大海原の姫
第7話 遭遇
針路0-9-0。海鵜丸は、まだ見ぬ陸地へ向け航海速力14ノットで航行中。
時刻は船内時計で0730。しかし既に日は傾きはじめ、この時間は当直交替の指標ぐらいにしかなっていない。皆が時差ボケのような体調のなか、次の当直に向かっていく。
結局俺は機関長の職を続行することになってしまった。
出航を終え、主機がスタンバイからリングアップになったころ、操舵を担当する船橋の実習生以外が第1教室に集められ、人員の再配置が行われた。つまり、誰がこの船の責任者となり、士官となり、部員となり、飯を炊くかを決めるということだ。
こういう場面でどもり、話し合いの一向に進まないのが日本人の悪癖だが、意外にもこの場はスムーズに進んだ。
なにより緊急時だし、全員が同じ班員として日々の寝食を共にしていた俺たちは、お互いがいったいどういう人間かを内外ともに知り尽くしている。だからほとんどの士官、および各部署の長は多数決よりも推薦によって決まった。
__________
練習船 海鵜丸 乗組員名簿
・
・機関部
・事務部
・医務部
以上24名
__________
新しく印刷された乗組員名簿を、俺と新キャプテンの高三原は教官室で眺めていた。
この教官室に入って仕事をするのは、最初こそ学校の職員室をわが物にできるようで(実際役割は職員室なのだが)ワクワクしたものだが、結局のところただの事務室であることに変わりなく、やることも苦痛の事務作業である。
今やっている“コレ”も、そんなありふれた、けれど欠かすことのできない事務作業のひとつだ。
「で、応急部署の配置割りをどうするかだが…」
応急部署。それは船内でなんらかの緊急事態が生じた場合に、これに対応するために発令される非常配置だ。
配置の種類は防火・防水、保安、総員退船等々と分けられる。
「ま、総員退船を深く考えなくてもいいのは助かったな。1号艇に全員乗るだろ?」
「右舷が使用不能でも左舷に交通艇が残ってる。艇長はキャプテンの俺でいいな?」
「そうしよう」
さて、保安部署や油濁防止はそもそもほとんど起きないからくじ引きで適当に割り振っておくとして、防火部署はそうもいかない。
船舶火災は、一度起きれば即座に致命的な事態に繋がり得るものでありながら、過去から現在までなくなることのない、船舶運用とは切っても切れない事故である。
衝突の末大火災を引き起こし、遂には海自に撃沈命令の下された第十雄洋丸事件は、いまでも海運関係者の心に深く刻まれている。
だから万が一火災が発生すれば、一切の遅滞なく部署を発令させ、消火装置の作動、煙の誘導、空気流路の遮断等の消火活動を速やかに実行できなければならない。
「けどなぁ。防火部署の操練で覚えてることなんてたかが知れてるし…」
「いざやれるのかって言われると、うーん……」
そう、二人して頭を抱えてしまっているときだった。
『キャプテン、機関長。ただちに船橋へ』
船内マイクで放送がかかる。船橋で当直についている3/O、島田の声だった。
「どうした?」
船橋に上がった高三原が真っ先に尋ねる。キャプテンのこいつを呼び出すのは分かるとして、機関部の俺にまで用があるとはどういう道理か。
船橋には当直士官の島田の他、操舵輪を握る及川、見張りの山田がいた。
「さっきレーダーに船が映って、もう目視できる距離ではあるんだけど、ちょっと船型が分からなくって… キャプテンか、機関長なら何か分かるかなって思ったんだ。ほら、機関長けっこうオタクだって聞いたから」
「否定はしないケド… ちょっとレーダー見せて」
民間商船の航海レーダーは、軍用や漫画に出てくるソレとは違って、反射してきた電波をすべて表示する。だから陸地や波、雨で反射した電波もノイズとして表示されるわけだが、この中から船を見つけ出すのはなかなか難しい。
「
「こっちも見えたぞ。左舷1ポイント、3マイルだ」
船橋から張り出した見張り台、ウイングに立って借りた双眼鏡を覗き込む。船首方向から拳一個分左、1ポイントのところに小さく黒い影が見える。
「木造船… だよなあれ。シルエットが妙に縦に長いし、帆船か?」
「島田、あれは反航船か?」
「うん、まっすぐ向き合ってる。相対速力は19ノットだね」
こんな海のど真ん中で5ノットしか出していないということは、動力船の可能性は限りなく低いということだ。木造帆船とはずいぶんとクラシックなことだが、少なくとも船を使って大洋を渡るほどの文明を持つ人々がこの世界にいるというわけだ。
「この速度だと10分もしないですれ違うな。異世界に来てまでスターボード艇の原則が通用するとも思えないし、衝突回避のためにスタンバイエンジンにしよう。悪いけど金元、連絡よろしく」
「はいよ」
俺は船橋の中に戻り、直通内線をとる。
「こちら船橋、機関長」
『制御室3/E。金元君? どうして船橋に』
「ちょっと呼ばれた。船を見つけたんだが、このままだと衝突コースなのでスタンバイエンジンにしてほしい」
『スタンバイエンジンにする、了解。船って、どんな?』
「木造の帆船らしいんだが、ちょっと状況が分からない。いろいろと備えておいてくれ」
と、受話器を置いた直後だった。
「反応が増えた! 反航船は複数いる」
「影がばらけた。船団だ」
山田と高三原が同時に声を上げた。
声につられて前を見ると、もう肉眼でも見える距離にいる船影が横に広がっているのが見えた。
「こっちに向かって一直線になっていた船団が転舵したらしい。5隻いる」
双眼鏡を通してみると、いよいよ船影の仔細が見て取れるようになった。
やはり木造の帆船だ。防水材のせいか、やけに黒い船体には煙突のような突起物はなく、
…なんだか嫌な予感がした。
「キャプテン、少し距離をおいた方がいいかもしれない。できれば1マイル(=1,852M)、最低でも5ケーブル(=0.5Mile)は維持したい」
「…? なぜだ。むしろ近づいて、可能ならコンタクトをとるべきだろう」
「それはそうなんだが…」
高三原の言うことは正しい。孤立状態の俺たちは、一刻も早く、この世界にいる“誰か”と繋がりを持つべきなのだろう。そのためには、今ここでせっかく会えた船団を逃すのは惜しい。
しかしここで懸念を口にせず、結果船全体を危険にさらすことになったら…
「高三原。俺にはあの船が、軍艦に見えてならない。あの肥えた船型に乾舷の高さは、輸送船じゃ考えにくい。たぶん複数の甲板に、砲か、それに類する重量のものを積んでいる。そう考えるのが合理的な形だ」
「……わかった。目標船とは5ケーブルの距離を維持しつつ、旗りゅう信号でコンタクトを試みよう。
「ポートステア0-8-0、サー!」
船がゆっくり左に舵を切る。反航する船団も左に転針しているようだから、これで本船とは左側通行のかたちで横切ることになる。
そうこうしている間にもお互いの距離は縮まり、1マイルを切る。
船はゆっくり進むようで、意外にも速い。全速を出せば、この船は1時間に20マイルもの距離を進むのだ。それほどの速度で巨大な鉄の塊が動くわけだから、操船には高度な技術と細心の注意が必要なのだ。
「向こうの乗員が見える。きちんと人間みたい」
右舷ウイングの島田が言う。
双眼鏡越しには確かにゴマ粒のような影が甲板上をうごめいているのが見えた。2本腕に2本足。とりあえず異形の怪物が操船しているわけではないようだから安心だが……
「待て、右舷側の窓が開いていないか?」
と高三原。窓だって?
彼の指をさす方向に視線を向けると、確かに船団の先頭を行く船の外板で、そこかしこからパカリと箱のふたを開けるように窓のようなものが……
「あれは… 砲門だ! 島田、距離は!」
「6ケーブル!」
砲門は次々と開いていく。その奥にチラリと見えた黒い塊は、間違いなく砲だ。
「キャプテン!」
「
言われるよりも早く、俺は内線に飛びついていた。既に機関出力はスタンバイエンジンにおける全力、フルアヘッドに設定されている。これより上げろというのであれば、主機の回転数を具体的に設定するしかない。
「制御室、主機回転数148まで上げろ! 急げ!」
『148、了解!』
しかしノッチを上げても主機の回転数は即座に上昇したりしない。無理な運転による異常を防ぐため、回転数の上昇に関しては電子ガバナがこれを調節し、ゆっくりと無理のない上昇になるよう設計されている。
これが数ある軍艦との違いのひとつで、今この状況で最も必要のない機能だった。
「キャプテン! 回転数が上がるまで時間がかかる。それまで操船で…!」
と、そこまで言いかけたとき。
視界の端、右舷側で、チカリと何かが光った気がした。
引き伸ばされたような感覚の中、誰かの「伏せろ!」という声と、恐ろしい無数の風切り音が、同時に聞こえてきた。
ドオオォォォンッ!!!!!
物凄い衝撃と轟音が、海鵜丸の船体を震わせる。
船の間にいくつもの水柱がたち、立ち昇った物凄い量の霧がウイングにまで降りかかってくる。
ガキィン!と、船の後方で嫌な音がする。
「クソッ! 本当に撃ってきやがった!」
焦げ臭い残り香を残して、一斉射が終わる。立ち上がってみると、右舷に居る帆船、いや敵艦は猛烈な白煙に包まれていた。黒色火薬の燃焼煙…!
「次弾を撃つまでには時間が掛かる! それまでに逃げろ!」
「わかってる!
船は思い切り左に曲がり、遠心力で右に傾く。身体が強く引っ張られる感覚のなか、速度計が徐々に上がっていくのが見えた。
大丈夫だ。最高速力の19ノットで風に向かって突き進めば、帆船で追跡するなんて絶対にできない。
ウイングから見てみれば、もはや後方にまわった船団はあっという間に遠ざかっていく。2隻目が未練がましくもう一斉射してきたが、彼らの砲は急速に機動する俺たちを照準できなかったようで、今度はずいぶん手前に着弾し、盛大な水柱を立てるに終わる。
その後も何度か発砲音は聞こえてきたが、次第にそれらも止み、船団の影は水平線の向こうに消えていった。
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