第6話 出航
「なあ… 本当にこんな状況で船を出すのか?」
船のエンジンを温める暖気作業中、ふいに村田が俺に向かって言った。ちょうど主機を温めるためのターニングが始まったところで、序盤の電源投入やポンプの始動ラッシュも終わり、出航部署まで1時間弱ほどの余裕ができたところだった。
発電機の騒音も、ターニングの低音もくぐもって聞こえる機関制御室の2重扉の中、一緒に作業をしていた五十嵐や大平も、同じセリフを言いたげな表情をしていた。
「そりゃあ、いつまでもここに居るわけにはいかなってのは分かるけどさ。けど、結局東に進むってこと以外決まってないじゃないか。東に進んで… もしこの星に、陸地なんてなかったらどうする?」
航海科の高見原を説得することこそできたが、村田の言う通り、事態が好転したわけじゃない。結局あそこでは、「生きるために足掻く」ということ以外に解決した問題はない。
本当に陸地があるのか、あったとして辿り着けるのか。
……俺たちは、日本に帰れるのか?
「俺が、今更言うのもなんだけどさ。……本当に、ああ言ってしまって良かったのかな」
思わず俺も、本音を漏らしてしまった。
なんというか、あの時のような熱血系の振る舞いというのは、俺には似合わない。頬を叩いて気合を入れるなんて、半世紀前のアニメか漫画みたいだ。
あんなのは、俺のキャラじゃなかったな…
ふとみんなの方を向き直ると、なんだか、不思議な顔とまなざしを俺に向けていた。
不安… でもないような、なんだかニヤニヤしたような変な表情をしている。なんだ、何が言いたい。
すると、突然誰かに腕をつかまれた。…大平だった。
「ちょっと来て」
と言うやいなや、彼女は呆気に取られている俺の腕をぐいぐいと引っ張り、制御室を抜け、がなり立てる発電機を通り過ぎると、そのまま中段を通り越して暴露甲板に上がっていった。
救命艇がなくなっていつもより明るく感じるそこは、風がよく通って心地よい。
「なんだよ、こんな所に」
頭の中が疑問符でいっぱいな俺の質問を無視し、大平は突然「ちょっと失礼」と言いながら、俺の顔を両手で包み込んだ。
細くて柔らかい女性の手。俺はびっくりして、思わず飛び上がりそうになった。
「何を…?!」
「無理してない?」
思わずハッと息を吞むような端整な顔がずいと俺に近づき言う。見るものを取り込む真っ黒な瞳は、ヘビのようにこちらを丸呑みにしてきそうな恐ろしさと美しさを兼ね備えている。
そんな瞳に見据えられた俺は、ヘビの前の蛙のように動けず、息もできずにいた。
「金元くん、あんなことするキャラじゃなかったでしょ」
言われて、俺は忘れていた呼吸を思い出した。冷や汗を流しながらヒュウと音を立てて慌てて呼吸する様はずいぶん間抜けだっただろう。
「ふふっ。ちょっと心配だったんだ、自分を押し殺して動いているように見えて。けどまあ、本音もちゃんと言えたみたいだし、私に詰め寄られてそんなに初心な反応ができるなら、まだ平気そうだね」
「あ、遊んだね…?!」
「ふっふーん。ま、本当に辛くなったときは、きちんと相談してね。お姉さんがいつでも話聞いてあげるから」
そう言うと彼女はひらりと身体を翻し機関室に戻っていった。
そういえば、あの人は俺より2,3年上だったなぁと、今更ながらに思い出した。
機関室の中に、圧縮空気の放出される音が響き渡る。機関の作動に異常がないか確認するためのエアランニング。このためにインジケータバルブからシリンダ内の空気が放出される音だ。
船は出航寸前。すでに部署配置が発令され、機関室も船橋もにわかに騒がしくなる。
『上段異常なし!』
機関室上段で、エアランニングの状態を確認していた五十嵐が報告した。よし、機関に異常はない。
インジケータバルブの閉鎖を指示し、閉鎖が確認されたところで、大平が機側の操作台に向かう。
「機関長、主機試運転準備完了。船橋に報告するぞ」
村田が言う。機関長と呼ばれるのはなんだかむず痒い。けれど、ひとまず今はその職責を果たさなければ。
「村田、機関が完全に冷めた状態から動かすわけだから、様子を見て少し試運転を長めにやる。船橋にもそう伝えて」
「了解。船橋、こちら制御室村田」
村田が制御卓にある船橋との直通内線に声を吹きかけると、スピーカーから声が返ってきた。確かこの声は、航海科の森というやつだっただろうか。
『こちら船橋、森』
「これより主機の試運転を実施します。低温状態の主機を作動させるため、通常より長く試運転を行います」
『通常より試運転を長く行う、了解しました』
大平からも各配置用意よろしの連絡が入った。
教官もなしに主機を動かすのは初めてのことだが… 大丈夫、壊れている機器はない。きちんと手順通りに作業すれば、機械もその通りに答えてくれる。
「主機、始動する。主機、始動する。よーい、
機側の大平が号令とともに始動ボタンを押す。
同時に、機関は掃気と燃料を吸い込み、圧縮された空気と重油はあっという間に爆発点火し、咆哮をあげながらピストンを押し下げ機関を回転させる。
3階建てのビルに届くほどの巨大さを誇る機関が作動する姿はまさに圧巻。何度見ても、これに勝る機械装置を俺は知らない。
「機関長、各配置異常なし」
「主機、
「主機、FPPモード試運転を行う。アヘッドエンジン!」
号令とともに主機の回転数が上昇し、船は前進側に推力を得る。この状態でも船はわずかに進んでいるが、あくまで試運転は試運転。この作業の目的は、機関に負荷がかかった状態で、異常な動作が発生しないか確認することだ。
グラフィックボードを確認すれば、排気温度がわずかに上昇していく様子を確認することができる。
「アスターンエンジン!」
今度は後進側に、機関の回転が逆転する。
この船の主機は2ストローク自己逆転式ディーゼル機関だ。この種のエンジンは、排気、燃料噴射時期などを調整することで、機関のクランク軸回転方向そのものを逆転させることができる。
だからこの船の軸系統には、車のようなギアやクラッチといった部品は搭載されていない。機関と
「主機試運転終了、結果良好」
『主機制御権は制御室へ』
もはや機関部に、航海を妨げる要素は存在しない。主機は正常に作動し、あらゆる補機も規定通りに、調和しあいながら動作している。
「船橋、主機試運転終了、結果良好。こちらはいつでも行ける」
『了解、海鵜丸出航する!』
通話が終わると同時に、エンジンテレグラフのベルが鳴る。デッドスローアヘッド。
海鵜丸は、まだ見ぬ海に漕ぎ出した。
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