あなたに訪れない涅槃
草森ゆき
竜胆
1
手を打ち鳴らせばすぐに目覚める。おしまいとはじまりの合図として長年愛用している手法だ。息をついてから見渡すと部屋の中は大量の本で埋め尽くされていて、いくつもの花束が玄関先に転がり死んでいた。
クランクアップ。おやすみ俺。それからおはよう。
「古本屋行かなきゃなあ……」
もう必要のない書籍の山を眺めながら俺は呟く。
いつもこうだ、目覚めればそれまでの人生が不要になる。俳優を始めた十年前からなにひとつ変わらない。
今回引き受けた役柄は小説家だったため、部屋に山ほど本を溜め込んでしまったようだった。
純文学を愛している、うだつの上がらない小説家らしかった。イメージは太宰とか芥川とか、そういう危なっかしい方向性だと脚本家と監督が言っていた。
その後のことは忘れた。わかりましたーと返事をして、脚本を読んでから目を閉じて、手を打ち鳴らした瞬間に俺は小説家の男になったから、それ以上でも以下でもない。ただ、元々イメージしやすい役柄だったとは思う。太宰に芥川というモデルが存在していたし、比較的簡単に役の男にはなれた。
公開は半年ほど後だ。スマートフォンには様々な通知が溜まっている。役になったあとは役以外の生活ができないから、報連相はすべてマネージャーに丸投げしていた。
俳優仲間や芸能関係者の通知は無視してマネージャーのメッセージだけをまず広げる。お疲れ様でしたという簡素な労いの後に、次の依頼一覧ですというわかりやすいリストが貼られている。
有能で助かる。俺のやり方だと同時撮影は不可能だし、役になれるかわからないものは省くしかない。
リストには色々な映画や舞台のオファーが並んでいた。舞台は基本的にやらないためひとまず省く。それから映画へのオファーを役柄の規模は問わずに一通り眺めた。
俺の目は途中で止まった。
「……始末屋?」
普段ならスルーしていたと思う。漫画か小説の実写化によって発生した、現実にはなさそうな職業の役柄だ。
でも俺の目はそこに留まった。後からわかったことだけど俺は、オーケストラの団員の役をやった時にその職業を偶然目にしていて、だから目が止まっていた。
おはようとおやすみの回路の中に消えなかった欠片があるなんて思ってもみなかった。
久々に顔を合わせたマネージャーは意外そうにしながらアイスコーヒーを一口飲んだ。
「始末屋の役、請けるんですか?」
「あーうん、なんとなくいけそうかなって」
「まあ……
よろしく、と言いながら柔らかい背もたれにもたれかかる。店内はそれなりに人がいるものの静かだ。ゆったりとしたクラシックが流れている、かと思ったがピアノアレンジされた昔の流行り曲だった。普通にクラシックが流れている方が多いため珍しい。
マネージャーとの打ち合わせによく使う喫茶店だ。お互いの棲家のちょうど真ん中辺りにあって、使いやすい。あとチョコパフェがけっこう美味かった。でもなぜか一人ではあまり来ない。役と俺の中継地点のような気もして、足が向かないのだろう。
マネージャーは映画の公開時期と、宣伝用のインタビューやテレビ出演についてのスケジュールを話した。別の役柄になってしまう前にと詰め込んだ予定だったが、特に問題ないので了解した。彼はほっとした顔で頷いている。どうも忙しいようだ。
先に喫茶店を出た姿を見送った。俺はせっかくなのでチョコパフェを食べてから店を出た。
のろのろと駅まで歩く途中、マネージャーからリンクが送られてきた。
始末屋の役柄がある作品は小説のようで、その電子書籍のリンクだった。
「……あなたに訪れない涅槃」
タイトルを読み上げた瞬間に、ぞわりと背筋が粟立った。
振り向いたのは反射というか無意識というか、細胞の命令みたいなものだった。
俺の目は長髪で長身の男の姿を捉えた。普通のサラリーマンのようなスーツを着たなんの変哲もない男だったけど、追い掛けた。
追い掛けながら俺は軽く手を叩いた。かなり前に寝かせたストーカーの役柄を無理やり起こして、意識は持っていかれないように半覚醒にどうにか留めて、スーツの男を気付かれないようにひたすら追った。
正解だったけど、不正解だった。ストーカーと共有してぼんやりしながらも、俺はスーツの男が何をするのかを見届けた。
男は人を殺していた。何食わぬ顔で、無感動に、背後から忍び寄って相手の首をへし折った。
始末屋。いや、殺し屋? どちらでも良かった。こいつの動きや立ち振る舞いを覚え込めば始末屋という役柄が問題なくこなせると確信したからには、そうするしかなかった。
俺は思い切り手を叩いた。半分いたストーカーが消え去って、男は弾かれたように振り向いた。
整った顔だな、と意外に思った。
一歩間違えたら殺されるなとも思って、俺は勝手に笑っていた。
こんな気分は初めてだった。
数分後に
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