です。ようこそ、国際船主組合へ」




 1時間後、海鵜丸はエルハロとの接舷状態を解き、主機を始動させて出航した。


 エルハロの先導に従って航行することとなるので、速力はわずか6ノットほどしか出せない。

 ちょっとイライラする遅さだ。


「これでも、組合の哨戒船の中では最も高速な部類に入るのですけど」


 と船橋に案内したエリーシャ船長が苦笑しながら言う。


 彼女はエルハロの指揮を部下の航海士に預け、俺たちの水先案内人兼交渉窓口として海鵜丸に乗船してもらうこととなった。


 彼女の言葉に間違いはない。

 実際、小柄な船とはいえこの風力で、しかも立派に一層の砲甲板を持つ武装船が6ノットとは、ずいぶん頑張っている方だろう。


 おそらくは、先に遭遇した私掠船団の戦列艦やフリゲートとは違う、複雑な流線形の船体がそれを可能にしている。


 きっと良い船大工に設計されたのだ。あの曲線を木材で作り上げるのは容易なことではないだろう。



 しかしそうであっても、海鵜丸にとっては、快速と言い難いことに変わりはない。


 俺がこうもぶつくさ文句を言うのは、別に俺がスピード狂だからなどという話ではない。


 極端な低速航行は燃費を悪化させるのだ。


 時々勘違いされるが、内燃機関というのは低回転であれば燃費が良くなるというわけではない。

 確かに単位時間あたりの燃料消費量は減るが、出力あたり、ないし航走距離あたりの消費量はむしろ悪化する。


 燃費が最も良くなる時というは、機関が設計された際の最適な負荷で運転するときだ。


 船足が遅いくせに燃料を食う。機関士にとってこれほど嫌な状態はない。




 そんな俺の小さなイラつきを知ってか知らずか。


 当直明けの俺に、ジルルが「余裕があったらもっとエンジンのことを教えてほしい」と言ってきた。


 もちろん俺は快諾した。


 それに、俺は単純にエンジンが好きだ。

 内燃であろうが、外燃であろうが、あるいは原子力にしても、動力を発生させる機械装置がというのがどうしようもなく好きでたまらない。


 機関科に入学した俺の同級生たちは、みんな受験に失敗したからとか、よく考えずに出願したとかいう連中ばかりだったが、俺は違う。

 最初から船の機関士になりたくてこの世界に入った。



 あるいはジルルは、俺のこの性格を理解して声をかけてくれたのか。


 彼女は異常に、人の感情を慮るのが上手い。気立てが良いとかのレベルではなく、心を読まれているというレベルでこちらの意図を汲み取ってくる。


 実際、会って数日も経っていない、しかも異世界から来た俺たちの間に、彼女はあっという間に溶け込んでいる。

 俺たちが彼女に対して注意を払い接しているから、というだけでなく。


 それは彼女の生まれ持った性質なのか、教育の結果なのか、あるいは……



 おっと、いかんいかん。

 ジルルを、よりによって俺が不気味がるなどと。ついこの間、大人としてジルルを見守ると、そう誓ったばかりだというのに。


 俺は湧き上がる不穏な感情を振り払うと、アッパーデッキの図書室で、適当な理科の教科書を見繕うこととした。






 組合の旗船が停泊する海域に近づくと、周囲には常に民間商船や漁船が通行するようになった。


 そのすべてが木造の帆船で、俺たちはとうとう本当に異世界に来たのだなと実感する。


 もっとも向こうの乗組員からすれば、こちらこそ異世界の異物なわけで、それはもう奇妙な光景に見えただろう。

 マストも帆もない白亜の船体は、衆目を集めるにはあまりにも好材料すぎた。


 その様子を、俺はやはり制御室のモニタで眺める。


 窓のない機関室には、これが唯一外界を観察する手段だ。だからもうちょっと解像度が欲しいところではあったが、あまり贅沢は言えない。


 風、気温、振動、そして潮。海上というのは、精密機械にとっては意外にも過酷な環境なのだ。



 隣では、ジルルが教科書の図と実習生用の機関模型を熱心に見比べている。

 燃料の燃焼や機関の動作については、昨日ちょっとした講義をすることができたが、やはり実物に勝る教材はない。


 ジルルもそれは分かっているようで、昨日今日など居室にいる時間より機関室にいる時間の方が長いのではないかと思うほどだ。


 幼い彼女の聴力に悪影響が出ないことを祈りつつ、俺は時折出てくるジルルの質問に答えていた。


 すると、船橋直通の内線が鳴る。


『錨地まで5マイルです』


 船橋当直の田中が言う。


 事前の打ち合わせでは、海鵜丸は組合旗船の居るハッタキラ諸島のリデロ島港には入港せず、手前の水深が十分にある地点で錨泊待機し、俺と高見原を含む士官数名が交通艇で上陸することになっている。


 エリーシャ船長が言うには、巨大な組合旗船が停泊できる規模の港だから、おそらく水深の問題はないだろうという話だったが、念には念を入れてである。


 また港湾設備についても、海鵜丸のような大型の鋼船を繋ぎとめられるほどの設備がある保証はない。


 だから、先に何人か上がって様子を見ようというのだ。



『錨地まで3マイル、部署につけ』


 いよいよ目的地が近づき、船内はにわかに慌ただしくなる。

 船橋からのスタンバイ指示に従って主機の運転モードを変えると、俺は村田にシーチェストの切り替えを指示する。


 シーチェストは冷却用の海水を吸入する取水口である。

 これには低位と高位の2種3口があり、航海中は動揺によって取水口が海上に出ないよう低位を使用するが、錨泊や入港で水深の浅い地点にあるときは泥などを吸い込まないよう高位に切り替える。


 切り替え自体は単純なバルブの開閉動作なのだが、切り替えた後のストレーナ清掃がなかなか面倒くさい。


 床板を外し、ボルトを緩め、チェーンブロックで蓋を外し……


 頻繁にやる作業のくせして手間がかかる。ストレーナの汚れが単純な砂泥ならまだしも、クラゲなど引っかかった場合はもう面倒くさい。すごく面倒くさい。


 だから船乗りというのは、航海士であれば漁船が嫌いになり(航路を塞ぐうえに法規上の優先権が向こうにあるため)、機関士であればクラゲが嫌いになる。



 やがて制御室には停止や後進の指令が下り、対水速力がゼロになったころ、放送とともに船に振動が伝わる。


 今頃前部甲板上では、巨大な錨鎖が赤さびの煙を挙げながらホースパイプを下っているころだろう。


 やがて錨鎖を海底に這わせるためいくらか後進を入れると、投錨の終了したことを船橋が伝えてきた。

 これで海鵜丸は、海流や風に流されることなくこの場にとどまることができる。


 俺は機関の使用終了の通達を受けると、機関停止と冷機の準備に移った。





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