僕はただ君の未来を祈ってる
@Niratsuyu
第1話 「日記」
生きていることが正解だなんて誰が決めたのだろうか。
世界はこんなにも明るいんだとか、努力は報われるんだとか、私にはそうは思えない。
高校から配布されたプリントを無気力に持ちながら、そんなことを考えていた未希(みき)は重い足取りをなんとか上げながらリビングへと降りた。
「今回はどうだったのかしら?」
ピンクのエプロンに身を包みながらご機嫌な声をあげる母。そんな彼女の姿に溜め息が出そうになりながらも未希はしぶしぶプリントを見せる。
「はいこれ。」
今にも歌い出しそうな母を横目に未希は、せめてオタマを置いてから行動して欲しいと心の中でボヤきながらプリントを渡す。
「みきちゃん。」
母の声が冷たく視界を濁らせる。また始まった。いつものことだ。
「これは一体、誰の紙切れなのかしら?」
紙切れじゃない。答案用紙だ。
そう反論したい言葉をぐっと飲み込みながら母の方を見つめる。
「はぁ...まったく。」
空気が変わるのが分かった。温かく柔らかい雲が一瞬にして冷たいナイフに変化するように。
母の目は鋭く突き刺すように私を見つめている。
「89点ってなによ。11点も落としたの?」
ヒステリックを例えるなら我が家の母を見せれば瞬時に理解されるだろう。それほどまでにこの声は脳を突き破るのだ。
「こんな成績じゃ良い大学なんか行けないのよ!」
分かってる。けど分かっていても納得しているわけじゃない。
良い大学が人生の幸福度と完全に比例するわけじゃない。そんなことよりも私にはやりたいことがあるのだ。
このままの成績では母の望む大学へは行けない。私はそれで良かった。私は良い大学なんて望んでない。
私が行きたかったのは___
「未希〜!早く行こー!」
教室の外から彼女の声が響く。早く部活に行きたがっているのだ。
彼女の名前は夢乃(ゆめの)。出会いはまだ未希自身も幼い小学生の頃だった。
昔から絵を描くのが好きだった未希は毎日机に向かっては、母親の監視から逃れるために勉強のフリをして絵を描いていたものだった。
しかしそれは小学校でも同じ。
「おひめさまだから、ぴんくかな...」
いつもと同じように教室の端っこでノートに絵を描く。それが彼女にとっての日常だった。
「それなあに?」
突然振りかかってきた可愛らしい小さな声。けどそれは未希の耳にはっきりと届いた。
まだ幼い未希はその声にドキリとしながらもゆっくりと顔を上げる。するとそこにはクラスメイトの女の子が立っていたのだった。
「しょうかいする!これは私のミミちゃん!」
そう言うといきなり自身の自由帳を高々と掲げながら謎の絵を見せてくる少女。それを見て未希は困惑した。
(''ミミちゃん''という動物らしき胴体。長い耳と赤い目からおそらく答えは兎で間違いはない。)
この時の観察力は、ゆうに7才児の最高潮に達したといえるだろう。
未希はそれを確信すると口を開いた。
「...うさぎさん、かわいいね。すごく。」
声も震えただろうか。未希が恐る恐る彼女を見上げると、意外にもそこには満面の笑みがあった。
「ほんとに!うれしい!」
ぴょんぴょんと兎みたく跳ねる度に名前のプレートが揺れる。普段から人の顔色を損ねることだけが怖かった未希はそれを見てただひたすらに安堵した。
(「ゆめの」...っていうんだ。)
その時、偶然目に入った文字が未希にとって最初の友達だった。
二人は中学も高校も共に進級し、同じ美術部へと入部した。絵について日々切磋琢磨し合う毎日。それは十年経った今でも変わらず未希の元へと届けられるのだった。
「未希!顧問の先生にも言ってあるからさ、早く行って練習しようよ!コンクールの作品!」
指で美術室の鍵を回しながら笑う夢乃はまるで自分とは対極の位置にいるようだ。しかし、そんな彼女にまたつまらない言葉で返すのも未希にとっては辛いものだった。
「せっかくなんだけどね、今日の授業で分からないとこあったから、先生に質問して来てからでもいいかな。」
申し訳なさそうに俯くことしか出来ない。
周りにたくさんの友達がいてキラキラとした毎日を送る夢乃を間近で見てきた未希は、日を増すにつれて彼女の目を見ることが怖くなっていた。
「また質問?まったく優等生だなぁ。」
何気ない言葉が胸を抉る。『優等生』なんて言葉なんか、いっそのこと無くなっちゃえばいいのに。
「まぁいいや!その間に私はどんどん差つけちゃうからね〜」
彼女の言葉が全部痛みに変わる。
悪気がないことは分かってるはずなのに、それでも未希は自分の立ち位置に苛立ちを感じながらも彼女を羨むことしか出来なかった。
「それで、みきちゃんはどうするつもりなの?塾のコマ数も増やすべきなのかしら?」
母の言葉で我に返る。塾の事を考え直しているらしい。けど未希にとって、そんな心配はただの障害物でしかなかった。
「私は...」
塾に行きたくなんてない。
「やっぱりママが管理してないと駄目な子なのよね。」
母親のナイフが何度も私の胸を刺す。違うんだよママ。私には、まだやりたいことがあるのに。
私は、私が行きたかったのは_____
(「美術大学なんて駄目よ。ちゃんと勉強してるんだからしっかりした大学に行きなさい。」)
母から言われた言葉がフラッシュバックする。
奪われた選択肢を目前に未希は毎度諦めるしかないのだった。
「分かったよ。次は頑張るから。」
振り絞って出した答えはそれだけだった。
「頑張るだけじゃだめなのよ。ママは満点の答案が見たいんだから。良いわね?」
そこまで言うと母はキッチンへと戻って行った。
(今日の夕飯は抜きかもな...)
なんとなくそう感じた未希は静かに自室へと入ってから溜め息を付く。それと同時に机の上に置かれた赤い過去問題集が目に入った。こんな物ただの毒だ。
「私もこの人形と同じなの...」
本棚に飾られた一体の操り人形も目に入る。手足は紐で繋げられ頭や銅から伸びた紐が固定の針金から吊り下げられている。
「惨めな人形...」
言いようもない感情が胸を覆い尽くす。
いっそこのまま消えてしまおうか。
「こんな人生つまらないな_____」
気づくと未希は窓の縁に脚をかけていた。
その瞬間、未希の横を何かが通り過ぎた気がした。微かに聞こえたブーンという音から少し不快感を覚える。
「え。なに、もしかして虫?」
振り返ると小さな赤い虫が本棚にとまっていた。虫は誰しもが苦手ではあるかもしれないが、未希の場合小さいものであれば捕まえることが出来た。
脅かさないように本棚へと近づく。
「なんだ。てんとう虫か。」
七つの斑点を纏ったその虫は小さな本に懸命にしがみついていた。その姿に少し愛着を湧かせながらも未希はあることに気がつく。
「こんな本、置いてたっけ。」
よく見ると古い本だ。見覚えのない一冊の本。
「なんだろう。これ」
呟きながら徐ろに手を伸ばす。しかしそれと同時に再びてんとう虫が窓の外へと飛び立ってしまった。
「あ、待って。」
未希は思わず声を出した。しかしもうその虫は消えてしまっている。ただその代わりに彼女の前には藍色の夕日が立ち込めているだけだった。
「まぁいっか。」
未希は諦めて先程手に取った本を見つめる。
____懐かしい。
不思議とそんな感情を抱いていた。何故だかは分からない。昔読んだことでもあっただろうか。
未希は自分の感情に疑念を抱きながらも再び表紙を見つめ直す。
「『未来の貴方へ。』か、どんな内容なんだろ。」
ページをめくるとそこには優しい筆跡があった。そして未希はあることに気が付く。
「日記...?」
日付けが書かれている訳じゃない。けれど本にしては成立しない程の手書きの文字が羅列しているのだ。
「おばあちゃんが書いたやつかな...」
見るからに母の筆跡ではない。もちろんこれは父のものでもないだろう。未希は興味本位でその日記を読むことにした。
「これから記す内容は、嘘のようで本当に起こった、私と貴方への物語です__
この一文が何を意味しているのかはまだ分からない。
しかし後に未希にとってその日記は、悲しく優しい、衝撃的な時間となるのであった。
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