苺、幸せを運ぶ

花 千世子

前編

 大きな手のひらに乗っていたのは、小さな小さな子猫だった。

 成人男性の手にほんのちょっとだけ余る子猫の体、とても小さく、毛はほわほわとしている。

 恐らく白と黒のブチ柄……というのは、白の部分が汚れて灰色っぽいからだ。

「ぴゃーぴゃー」と鳴く子猫を眺めていると、子猫を手に乗せている男性――貴哉都きやとが言う。


「この子猫は、うちのばーちゃんの苺畑に捨てられていたんだ。ダンボール箱に入ってて、拾ってくださいって書いてあった」


 貴哉都はそこまで言うとさらに続ける。


「本当は家で飼いたいけど、俺の家にはもう三匹もいるから、飼えないんだ」

「なるほどね。それで引き取り手を探しているわけだけど」

「そっかあ」

小鈴こすず、飼わないか?」


 貴哉都にそう聞かれて、私は彼を見る。

 幼なじみの顔をこうしてまじまじと眺めたのは、久しぶりだ。


 すっかり秋めいた十月の空の下、私はふと思う。

 ああ、変わったなあ、と。

 貴哉都が子猫を保護していることではなく、見た目だ。

 大学生になってから本当にあかぬけた。

 もともと整った顔立ちだったし背も高かったけど、髪型とファッションで地味高校生からリア充大学生にクラスチェンジしてしまうなんて。

 それに引き換え私は……。

 私はふっと視線をそらす。


「小鈴は、今在宅でライターやってんだろ?」

「そうだけど」

「じゃあ、この子をメインで面倒を見るのは小鈴かあ。それなら無理か」


 貴哉都は、そういって意地悪な笑顔を浮かべる。

 私はムッとしてこう反論した。


「子猫の面倒くらい見れるし!」

「くらいとか言うなアホ!」

「はぁ?! そこまで言わなくてもいいでしょ! このドアホ!」

「ドをつけてくるんじゃねえ! あーあ、こんなアホに子猫の世話は厳しいな」


 貴哉都がため息をつく。

 いつも私たちは、顔を合わせればこんな感じだ。

 子どもの頃からずっとそう。

 そして、貴哉都は、私の現状も知っている。

 そんな貴哉都が、こうして子猫を飼ってほしい、と頼んでくるなんてよほど里親に困っているのかもしれない。


 私は子猫をじっと見つめる。

 貴哉都に抱っこされてすやすや寝ていた。

 かわいい。


「じゃあさ、一週間だけ預からせてくれない?」


 私がそう提案をすると、貴哉都の瞳が輝く。

 まるで猫みたいに。


「いいな、それ。トライアル期間ってやつだな」

「うん。貴哉都はお向かいの家にいるんだし、困ったことがあったら聞きに行く」

「おう、そうしてくれ」


 貴哉都はそう言うと、「じゃあちょっと待ってろ」と子猫を連れて、すぐ後ろの自分の家に戻り、五分もしないうちに戻ってきた。

 キャットフード(子猫用)、猫用のトイレ、トイレ砂、猫用のケージ、猫用のおもちゃ、爪とぎなどのグッズを向かいの私の家に運んでくれる。


「全部、新品だから。あっ、でもオモチャは俺の家の猫が気に入らなくて使わなくなったものも入ってる」

「うん。ありがとう」

「じゃ、なんかあったら連絡するか大声で叫べよ」


 貴哉都はそれだけいうと、自分の家に戻ろうとして急いでUターン。


「ああ、子猫を忘れてた。君が一番大事な存在だな」


 貴哉都は、優しく子猫にそういうと、そっと私に差し出す。

 私は子猫を抱っこする。

 あったかい。

 少し強く抱きしめたら壊れてしまいそうなぐらいに小さい。

 私はそっと両手で包むように子猫を抱っこした。


「生後三か月。動物病院でワクチン接種済み。健康面の問題はなし。性別はメス。以上だ。それじゃあ」


 貴哉都は早口で言うと、私に背を向け、またくるっとこちらを振り返る。

 それから子猫をそっと優しくなでた。


「このお姉さんにかわいがってもらえよ」

「大丈夫だから」


 貴哉都は、私の声など聞こえていないかのように子猫に言う。


「気に入らないことがあったら、全力で噛んでやれ」

「変なこと教えないで」

「冗談だよ。家に引きこもってると冗談も通じなくなるのか」


 貴哉都はバカにしたように笑うと、自分の家に戻っていった。

 私は向かいの家のドアが閉まるとポツリとつぶやく。


「引きこもり……かあ」


 子猫が「みゃう」と鳴いた。

 貴哉都の言うように、私は引きこもりなのかもしれない。


 今年で二十歳になった私は、フリーランスでライターをしている。

 在宅で仕事をしているからといって、家から出ないわけではない。

 買い物とか、あるし。

 それでも、在宅で仕事をしていると、やはり学生の時や外で仕事をしているよりもずっと外に出る機会は少なくなる。


 だけど、週4ペースで私は外に出ていた。

 高校卒業と同時に彼氏ができたから。

 その彼氏とデートをするために、外出もしていたし、美容院も洋服や化粧品を買いにデパートやらアウトレットモールに友だちと行ったり、両親と外食したり、リア充生活を満喫していた。

 だけど、その生活は長くは続かなかった。


 一年前に彼氏とは別れたからだ。

 彼氏が仕事で転勤になり、遠距離は俺たちには無理だろうと言われたのだ。

 私は別れたくない、遠距離でも大丈夫だと何度も言ったが、彼氏は「無理。俺が寂しすぎる」という理由で泣く泣く別れた。

 最初は泣いてばかりで、貴哉都にも相談したっけ。


 別れてから一週間後。

 貴哉都は彼氏の転勤先まで連れて行ってくれた。

 車で片道三時間もかけて。

 そこで私は偶然見てしまったのだ。

 彼氏が見知らぬ女性と仲良く手をつないで歩いているのを……。

 目の前が真っ暗になったと同時に、ああやっぱりねと思った。

 遠距離恋愛ができない。寂しい。

 それは彼氏の嘘で、私から心が離れていただけだったんだ。

 新しい恋を始めたかったんだ。

 ああ、もう忘れよう、こんな人。

 そう思ってその時は納得したはずだった。


 ぴゃーぴゃーと子猫が近くで鳴く。


「はーい。ちょっと待ってねー」


 家に帰った私は、猫用のお皿にウェットフードを入れ、別のお皿に水を入れた。

 それをリビングの隅に置いてあげる。

 子猫は尻尾をピーンと立ててご飯を食べ始めた。

「みゃうみゃう」と鳴きながら、お皿を小さな前足で抑え、口をべちゃべちゃに汚して食べているのはかわいい。


「焦らなくて大丈夫だよ」


 私はそう声をかけた。

 

 猫は飼うのは三年ぶりだろうか。

 以前飼っていたタマ(三毛)とロク(黒猫)が十七歳と十五歳で亡くなり、ずっとメインでお世話をしてきた母が、ずいぶんと落ち込んでいた。

 私も悲しかったが、毎日家で世話をしていた母は猫たちがいない生活が辛くなったらしい。

 それで、母はパートに出るようになったのだ。


 勝手に子猫を引き取ってしまったが、母は絶対に反対しないだろう。

 もちろん父も猫好き。

 そこは問題ない。

 問題なのはこの家に在宅でいる私が、きちんと面倒を見なければいけないこと。

 もちろん、面倒を見られないというわけではないが。

 でも、貴哉都が危惧したのもわからなくはない。


 子猫が猫用ベッド(貴哉都持参)で眠っているすきに、私は自分の部屋に戻る。


「いつ見てもひどいな、おい」


 思わず自分で自分にツッコミを入れてしまう。

 それぐらいに、私の部屋はひどかった。

 散らかり放題なのだ。

 物が多いという理由もあるけれど、とにかく整理整頓ができない。


 机はパソコンのスペースだけは確保しているものの、周囲はペンケースや本、空のマグカップで埋もれているし、棚の置き物は埃をかぶり、ベッドは布団がぐちゃぐちゃ、本棚は整理できない本であふれて床を占領している。クローゼットはもう、見たくない。

 この部屋に貴哉都を入れたことはないけど、察してはいると思う。


 これでも、彼氏と付き合っている時はいつ家に来てもいいようにしっかりと掃除をしていた。

 でも、彼氏と別れてからは、どんどん掃除をサボって今じゃこの有様。

 いいもん、仕事をしていればそれでいいし。


 仕事を終えて晩ご飯の準備をしていると、母が帰宅。

 子猫のことを話すと、快諾してくれた。


「一週間なんて言わないで、うちの子にしちゃおうよ」


 食器洗いをしていると、母が子猫と遊びながらそう言った。


「でも、メインで面倒見るのは私だし、そこは私もちょっと心配だし」

「だーいじょうぶよ。人間の子の面倒に比べたら子猫はぜんぜん楽だから!」

「私は人の子も育てことがないんですが」

「とにかく大丈夫よ。お母さんもサポートするし。まあ、小鈴がどうしても不安ならお試し期間ってことでいいけど」

  

 母はそこまでいうと、こう続ける。


「ねえ、お父さん、まだ仕事みたいなんだけど、子猫の写真見せてって」

「じゃあお母さん撮って送ってあげてよ」

「小鈴が写真撮ったんじゃないの?」

「ブレブレのしかないよ。止まってくれないんだもん。寝てる姿はあるけど」


 食器洗いを終えた私は、リビングへ行き、母にスマホの写真を見せた。

 子猫は起きている間はとにかく走るか遊ぶ。

 つまり動きっぱなしなので、とにかくカメラで写そうと思ってもなかなかいい写真が撮れない。

 ご飯の時ですらブレるってどういうことなの。

 私が写真を見せると、母は何かをひらめいたようで、子猫を私に抱っこさせた。


「じゃあ、抱っこしてて。お母さんが写真うつすから」

「わかった」


 そういって子猫を抱き、スマホをこちらに向ける母の方を向く。

「撮るよー」という声の直後、乾いたシャッター音が響いた。


「あっ。いい写真撮れたわ。お父さんに送るね。小鈴にも写真送っておくから」

「うん。お願い」


 すぐに写真は送られてきた。

 そこに映っている自分を見て、私は絶句した。

 子猫はかわいい。それはもう。

 そうじゃなく、私が驚いたのは自分の姿だ。

 前より太ったような……。

 いや確実にぽっちゃりした……。

 薄々気づいてはいたけど、こうして写真で見ると現実を突きつけられる。


「ねえ、お母さん、私、こんなに太ってたっけ」

「えー? ああ、ちょっとぽっちゃりはしたわよね」

「まあ一年間はほぼ引きこもって仕事ばっかりしてたから……」


 そう納得してから、恐る恐る体重計に乗ってみる。

 リビングに悲鳴が響いた。

 すっげえ増えてた。

 夢であれ。


 次の日は、髪の毛が引っ張られるような痛みで目が覚めた。

 子猫が私の髪の毛にじゃれて遊んでいたのだ。


「そういえば、髪の毛も伸ばしっぱなしだなあ」


 私はそうつぶやいて、胸のあたりまで伸びた髪の毛をヘアゴムで適当にまとめる。

 別に好きで伸ばしているわけではない。

 その証拠に前髪も伸ばしっぱなしだ。

 彼氏と別れてオシャレから縁遠くなって一年。

 私は髪の毛の手入れも美容院もおろそかにしていた。


「いいのか、こんな二十歳で……」


 そうつぶやいて、子猫を抱っこする。


「まあ、どうもでいいね」


 子猫が私のひとりごとを聞いて、頬に前足を当ててきた。

 まだ爪のしまえない手は、頬に当たるとチクリとする。

 もっとオシャレしろってことかな。

 はは、まさかね。



「おい。ちょっと面貸せや」


 その日、お昼すぎにインターフォンが鳴ったと思って出たら。

 貴哉都がいた。

 私は玄関のドアを閉めながら奴に言う。


「なによ。ケンカなら買わないよ」

「ケンカなんか売ってねーよ。小鈴に売るケンカはない」

「あーそう。じゃあなにしに来たのよ」

「子猫見にきただけだ」

「やだ。キモイ。帰れ」

「なんでキモイんだよ! 俺イケメンだろ?」

「顔の話じゃないし! 言動と行動の話だよ!」

「それこそ俺みたいな善行の塊の人間にキモイとかひどくね?」

「もうその発言がきもい。かえれ」

「なんだよ、苺ちゃんに会わせろよ」

「苺ちゃん?」

「子猫の名前だ」

「勝手に決めないでよ」

「それなら苺で決定だ。苺畑で保護したんだから」

「あー。なるほど。でもなんか猫には会わせたくない」

「俺が保護したんだし、まだトライアル中の癖に生意気いうな」

「その態度で合わせてもらえると思ってるの?」


 その時だった。

 ぴゃー、と後ろで鳴く声。

 子猫が玄関にちょこんと立っていた。


「うわあ、出ちゃう!」


 私は慌てて子猫を抱っこ。


「お前……。万が一、苺を外に出したらタダじゃ済まねえぞ……」


 そう言った貴哉都の目は本気だった。

 私も冷や冷やしたよ。

 気を付けよう……。


 しかたがないので、貴哉都を子猫に合わせてあげた。

 貴哉都は子猫と全力で遊び、おやつをあげ、満足して帰って行った。


「孫に甘いじいじかよ……」


 私はそうつぶやいて、一人と一匹になったリビングでため息をつく。

 子猫はすやすやと眠っている。

 名前は……苺にするか。



「ギャー! 苺、埃なんか食べちゃダメ! ペッしてペッ!」


 私は苺を慌てて抱き上げ、彼女の口に挟まっていた埃を取って捨てる。

 苺が我が家に来て三日目。

 子猫の底なしのエネルギーと、床に落ちてるものはなんでも食べようとする習性、ゴミだろうが大事なものだろうがオモチャにしてしまう特技に翻弄されていた。

 苺が変なものを口にしないように。

 そのいっしんで、掃除もはかどった。

 部屋がきれいになると、心もすっきりとする。

 

 苺が私の髪の毛にじゃれるので、髪の毛を切った。

 美容院へ行き、ショートヘアにしてもらった。

 秋だしちょうどいいかな。

 髪の毛が軽くなったら、もう少しだけオシャレをしようかな、なんて思えた。

 まあ、その前にダイエットだけどね。


 一週間後。

 苺は無事に我が家の子になった。

 その日は両親と、苺歓迎パーティーを開いた。

 人間はケーキを、苺には子猫用のチュルンをあげ、母は赤と緑のギンガムチェック柄に小さな苺の刺しゅう入りの首輪を、父は大きなキャットタワーを、私はエビフライの形のけりぐるみをそれぞれ苺にプレゼント。

 苺が一番、気に入ったのはキャットタワーが入っていたダンボールだった。


 苺はすぐに我が家のアイドルとなった。

 特にメインで面倒を見ている私に、苺もなついてくれていて、もう、目の中に入れても痛くない。

 これが我が子か……。

 そう錯覚するほど。

 かわいくてかわいくて、毎日のように写真を撮り、遊び、かまい、撫で、抱っこして、夜はいっしょに眠った。

 私の猫好きはどんどん加速した。



「なんか小鈴、痩せたな……大丈夫か? 食ってるか?」


 家に入ろうとすると、ちょうど貴哉都と遭遇。

 顔を合わせるのは三か月ぶり。

 苺の写真はメッセージでよく催促されたが、それだけ。


「ああ、ダイエットしてるから」

「ふーん。彼氏でもできた?」

「ダイエットしてる理由が異性のためとは限らないよ」

「それもそうか」

「かわいい猫のイラストのトレーナーがあってね、それが着たいなーと思って」

「ああ。それでなんかやけに猫グッズまみれなのか」


 それだけ言うと、貴哉都は私を見る。

 今日の私のファッションは、猫の顔のヘアピン、猫のシルエットのペンダント、猫マーク入りのスニーカー。

 私は今、猫グッズだらけだが、それもこれも苺がかわいいので、猫グッズにもハマったのだ。

 そして、サイズ展開がMまでしかない猫トレーナーを着るためだけに、3カ月で8キロやせた。

 これで一年前の体重に戻った。


「貴哉都こそ、三か月間、なんだか忙しそうだったじゃん」

「ああ、ちょっと、その」


 貴哉都はなんだか言いにくそうにしてから、ぼそっとつぶやく。


「なんかサークルの先輩に告られて、それでどうしようかと思ってたんだけど付き合ってた」

「付き合ってた? 過去形?」

「うん。先週別れた」

「へえ」


 私はそれだけ言うと、家に入ろうとした。

 すると貴哉都が叫んだ。


「おい、別れた理由とか聞かねえのかよ!」     

「えー……。別に興味ない」

「ひっでぇ」

「わーかったよ。聞いてほしいんでしょ」

「まあ、ちょっと」


 しょんぼりしている貴哉都はちょっとかわいい。


「なんで別れたの?」

「すっげー棒読みだな」

「なんで別れたの?」

「先輩、猫が大嫌いらしいから」

「あー、それはダメだわ」

「だろ? 犬派とかなら別にいいんだけど、猫大嫌いってもう俺がダメだわって思った」

「だよね。私も今なら猫嫌いな人と付き合えないな」

「うんうん。そうだよなあ」


 貴哉都は一人でうなずいてから、独り言のようにつぶやく。


「それに俺、ずっと前から……」

「ん?」

「あー、いや、なんでもない」


 貴哉都はそう言うと、「久々に苺ちゃんに会わせて」と勝手に家に入ってきた。 

「苺ちょっと見ない間になんかデカくなったなあ」と貴哉都がしきりに言っているのを聞きながら、キッチンで二人分のコーヒーを入れる。


 するとポケットに入れたスマホが振動した。

 誰だろ。

 会社かなあ。

 そう思ってスマホを見ると、メッセージが来ていた。


 元彼からだった。

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