第2話 初代お猫様
初代お猫様の話をしようと思う。
実家を出るまで、三匹のお猫様と暮らしてきた。初代お猫様との出会いは、小学校一年生の時だった。
小学校から帰宅すると、玄関の扉が開いていた。
これはよくある現象だった。外階段を一階分あがって、小さな前庭を抜けたところに家があったからだ。もともと山の中腹に家があるので、人通りは住人以外にない場所だった。
「ただいま」
帰宅すると母が台所で作業をしていた。振り向かずに「おかえり」と言う。
ランドセルを抱えて台所を通り過ぎ洗面所へ向かおうとした時、私はハタと足を止めた。
壁を長方形にくり抜いたところに電話機があった。小さな洞窟みたいな場所だ。
そこに、猫がちょこんと座っていた。
電話機の上に乗り、前足を丁寧に揃えて座っている。猫の長くて黒っぽい尻尾が、まるまると可愛らしい手元に収められている。
私は、その猫の美しい佇まいに魅入ってしまった。
ほっそりとした体形で、しゃんと背筋を伸ばしたまま目を瞑っている猫は、まるで神様のお遣いでやって来たかのようだった。
──この猫知っている。シャム猫っていうんだ。
その時、ぎゅっと瞑っていた猫の目が動いた。ゆっくりと目が開かれていく。
猫の瞳は、春の夜空のようだった。
「あっ」
声を漏らして、あわてて口元を押さえた。大きな声を出してしまった瞬間、この不思議な空間が溶けてなくなってしまうように思えた。
人間の白目の部分が、やさしい群青色をしている。こんなに綺麗な瞳が、この世界の生き物に与えられていることが、奇跡のようで、本当に生き物なのだろうかと疑ってしまうほどであった。
猫はじっと私を眺めた後、再び目を閉じた。
途端、私は現実に戻って体をぴょんと跳ね上げた。
「家の中に、猫がいるー!」
少しだけ大きな声をだした。
「いるのよ!」
母は言った。なぜだか、ぷりぷりしている。
ランドセルを抱えたまま、私は「そうか、いるのか」と納得した。
当時の私にとって、母が「いる」と言えば「いる」のであって「いない」と言えば「いない」ものなのであった。
納得した私は安心した。猫は家に「いる」ものなのだ。電話機の上に「いる」ものなのだ。
ランドセルを置いて、手を洗った後、再び電話機の上をのぞいてみたが、猫はまだそこにいた。
「ホレ、おやつ食べなさい」
母はなぜだか汗をかいていた。
机の上に置かれたお皿には、当時のファミリーブームであるバームクーヘンに、母特製の生クリームがのっていた。
カロリーに追いカロリーである。実に、美味い。
私と母は黙々とバームクーヘンを食べる。そして、食べ終えた後、ふと母が思い出したように立ち上がって、猫に言った。
「あんた、まだいたの?」
すると、猫はゆっくり目を開ける。トンっと軽くて上品な音をさせて降り立つと、優雅に尻尾をあげて玄関から外へ出て行った。
まるで、猫の王子様の帰還のように思えた。
「あの猫、どこの家の猫だろう?」
野良猫には見えない。
「さあ」
母はもう一切れバームクーヘンを手に取った。
その数週間後。母は言った。
「この子、うちで飼うから」
私はうなずいた。母が「飼う」と言えば「飼う」のだ。そして、その選択は私にとって、とても嬉しいことだった。
聞けば、猫はご近所で飼われていたようだが、その姿に似合わず激しい性格のようで、追い出されてしまったというのだ。(ちなみにだが、シャム猫ではなく、トンキニーズという種類のお猫様であることが判明した)
私は初めての猫に興奮していた。
初めての猫だったので、なで方も理解していなかった。手を伸ばして頭の上からなでようとした。
するとお猫様は、パクっと口を開けて手に嚙みついた。
私は驚いた。
お猫様は不機嫌そうに私をにらみつけている。
お猫様の歯形がついて、ぷくっとへこんだ手を私は珍しいものを見るかのように眺めた。
そして、くんくんと匂いを嗅いだ。
獣の、生臭い匂いがした。
その生々しい生き物の匂いに、目が覚めるような気持ちを覚えた。
「うにゃあー」
私は雄たけびをあげて、お猫様の両脇に手を差し入れると、ぷらーんと抱き上げ、自分のスカートの中に入れた。
足の間でもぞもぞと毛玉が動いている。しばらくして、お尻の方のスカートからお猫様はのっそりと出てきた。
その後はお互い何事もなかったかのように、自分の生活に戻った。
子どもの愛情表現というのは時に独特である。
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