ショートショート けいたい

阿賀沢 周子

第1話


 外へ出た拍子に、鼻の奥へ湿気のある懐かしい匂いが届いた。一月中旬にしては陽が射して暖かく、雪解けが進んでいる。新発寒ポンプ場を北西へ歩くと住宅街沿いに、新川運河の堤防が東西に延びている。土手の上は遊歩道で、雪のない季節は格好のジョギングコースになっていた。住宅街に沿う法面の、未踏の雪壁がきらきらと輝き、匂いはその辺りから来ていた。

 研二は妻の加奈子との口論の末、行き先もなく家を出た。中の川にかかる開拓橋を渡ると、庭先の雪をスノーダンプに山と積み、ほおずき公園に作った傾斜を登って、排雪している老人がいた。春になれば融けるのに、と観ている自分に苦笑した。加奈子との口論もそんな自分の考えが原因だったからだ。

 そよ風が頬を撫で、先刻の匂いがまた感じられた。

『ああ、春の雪の匂いだな』

 日差しと、目的のないぶらぶら歩きで、長靴の中が濡れても平気で遊んでいた子供のころの、匂いの記憶がよみがえり気分が和んだ。


 職場から持って来た書類仕事を書斎でしていた研二は、パソコンの画面を閉じた。スクリーンを見続けて疲れた眼を休めようと何度か瞬く。少し涙目になりながら、居間との境の扉を開けた。

 加奈子がソファに座りテレビを見ながら、新聞の隅に何かを書き込んでいる。テレビではしきりに『このコラーゲンが肌の老化を防ぎます。プラセンタも入っているので……』『今お申込みになると、なんと千円もお買い得』頬の光った若い女がにこにことしゃべっている。

「加奈子、昼はどうする」

「ちょっと待っていて。今大事なとこなの」

 フリーダイヤルの番号が繰り返されて、保険のCMになった。

「CMではなかったのか、テレビショッピングとかいうものか」

研二は横に坐って加奈子が書いたものを覗いた。

「見ないでよ。プライバシーの侵害」

「何が」

「いいから、いいから。女は大変なのよ。私が同年代の女性と比べたら若いって、前にパパ言ってくれたでしょ。それなりに努力と投資をしているのよ」

 加奈子は、メモしたページを抜き取って新聞をたたみ、リモコンでテレビを消した。研二より二つ下で今年五十五になる加奈子は、よその中年女性のように、ひどく体形が崩れていないのは確かだ。姿勢が良いので若々しく見える。子どもたちが自立してからは、家事の合間をぬって水泳教室へ行ったり、ヨガをやったりしている。

「化粧品を買うのか」

「維持するために、いろいろ研究中よ。パパだって連れ合いはきれいな方がいいでしょ」


 運動が健康に良いことは熟知している。が、腹回りが気になっても、なかなか腰が上がらなかった研二が、二年前からジョギングを始めたのは、加奈子の影響が大きい。肩こりがとれる、体が軽くなる、ストレス解消になる、加奈子が勧める運動の効用は、加奈子自身が体現していたからだ。

 冬の間は勤め先の病院のそばのジムで週三回は走っている。運動を始めて一年半目に体組成計に乗ると、運動を始めた頃より、体脂肪量が3㎏減り、筋肉が3㎏増えたとトレーナーに言われた。3㎏と言えば、産まれたての赤ん坊の重さだ。それだけの脂が体にくっついていたのかと、思わず腹を見た。確かに体重は変わらないがベルトの穴が3つばかり減った。腹回りはもちろんだが、両の腰に載っていた丼の蓋のような塊がなくなりすっきりした気がしている。


しかしコラーゲンとかプラセンタって。

「歯はどうした。治療したのか。おととい歯槽膿漏じゃないかって心配していただろ」

「まだ行っていません。歯茎の出血は少しあるけれど、歯医者は嫌い」

「形態学的年齢は変えられない。歯がいい例だよ」

「けいたい何とかってなによ」

 加奈子の眉間に皴が寄った。まずいかなと思いつつ医者としての癖でつい説明を始めてしまった。

「形態学的年齢っていうのは主に歯、骨、関節、臓器に現れる。いわば樹木の年輪のようなもので、わかりやすいし変えられない」

 話しながら、患者には、こうはあからさまに言わないな、と加奈子を眺めていた。

「歯がダメになったらもうおばあさんだっていうの。私が無駄なことしているっていうの」

 加奈子の色白の顔は、みるみる斑に赤くなり、研二を見詰めて大きく開かれた眼は、眉間の皴が深くなると同時に釣り目になった。

失敗したと思ったが、取り繕う前に加奈子の口から悲鳴ともいえぬ音が発せられ、新聞が飛んできた。新聞紙は、空中で広がって勢いをなくしブワリと落ちた。

「けいたいがなによ。人の気持ちも知らないで」

 傷つけるつもりはなかったと謝ったが、いろんな物が飛び始めたので立ち上がって廊下へ逃げた。筆入れ、ヨガの雑誌、ティッシュケース、クッション。仕方がないので上着をひっかけて、外へ出たのだった。


 日曜日だからか家の前で除雪をしている男性が多い。中には、庭の中の雪を道路に運び出している者もいる。敷地内の雪を道路に出すのは禁止されているが、市の排雪日が近くなると、そういうことをする輩がいた。

 研二は、玄関アプローチと車庫前の雪を、運動がてらきれいによけようかと家へ戻り始めた。昼はミシュランガイドに載ったことがある蕎麦屋の『おおはし』へ加奈子を連れて行こう。今日は、身体を動かすから天ぷらがいいかな、と考えている。


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