レイニーデイズ~捜査一課陰陽対策係・雨宮縁~

はじめアキラ

<1・ニゲロ。>

 べしゃべしゃべしゃべしゃ。

 果たして今自分は踏んでいるのは泥なのか、それ以外の何かであるのか。生臭いそれらの正体が本当は何であるのか、なんてことは考えたくもない。否、考える余裕もないというのが正しいか。

 男が今、するべきことは一つ。自分の後ろから追いかけてくる“アレ”から逃げ切ること、ただそれだけなのだ。


「ひい、ひい、ひい……!」


 喘ぐような息を吐き、何度も転びながら男――森村善一もりむらぜんいちは走る、走る、走る。相手がもう、どれくらいの距離まで来ているのかもわからない。威圧感はするが、振り向く余裕もなければ度胸もない。もし、もう吐息がかかるほどの距離にいたら。逃げられそうにないと悟ったら。今度こそ、心が折れてしまうとわかっていた。ただでさえ、己のメンタルが脆いことには自覚があるというのに。

 百キロ近い体重を支えてきた膝が、ぎしぎしと痛んでいる。走るたびにでっぶりと飛び出した腹の肉が揺れる。もう少しくらいダイエットしておけば良かった、なんてことを考えても後の祭りだ。確かにあと十キロでも痩せていればもう少し走るのも楽だったかもしれないが、そんな元気があったなら多分ヒキコモリなんてものはやっていない。

 会社で上手くいかなくて、病んで、自宅に籠るようになって果たして何年が過ぎたか。元々太りやすかった体は、数年の暴飲暴食でさらにでっぶりと肥えてしまっていた。鏡を見て、もう二次元以外で女の子にモテるのなんか諦めた方がいい、と自ら思ってしまうほどには。

 だが、だからといって自分はどうすれば良かったというのか。

 人が普通にできることができなかった。人よりちょっとだけ醜かった。人より少しだけどんくさくて不器用だった――たったそれだけでみんな、鬼の頚を取ったかのように自分を責め立て、嫌悪するのだ。そのような世界で、一体どうやって幸せに生きろと。夢のような妄想に逃げなければきっと、自分はとっくに首でも吊っていたに違いないというのに。


「あひいっ……あ、ああ、あと、少しいっ……!」


 走り続けてやっと、四角い光が見えてきた。

 エレベーター。

 話に聞いた通りなら、あれで“元の世界”に帰ることができるはずだ。ドアは開いたまま止まっているが、いつ閉まってしまうかわからない。急げ、急げと男は足を早めた。最後の力を振り絞るのだ。ここで頑張らなければ、本当に死んでしまう。あの死体のように喰い散らかされて、滅茶苦茶痛い思いをして殺されるのだ。

 それだけは、絶対にごめんだ。

 自分はまだ生きていたい。来週発売のギャルゲーも楽しみにしているし、コミックレンレンの今週号もまだ読んでない。『悪役令嬢に転生したはずが、遠い国の双子の王子様に愛されまくって困っています』の最新話の録画もまだ見ていないのだ。社会でなんと言われようと、たとえゴミだと蔑まれることがあったとしても。自分にだって生きて、未来を夢見る権利はあるはずなのだから。


「はあああっ……!」


 腹から思いきり息を吐きだして、どうにかその光の中に飛び込んだ。急な明るさに視界が明滅する。頭も痛いし、酷使した足も肺も痛いがまだ休むには早かった。とにもかくにも、まず扉を閉めなければ。


「頼む、反応してくれ、頼む、頼む頼むうううう!」


 閉、のボタンをガンガンと連打してドアを閉めようとする。あの脅威を、このようなエレベーターの扉一つで防げるかどうかはわからないが、それでも何もしないより遥かにマシなのは間違いないのだ。


「頼む頼む頼む頼む頼む!」


 ぜえぜえと息を吐きながら叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。べちゃべちゃと、汚泥を踏むような足音が近づいてくる。祈るような気持ちで、指が痛くなるほど強くボタンを押しこんだ。瞬間。


 ウイイイイイン!


「あ、ああ……!」


 ドアがゆっくりと、閉まっていった。善一は安堵して、その場にへたりこんでしまう。


「た、たす、助かった……?」


 暫く待ってみたが、ホラーのお約束のように向こう側からガンガンとドアが叩かれる様子もない。諦めてくれたのだろうか、怪物は。それでも、ドアの耳をつけて向こうの音に聞き耳を立てる元気はなかった。そんなことをしている余裕があるのなら、さっさと帰る方法を試すべきだろう。


「はあ、はあ、はあっ……」


 ぼたぼたとエレベーターの床に汗が垂れる。慣れない激しい運動のせいで、全身がどこもかしこも痛くてたまらない。これに懲りたらもう二度と、おかしな都市伝説なんか試してなるものかと心に誓った。そうだ、そもそも“中世ヨーロッパ風の異世界に転移できる方法”なんて。あまりにも厨二病すぎているし、信憑性も何もなさすぎではないか。

 何で、軽い気持ちで試してしまったのだろう。もう何か月も外出なんかしてなかったくせに、家の外に出てまで、自分は。


――くそ……マジでくそじゃねえかあんな噂!訴えてやる……人を、こんな目に遭わせやがって!


 少しだけ落ち着いたら、ちょっとだけ元気が出てきた。恐怖ではなく、怒りを思い出せるのはそれだけ心に余裕が戻ってきた証である。男はふらふらと立ち上がり、エレベーターの文字盤に触れた。とにかく、元の世界に、家に帰らなければ。自分の自宅はマンションの五階だが、多分このまま五階を押したところで反応はないだろう。あるいは、異世界にいる“まま”になってしまう可能性が高い。

 帰るには一度、一階を押さなければいけない。

 一階のボタンを四回押して、こう言えばいいのだと聞いている。そう。


「カギリ様、カギリ様。わたくしの血と、肉と、魂と、心を、どうか元いた世界へお返しください!カギリ様、カギリ様。わたくしの血と、肉と、魂と、心を、どうか元いた世界へお返しください!カギリ様、カギリ様。わたくしの血と、肉と、魂と、心を、どうか元いた世界へお返しください!カギリ様、カギリ様。わたくしの血と、肉と、魂と、心を、どうか元いた世界へお返しくださいっ!!」


 ボタンを連打しつつ、早口で四回同じ呪文を唱えた。もう二度と、こんな恐ろしい目になんぞ遭いたくはない。ホラーなんて、可愛い女の子が出てくるアニメとゲーム実況だけでもう充分だ。自分で体験して酷い目に遭う趣味なんかない。そういうのは、オカルトかぶれのどっかのトチ狂った輩か、被虐趣味の奴にでも任せておけばいいのである。

 ああ、さっさと帰るのだ。

 帰って、とにかくこの生臭い泥にまみれた体をシャワーで流して、清潔な服に着替えるのである。そして親が帰ってくるまでの時間、何もかもを忘れるために大好きなアニメでも見ればいい。そうだ、昨日配信された『ニートだけど異世界転生したらレベル9999の無敵でした』の第四話でも見よう。昨日はまさに神回だった。ヒロインのレイミちゃんのお風呂シーンは最高に可愛かったのだから。何度見ても飽き足らない。そうだ、自分にはそういう穏やかな日常が相応しい。それで充分だ。異世界なんぞに行けなくたって、今の生活が続けられたならそれで良かったではないか。


「!」


 しかし。現実逃避をした次の瞬間。善一の期待を裏切るように、エレベーター内の明かりが明滅したのである。


「え?」


 エレベーターが、下に動き出す気配はない。機械音の代わりに聞こえてくるのは、ぺちゃぺちゃぺちゃ、という小さく濡れた複数の音だった。先ほどの化け物の重たい足音とは、違う。しかし、まるで何かが壁の向こうをぺちゃぺちゃと細長い舌でなめまわしていでもいるような、非常に気色悪い音である。


「な、なんだよ、なんだよお……!」


 灰色のエレベーターの扉。銀色の文字盤。そして、茶色の四角い壁と、白いライトの天井。それらをぐるぐると見回していた善一は、やがて音が予期せぬ方向から聞こえてくることに気づいたのである。

 そう。足元から。


「!?」


 振り返り、エレベーターの左隅を見た男は気づいた。灰色のタイル、その隅から何か白いものが蠢きながら這い出してきていることに。

 それは、自分の知識が間違っていないなら――蛆虫と言うべきものだった。

 大量の蛆虫が、まるで水が漏れるようにエレベーターの隅から溢れ出し始めたのである。最初はその一か所だけだったのが、次第に残りの三隅からもじわじわと這いだしてくるようになった。もちゅもちゅもちゅ、という濡れた音と共に、まるでそこに巣穴でもあるかのように湧き出してくる膨大な数の、蛆虫。ぞわぞわぞわ、と生理的な悪寒が善一の背中を這いあがった。


「な、なんだよ、何だよお前ら!や、やめろよ!こっちくんじゃねえ!!」


 四隅から攻められては、逃げる場所などあるはずがない。何でエレベーターに蛆虫が沸くなんて事態になるのか。何でエレベーターは一階に向けて動き出さないのか。一体何が、どうなっているのか。

 混乱のまま、善一はとにかく虫を退治しようと蛆虫を踏みつけることを試みた。それが良くなかった。ぶちゅり、と足の裏にぬめった気色悪い感触が広がる。蛆虫は簡単に潰れた、が。そもそも相手の数が多すぎたのだ。

 被害を免れたそいつらが、群れの中につっこまれた足をこぞって這い上がり始めたのである。


「ひいいい!や、やめろやめろやめろおお!」


 慌てて手で振り払おうとすれば、腕にもびっしりとそれははりついた。振り回して蛆虫が飛び散れば今度はシャツにも、首にも、そして顔にも。あっというまに、大量の蛆虫が男の体中を這い回り始める。しかも悪夢はそれだけでは終わらない。そいつらは、ズボンの中や下着の中にまで侵入し、素肌の尻や股間までをまさぐり始めたのである。ぐい、とあらぬところに異物感を感じて絶叫した。蛆虫たちはなんと、男の肛門や尿道にまで首を突っ込み始めたのだ。


「い、痛い痛い痛い痛い!や、やめ、やべぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ!」


 叫び声は、すぐに塞がれた。顔まで這い上がってきた蛆虫が口内に、鼻に、耳に、眼にまで侵入してきたからである。激痛、吐き気がするようなぬめった感触と味、そして気道さえ塞がれて息さえもままならなくなる。


「ううううううううううううううう!」


 立っていられなくなり、その場に崩れ落ちた。眼球を塞がれて視界も真っ暗になり、もぞもぞという気持ち悪い音を最後に鼓膜も破られて音さえ聞こえなくなる。手足を滅茶苦茶に動かし、どうにか苦痛から逃れようともがくしかなかった。尿道に侵入した蛆虫は狭い尿道を引き裂き、性器を破壊し、さらにはその先の臓器をも破壊する。肛門の方も同じ。虫を詰め込まれた腹が弾けそうなほど膨らんでいくのがわかる。きっと内臓も喰い散らかされているのだろう、と口いっぱいに虫を頬張りばりながら思う。


――た、助けてくれ。嫌だ、嫌だこんな死に方……嫌だああああ!


 膀胱も腸も胃も肺も眼球も。何もかもを食い散らかされる激痛に悶え苦しみながら、森村善一は絶命した。

 一体己が、何に殺されるのかもわからぬままに。

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