405号室の鍵

柴山ハチ

405号室の鍵

「あの、空いてる部屋、ありますか」

 深夜を少し過ぎた頃、佐々山はくたびれた顔で、短い黒髪からぽたぽたと雨水を垂らしながら尋ねた。喪服のスーツには雨が染み込みずしりと重い。古びたホテルのロビーは佐々山と支配人しかいなかった。きっちりとネクタイを締めた初老の男性は、眉を下げながら今夜は満室である旨を告げた。

「終電で寝過ごした上に、この天気で困っているんです。この辺りは店も早くに閉まってしまうみたいで、行く場所もなくて。携帯の充電も切れてしまったんですよ」

 滔々と自らの苦境を述べる佐々山であったが、支配人は迷惑そうな顔一つ見せることなく、ただ申し訳なさそうに言った。

「大変でしたね。しかし今日は団体様のご利用中でして」

「ここが無理ならこの近所に、他に泊まれそうな所はないでしょうか」

「この付近の宿泊施設は、当ホテルだけにございます」

 佐々山はがっくりと肩を落とし、ずり落ちそうになった重い肩掛け鞄の紐を手に持ち替えた。ロビーを見渡し、大きな窓際に置かれたソファを指差した。

「もう、そこでもいいんですけど」

 広々とした四角いソファはいくつかつなげて並べられており、大人一人分くらいの寝床にはなりそうだった。雨の中駅から彷徨いつつなんとかホテルに辿り着いた佐々山にとって、肉厚なソファはひどく魅力的に映った。

「申し訳ありません」

 支配人は頭を下げた。丁寧な対応ではあるが、取りつく島もない。それはそうだ。非常識なことを言っている自覚はある。

佐々山は名残惜しそうな背中を見せながら、のろのろとフロントを離れた。角を曲がり、ガラス扉の取手に手をかけ入り口から立ち去ろうとする。

こんな嵐の中放り出されて、どうしたらいいんだろう。駅前の雰囲気的にネットカフェはなさそうだった。せめてどこかファミレスでもあれば。それかイートインスペースのあるコンビニ。そうなると徹夜か。きついな。でもどのみち仕事終わってないし作業するから徹夜には変わりない……

「お客様」

 佐々山が横を見ると、奥まった通路の方に人影が見えた。非常階段へ続く扉が開かれており、緑の誘導灯の灯りを受けながら若い女性が一人立っている。上等そうな黒いワンピースを着て眼鏡をかけたその人は、佐々山のずぶ濡れの装束を見ると、苦笑いをした。

「今晩は台風が通り過ぎるまで、屋内にいた方が良いかと思われます」

「でも、空きがないって」

「良ければ普段使っていない部屋が一つあるので、そこで過ごされては」

「それはぜひ! 助かります」

 佐々山は降って湧いた希望に、現金にも普段は特段信じていない神に向かって感謝した。さっきまでの疲れの滲んだ表情が嘘のように、ぱっと顔を輝かせる。

女性は微笑むと、番号が刻まれたキーホルダーのついた鍵を一つ渡し、後ろの階段で四階へ上がるようにと伝えた。佐々山は怪訝な顔をしてロビーの方を指差しながら女性に尋ねた。

「エレベーターはだめなんですか?」

「点検中でして」

 キーホルダーを見ると、部屋番号は四〇五。つまり四階。

 階段で上るのか、四階まで。

 正直苦行だが、背に腹は変えられない。

「わかりました。ありがとうございます」

「いえいえ、何かあったらフロントの人に言ってやってくださいね」

 女性はにこやかにそう言うと、階段に向かう佐々山を見送った。

佐々山は息を切らしながら薄暗い非常階段を四階まで登った。三十を越えたばかりの体には堪える。それでも嵐が吹き荒れる駅前で野宿よりはましだろう。四階の非常口の鍵は空いており、すんなりと中へ入ることができた。廊下には赤いカーペットが敷かれており、一歩ごとに革靴が沈み込む。泥で汚れた靴で歩くのが申し訳なくなるほど、しみひとつなく清掃されていた。両側にはダークブラウンの木製の扉が並んでいる。扉には部屋番号の刻まれた真鍮のプレートが取り付けられており、佐々山はもらった鍵の番号を探しながら奥へ進んでいった。

 四〇五、と書かれた部屋はすぐに見つかった。鍵を鍵穴に差し込み捻ると、がちゃりと音を立てて開いた。

 部屋の中には洗面所とシャワー室のほかにシングルベッド、窓際に寄せられたテーブルと椅子があるだけだった。テーブルの上にはガラスの灰皿が一つ。うっすらと煙草の残り香を感じる。テーブルと椅子はアールデコを模したようなデザインで、その下にはペルシャ柄の絨毯が敷かれている。ベージュの壁紙は若干タバコのヤニで黄ばんでいた。全体的に今どき珍しい古風な内装だったが、どこか高級感があった。普段使われていないと言っていたが手入れはされているらしく、綺麗に片付いている。

 佐々山は鞄から取り出した充電機を枕元のコンセントに差し込み、携帯を繋いだ。フォン、と小さな音を立てて携帯画面にバッテリーのマークが表示される。

熱いシャワーを浴び、ベッドの上に置かれていた寝巻きに着替えると布団の上に寝転がった。ふわふわの羽毛布団に身体が沈み込み、思わずため息が漏れる。

手を伸ばして携帯の画面を見て目を見開く。着信履歴、十件。全て同じ番号だった。かけてきた主の名前は編集者の三文字。

 折り返し電話を掛けながらコール音を聞く佐々山は、落ち着きなく目を泳がせていた。しばらくして電話に相手が出るやいなや、謝罪の言葉を繰り返す。

「申し訳ありません、こんな時間に。連絡したかったんですけど、さっきまでいた場所が山奥なせいで電波も悪くて。Wifiもなかったんで詰みました」

「何してたんですか」

「あー、いや、急な親族の葬式で。法事って長いですよね。親戚との飲みもあるし……」

「なるほど、飲んでる時間はあったんですね」

 数秒の間、二人の間に沈黙が流れた。

「しばらく進捗報告がなかったでしたけど、どうですか進み具合は」

「今日データを送るはずだったんです。すみません」

 蚊の鳴くような声で謝りながら、佐々山は嫌な予感が脳裏をよぎり、そっと問いかけた。

「締切って明日でしたっけ」

「昨日でした。原稿、できてるんですか」

「……今から書きます」

「私、明日の九時に出勤なんです。まだ八時間くらいありますね」

「間に合わせます」

 圧を感じさせる相手の口調に、佐々山は思わず断言してしまった。その返答に満足したのか、呆気なく電話は切れた。

 佐々山は鞄からキーボード付きタブレットを取り出した。ベッドの上で壁に背を預けながら膝を立て、その上にタブレットを開いてキーボードに指を乗せる。文章作成ソフトを開いたが、新規作成したページは数分経っても真っ白のままだった。

 タブレットを放り出し枕に顔を埋めてうめいたが、アイデアが閃くことはなかった。イメージが先行する佐々山にとって、最初に浮かぶ情景は不可欠なものだった。ここしばらく別の短編集に取り掛かっていたこともあって、ネタ切れだ。

 間に合わなかったらどうしよう。どやされるくらいで済めばいいが、下手をすると次の仕事に関わる。

けれどふかふかの布団に体を沈めた佐々山は一夜の宿を確保できた安堵もあってか、自らも気付かぬうちに眠りの中に落ちていった。


 はっと目を覚ました。携帯を見ると、時刻は午前三時。

 寝過ぎたが、まだ間に合う。急いで体を起こすと、佐々山はベッドからずり落ちていたタブレットを拾って膝の上に開いた。何か夢を見ていた気がするが、思い出せない。なんだかとても怖かった様な気がする。不意に一人でいることが心細くなって、心を鎮めるためにタブレットの電源を入れた。

 白い画面を見つめていると、ふとイメージが浮かんだ。灰皿、血痕、コンクリートに沈められる黒髪の女性の姿。

 少し寝たのが効いたらしい。今なら書けそうだ。

 古風なこのホテルに触発されたのか、いつもの作風とは違いレトロな雰囲気のサスペンス作品だった。それでも書くネタがあるだけ良いだろう。

 アイデアが逃げないうちに文字を打ち込んでいく。その物語は、あらかじめ筋書きが決まっていたかのように紡ぎ出された。


 舞台は昭和の後期。名家の令嬢だった女性は、見合いにより良家へ嫁いだ。けれど夫は仕事にかまけ、家庭のことは顧みない性分だった。姑とも折りが合わず、女性はたびたび家を空けては近場へ旅行に行くのが趣味になった。偶然とある田舎町のホテルを訪れた時のこと。近辺に観光地もなく、暇を持て余した女性はそこの若いベルボーイと恋仲になり、逢瀬を重ねることになる。

 そのことに気づいた女性の夫は不倫の現場を押さえ、狭いホテルの一室は混乱を極めた。

 夫は持ってきた凶器で妻を刺そうとしたが、ベルボーイが咄嗟に側にあった灰皿を夫の頭に振り下ろした。殺すつもりはなかったが、打ちどころが悪く夫はそのまま倒れ動かなくなった。事が露見することを恐れた妻にベルボーイはある提案をする。今ホテルの地下は工事中で、使用しなくなった古い浴場を埋め立てるためにコンクリートを流し込んだところだ。そこへ隠してしまおう。

 彼はシーツを運搬するためのカートに重い体を詰め、上からシーツの束を載せた。何食わぬ顔で二人はエレベータに乗ると地下へと運んだ。深夜だったため誰にも鉢合わせることなく、死体の隠蔽は行われた。けれど作業も終盤に進んだ頃、死んだと思われていた夫は息を吹き返した。二人は夫の頭をコンクリートの中へ押し込み続け、やがて動かなくなるとさらに奥深くへと沈めた。

ようやく仕事が終わりベルボーイは一息ついたが、女性は自ら夫の死に加担した負い目からか自主をすると言い出した。そんなことをされては彼も刑を免れない。灰皿で殴っただけなら、相手も凶器を持っていたことだ。苦しいがまだ正当防衛で通ったかもしれない。けれどたった今、確実に息の根を止めた。しかも死体を隠匿しようとした罪にも問われるだろう。

彼は必死に女性を説得しようとしたが、人一人殺したことによる葛藤が彼女を苦しめていた。灰色に染まった手で半狂乱になって黒髪を掻きむしる姿は、まるで別人のようだった。甲高く喚き立てる声に、彼の正気も徐々に蝕まれていく。

彼は女性が背を向けた瞬間、自らのネクタイを解き彼女の細い首を絞めた。しばらく抵抗していたが、やがて力を失った彼女の両手はだらりと垂れた。彼はコンクリートの中に二つ目の死体を沈みこませる。徐々に灰色のコンクリートに蝕まれる黒いワンピースの上に、さっき揉み合った際に落ちて割れた彼女の眼鏡も一緒に放り込んた。


 執筆に没頭していると、急に机の角に置かれていた灰皿が落ちた。記憶が確かなら、そんなに端には置いていなかったはずだ。重量感のある鈍い音がやけに部屋に響いた。

狭い部屋の中には、自分の他は誰もいない。

じっと見つめていると、なぜか風もないのにカーテンがわずかに揺れていた。エアコンもつけていないはずだ。カーテンの隙間から暗い窓の外が見える。雨音に混ざって川の音も聞こえた。水音を聞いていると、黒い髪をべったりと顔に張り付かせた女がコンクリートの池から這い上がり、窓の外に張り付くようにして立っているところが脳裏をよぎった。

やめろやめろ。こんな一人でいるときに無駄な想像力を働かせるんじゃない。そういうのは仕事に使え。

恐る恐るベッドから降りて灰皿に近づいた。下のカーペットをよく見ると、そこにはコーヒーをこぼしたかのような黒い染みが


「わっ、ここで何してるんですか!」

 急に響いた大声に、佐々山は目を開けた。ベッドの上で座ったまま眠っていたらしい。ばきばきに凝った背中を伸ばして顔を上げると、ホテル従業員の制服を着た女性が、ぎょっとした顔で佐々山を見ていた。

「えっ、えと」

 状況が飲み込めない佐々山を残し、女性はシーツの塊を落とすと走り去っていった。

 周囲を見渡すと、積み上がったシーツに、ダンボールの山。かろうじて座っている場所だけは空いているが、佐々山は自分が倉庫のような部屋の中にいることに気づき唖然とした。寝巻きに着替えたはずの服も昨日のままで、黒いスラックスの裾にはところどころ泥が跳ねて白く乾いている。シャツからは乾いた雨と汗の混じった嫌な匂いがした。

慌てて膝の上で開いたままのタブレットの電源を入れる。映し出された文字列に安堵の息を吐いた。そこには昨夜書いていた小説のデータがそのまま残っていた。

周辺を探ると鞄はすぐに見つかった。コンセントに差されたままの充電器に繋がった携帯もあった。これで持ち物は全部揃っている。泥だらけの靴もベッドの下に転がっているのが見える。

佐々山はかき集めた持ち物を鞄に詰めながら考えた。

一体何があったのか。記憶ははっきりしており、昨夜の出来事が全て夢だったとは思えない。そもそもここに入れたのは、鍵をもらったからだ。

あの女性、眼鏡をかけていたのは覚えているが他が思い出せない。どんな顔をしていたっけ。てっきりここの職員だと思ったけれど、違ったのだろうか。少なくともさっきの人ではなかった。

 しばらくすると、さっき逃げ出した女性が昨日フロントで会った初老の支配人を連れてきた。彼は動揺することなく、丁寧な物腰で佐々山に話しかけた。

「お客様、ここは倉庫ですのでお入りになられると困ります」

 ベッドの上に座ったままだった佐々木は、思わず崩していた脚を正座に直して向き合った。

「すみません。でも勝手に入ったわけじゃなくて。昨日、非常階段の前で眼鏡の人に鍵をもらったんです」

 その言葉に支配人はわずかに眉を上げると、部屋の中を見渡した。

「その鍵はどこにありますか?」

 佐々山が見渡した限りでは、鍵は見当たらなかった。結局その場にいた三人で部屋中をひっくり返すかのように探したが、四〇五号室の鍵は出てこなかった。

「なかなか見つからないなぁ」

「そんなに目立つものでもないですからね」

 女性職員が愚痴ると支配人も同意した。けれど積まれたシーツの隙間を探りながら佐々山は首を傾げた。

「そうですか? 結構大きいキーホルダーがついてましたけど」

「キーホルダーですか」

 二人に怪訝な顔を向けられて、佐々山は動きを止めた。

「何か?」

 支配人がドアの方を指差した。

「やはり変ですね。このホテルの鍵は全てカードキーに取り替えてあるんですよ」

 

この状況では狂言を疑われても仕方がなかったが、もう何も信じられない、と顔色が真っ青になった佐々山に同情したのか、支配人が警察に通報することはなかった。その上、佐々山をバックヤードの休憩室に連れて行くとお湯を沸かし、カップに入れた紅茶を振る舞ってくれた。茶葉から淹れたお茶の香りは部屋の中を漂い、心を落ち着かせた。渡されたカップを手に一口啜ると、温かさが冷えた身に沁みる。

佐々山の前に腰を下ろすと、彼は胸元の名札を示してから話し始めた。

「私、原田と申します。このホテルに勤めてもう四十年以上になるのですが、鍵を渡した女性について少し心当たりがあるような気がします。まだ新人だった頃の話ですので、与太話だと思って聞いてください」


 原田の語った内容はこうだった。

 四〇五号室に昔、とある夫婦が宿泊し忽然と姿を消したという。現場には夫の血痕と凶器と思われる灰皿が残っていたが、妻の姿はどこにもない。噂によると夫に嫌気がさしていた妻は、夫を殺して死体を隠匿したのではないかという話だ。けれど妻の行方は警察にもわからず、夫の死体も見つからないままに事件は迷宮入りしてしまった。


「そして後日談がありましてね」


 四〇五号室に足を踏み入れた客は、深夜になるとフロントで口を揃えてこう言う。

『四〇五号室なのですが、何か嫌な感じがするから部屋を変えて欲しい』

 何かとは何か、と問いかけるも夢見が悪いのだとしか返ってこない。しかもその夢を誰も覚えていないのだという。それでも夢の残滓に悩まされ、皆フロントのベルを鳴らすことになる。


「まぁ、実際にいわくつきですから、あの部屋はお客様に貸し出さないことにしているのです」

 話し終えると原田との間に沈黙が訪れた。佐々山は昨夜書いていた小説を思い出し、一度温まったはずの体に寒気が走るのを感じていた。

 筋書きが、ほぼ同じではないか。

 いや、死体を隠蔽した支配人の男が出てこない。これは自分の想像だ。夫を殺した妻も、現実の方では行方不明という結末だ。後日談だという部屋の話も書いてはいない。

 でも自分が書いたのは犯人目線の話だ。外から見たなら、原田の話の通りになるだろう。それに部屋での夢見の悪さは佐々山にも若干覚えがあった。けれど、単純にいい小説のネタが見つかったと今まで気にしていなかっただけだ。

「ホテルのオーナーが呼んだ霊能者にも見ていただいたんですが、その夫妻の思念が残っているだとかなんだとか要領を得なくて」

「でも行方不明っていうだけでしょう。生きているかもしれないじゃないですか」

「どうでしょうね」

 原田は紅茶の入ったカップを傾けた。

「話が長くなってしまいましたね。紅茶のおかわりはいかがですか」

「あっ、大丈夫ですので」

「そうですか」

 原田はカップをソーサーに置くと、何気ない様子で尋ねた。

「あの部屋で、何か見ましたか」

 佐々山は昨夜の様子を思い起こした。一体何から説明すればいいだろう。

「普通の部屋だったんです。自分が入った時は」

「普通」

「物置とかじゃなくて、ベッドとテーブル、椅子があって」

「他には?」

 あと灰皿。そう言いかけて絨毯の黒い染みを思い出した。

 目の前の丁寧な物腰の初老の男性。四十年前なら、当時二十代だろうか。

原田の言葉を思い出した。

『鍵を渡した女性について少し心当たりがあるような気がします』

そもそも自分は、眼鏡の人から鍵をもらったとしか言っていない。女性だとは一言も。

そもそも、なぜ彼はこの話を自分にしたのだろう。

今の質問はまるで、自分が何を見たのか探るために誘導されていたような気さえする。

『何かあったら、フロントの人に言ってやってくださいね』

 あの女性の言葉を思い出す。ぞわりと、背筋が粟だった。

謎のあの女性も、現実に目の前にいる原田も、急に恐ろしく感じた。

殺された女性はベルボーイを恨んだだろうか。

犯人のベルボーイは、被害者の埋まったホテルを離れることができたのだろうか。

全部ただの想像だ。考えすぎかもしれない。いや、でも。

佐々山は緊張で両手で関節が白くなるほど鞄を握りしめた。紅茶と話の礼をもごもごと述べると、逃げるようにホテルを離れた。原田は引き止める様子もなく、ただ座ったまま佐々木をじっと見送った。

 昨日の嵐が嘘のように、青い空は雲ひとつなかった。ホテルから離れたところで振り返ると、街並みの中にあっても重厚な造りの建物は目立っていた。あのホテルにコンクリで地面が固められた地下室はあるのだろうか。

 駅の方角を向いて携帯の地図アプリを立ち上げる。昨日は雨の中迷いながら歩いていたためホテルまでの道のりは遠く感じたが、実際は駅からそれほど離れてはいなかった。アスファルトの道を歩きながらじりじりと首筋を太陽に焼かれていると、ようやく本当の現実に戻ってきたような気がした。

無人の改札を潜って駅のホームの椅子に腰掛け一息つく。佐々山は向かい側のホームを眺めながら原田との会話を思い出した。


『事件の結末は、どうなったんですか』

『結局何も出てこなかったようで。迷宮入りのままです』 


 鍵を渡してきた女性。考えてみてもやはり曖昧としたイメージが浮かぶばかりで、顔は思い出せなかった。膝の上に置いた黒い鞄を見つめる。中には原稿の入ったタブレットがある。

自分は、あの女性にこの話を書かされたのではないか。誰かに真相を伝えるために。けれどこの話が事実だとしても、もはや四十年以上前の話。時効だろう。

とにかく今はお化けよりも犯人よりも、編集者の方が怖い。駅のホームに下がった時計を見ると、既に約束の九時を過ぎていた。

 日に焼けてひび割れかけた椅子に腰掛けながら、鞄から取り出したタブレットを開く。携帯はさっきから鳴りっぱなしだ。着信音をBGMに、できる限りの速さでキーボードに文字を打ち込んでいった。昨日書いた文章を骨組みにして、細部の描写を加えて肉付けをしていく。部屋を訪れた客たちの後日談も盛り込んだ。一通り描き終わると、余計な文章を削って誤字脱字をチェックしながら仕上げに入った。

何本もの電車を見送り、原稿が仕上がった時には十二時を少し過ぎていた。その頃には諦めたかのように携帯は静かになっていた。訪れた静寂に一抹の恐怖を感じつつ、佐々山はざっと文章に目を通すと、出来上がったばかりの原稿データを編集者に送信した。


 佐々山の書いた短編は、雑誌には載ったものの特に話題になることもなく流れていった。単行本に掲載する予定も今のところない。あのホテルや失踪事件についてネットで調べたものの、特に知っている以上のことは何も出てこなかった。本当に地下室があるのかだけ確かめに行きたい気持ちもあったが、幽霊であろう女性はともかく、生きている方の原田に再会してしまうのは確実なので足を踏み入れる勇気が出ない。

日々の生活に追われてホテルでの記憶も薄れた頃、編集部に一通の手紙が届いた。佐々山宛だったその封筒は編集者を経て渡されたが、その時に妙なことを言われた。

「佐々山さん、そういえば怪文書が届いてますよ」

「そんなもの渡さないでください。何のために中身チェックしているんですか」

「そんなにヤバいやつじゃなさそうだったんで、小説のネタになるかなと思って」

 渋々受け取ったそれは、A4サイズの茶封筒だった。切手は貼られていない。その中には例のホテルが近いうちに取り壊されるという、おそらく近隣住民に向けられた工事についてのチラシが入っていた。裏面を見ると、細い鉛筆で薄く引っ掻いたような文字で『これはあなたに』というメッセージが書かれている。

同封されていた小さな白い封筒の中にはあんなに探したのに出てこなかった、四〇五号室の鍵が入っていた。キーホルダー付きの。

十分ヤバいやつだろ。

突如日常の中に現れたいわくつきの品に佐々山の顔は引き攣ったが、処分する勇気もなく今も机の中にしまわれている。

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405号室の鍵 柴山ハチ @shibayama_hachi

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