5-2 昆虫採集の楽しみについて/妖異のこと


「まぁ、アマツバキの採集を。それは楽しそうですね」

「イヨよ、さては期待していないな」

「だってお兄様、そんな夢物語みたいなことを言って。男の子ですね」


 ゲンマが早速、旅支度を狐の尻尾に詰め込んでいると、不意の騒がしい様子を聞きつけたイヨが傍によって、くすくすと笑みを溢している。生意気な妹め、今に見ていろよ。きっと幻のちょうを採ってきて、玉匣標本店たまくしげひょうほんてんの目玉にしてやるからな。


 などと思うゲンマも本音を言えば、行って採れるものではないと考えている。アマツバキが採集されたのは今から二百五十年も前の話だ。それから一度も観察さえされていないと言う事は、この間に生息地に何らかの異変があった事が考えられる。例えば食べるものが突然なくなったり、病が流行ったとしたらどうだろう。小さな群れはたちまち死に絶えてしまうかもしれない。


 あるいは、風に乗って別な地域の蝶がある日この秘境に迷い込み、そのまま定着してしまったとする。その種がアマツバキと交雑可能な種であったならどうだ。二つの種はすっかり混じり合い、その交雑種が元の種を淘汰してしまったかもしれない。

 つまり、アマツバキは既に絶滅した蝶である……かもしれない訳だ。

 探して見つからないのも頷ける。


「途中で諦めるから夢のまま終わってしまうのだ! わがはいには見えている! アマツバキを手にした未来が、この大きいおめめに映っているぞな! 夢を追うのではない、未来を追うのがわがはいぞ!!」

「まぁ、良い言葉。がんばって、うずちゃん、お兄様」

「ぞな!」

「ま、そう簡単に珍種が手に入るとは思ってないさ。双子共につつかれたし、ちょっくら採集旅行に行ってくるって訳だ」

「山には数多の危険が潜んでおります。どうぞお気を付けくださいませ、ゲンマ様」

「おう、スオウも留守を頼むぜ」


 こくり頷く鬼女は、すっかり頼もしい皆の姉代わりである。およそ最悪の出会いだったはずが、今ではゲンマの方がスオウに頼っているから不思議な縁だ。ゲンマはふと、たかひひるを追ってやって来た鬼蜘蛛おにぐもがイヨを傷つけ、それに呼応するように螺旋狐うずまきぎつねが目覚めたあの日の事を思い出している。


 待てよ。

 玉匣標本店がこんな辺鄙へんぴな山奥にあるのは、ここにうずまきが眠っていたからじゃないか? どうせならもっと賑やかな所に埋っていてくれりゃあ、今頃もう少し店も繁盛していたかもしれないのによ。


「出発ぞなーっ!!」


 首元で襟巻えりまきに化けたうずまきが高らかに声を放つ。ゲンマは背中に皆の送り出す声を聞きながら、靈覬融合れいきゆうごう狐龍こりゅうへと変じると、夜の闇に乗じて目指す蝶念岳ちょうねんだけへ疾風の如く駆けるのだった。



 人間の足で蝶念岳に登るとなると、まず五時間とはいくまい。整備された登山道を行くとしても、六時間七時間はかかる筈である。その過酷な道程を狐龍はものの一時間もせず駆け登ると、澄み切った空気が喉を刺すように冷たいのは、まだ日陰にちらほらと溶けた雪の名残が見えるせいだ。螺旋状に風が解けて、人間の姿に戻ったゲンマは、不思議な気持ちで山の高みに立っている。静かに吹き付ける風も、山の薄い空気も、何ほどのものでもない。ゲンマは首に巻き付いたうずまきをそっと撫でていた。


「本当だ、ちっとも息苦しくないや。それにこんな薄着なのに寒くもない」

「わがはいが妖力ようりきの膜で包んでいる間は、地上と同じように歩けるぞな。兄にはわがはいの手足となって、しゃかりき働いてもらうぞなよ!」


 妖異よういと言うのは変幻自在である。ほんの小さな生き物達が、山のように巨大な姿に化けて出る。しかしこれは不自然だ。生物が、元々の姿をある程度保ったまま見るも巨大に成長したら、様々な不都合が起こるだろう。骨の強度が足りなかったり、あるいは筋肉が自重に耐えられないかもしれない。心臓の力が足りず、血液を全身に巡らせる事が出来ないかもしれない。海中ならいざ知らず、地上に規格外の巨大な生き物が存在しない事からも、生き物であるならそれに適した大きさと言うものがある筈である。


 ところが妖異怪獣よういかいじゅうはこのことわりを無視して化けている。つまり、物理法則を無視しているのだ。妖異達はそれぞれ自分に都合の良い、別なことわりのもとに存在しているとしか思えない。

 常識では説明の出来ないもの。妖異怪獣とは、そう言うものなのだ。

 そしてまた、その理を上手く使えば、生身で高地を身軽に歩くことも出来るし、高山病で苦しむ事もない。なるほど、こりゃあ便利なもんだとゲンマは感心している。

 アマツバキは昼行性と思われるので、探すのは日が昇ってからだ。ゲンマは一先ず狐の尻尾から寝袋を取り出すと、すっぽり収まってひと眠りする。標高の高い山でこんな事をすれば、普通ならあっと言う間に酸素欠乏で高山病に苦しむだろうが、今の俺は無敵なのだ。我ながら結構度胸があるなと思いながら眠りに落ち、眩い朝日にゆっくりと目覚めるとこれが実に清々しいもんだ。


 ゲンマとうずまきは早速優雅な高山散歩に繰り出した。


「おっとっと、足元だけは登山装備にしてきて良かったぜ。滑って転んだら事だからな」

「なぁに、頭カチ割ってもとりあえず死なないようにはしといてやるぞな。十年寿命を分けてやるのだ」

「げ……嫌な事言いやがる」


 ただでさえイヨの寿命で頭を悩ませていると言うのに、この上自分の分のたかひひるまで探す事になるのはごめんである。ゲンマが慎重に慎重を重ねて歩いていると、向うの花々の上にちらちらと瞬くようなものが見えるのは蝶だ。気温の低い高所に生息する蝶とは言え、やはり日が昇って来た温かい時間に活発に活動する。丁度目が覚めてきたところなのだろう、息をひそめて近寄れば、それは山地性のまず珍しい蝶だ。アマツバキとは比べ物にならないが、それでも地域の個体差を楽しむ為、集めている愛好家は多い。きっと店の目玉の一つになるだろう。


 ゲンマは捕虫網を伸ばし、向かってくる蝶をさっと捕らえてしまう。何頭か捕まえた後、色と形の良い雌雄を何組か残し他は見逃してやる。捕らえた蝶は胸を指で挟み、潰さないよう気をつけながらぎゅっと押さえると簡単に締める事が出来る。これを三角紙に挟んで箱に収める。こうしておけば、繊細な蝶の翅を壊さず持ち帰る事が出来ると言う訳だ。


 それからゲンマはいくつか日乃和ひのわ種の珍しい虫を捕らえる事に成功したが、やはりアマツバキの姿は見えなかった。やはりこのような容易に人が立ち入れる場所には生息しないようだ……と、おや、なんだか空気が薄くなってきたぞ。ゲンマが不思議に思うと、首に巻いた狐の腹からぐぅ、と音がする。


「腹が減ったぞな~。妖力切れちゃうぞな~」

「お、おい、しっかりしてくれよ! お前が守ってくれていないと、俺の方が下手したら死んじまうぜ!!」

「まったく世話の焼けるヤツぞ。今日は収穫もあった事だ、深追いせず下山して遅い昼飯でも食うぞな!」


 確かに寝る前に持参の軽食を取り、散策中も水分補給はしていたが空腹だ。せっかく気温が上がってきて虫達が活発になる時間帯なのに勿体ない気もするが、調子に乗って怪我でもしたら元も子もないのである。ゲンマ達が狐龍の姿へと変じ、駆け出そうとした時。


「……なんだ?」


 遠くから凄まじい獣の唸り声と、金属のぶつかるような音とを聞いたのであった。



 狐龍の姿で山を駆け降りるのは一瞬の事だ。ところが一つ困った事には、人目につかぬよう麓の村に近づくのがなかなか難しい。ゲンマ達はほんの熊程の大きさに化けると、なるべく山陰を静かに走った後、人の姿へ戻って歩き、途中バスを見つけてようやく寂れた中にも賑わいを見せる界隈へやってくる頃にはへとへとになっていた。ともかくその晩の宿を見つけ、近くの飯屋に駆け込めば、温かい飯が腹に染みるのだ。たらふく食うと体に力が漲り、やる気も満ちてくると言うものである。


 そこでは思いがけない出会いもあって、丁度隣の席に座っていた二人連れの男が正に蝶念岳を訪れた蝶の採集家と言うではないか。彼らは幻の蝶を求めて何度も蝶念岳に挑戦しているが、もちろん出会った事はない。二人とも、元々山登りが趣味なので、その延長で蝶を始めた口と言う事である。


 嬉しいのは、ゲンマが何気なく玉匣標本店の名を口にすると、二人とも店を知っていた事だ。例の競売にかけられたたかひひるは鳴滝博物店なるたきはくぶつてんを通じて有名な収集家の手に渡ったが、なにせ過去一度も採集の記録がない新種の蝶である。この事は大きな話題となっていた。勿論、標本には玉匣標本店の名前が入ったラベルがついているから、出どころである店の名もまた売れたと言う訳である。


 実の所、ゲンマも薄々は玉匣標本店が注目を浴びている事には気づいていた。ある時から、見るからに冷やかしでなさそうな、通っぽい客がやってくるのだ。しかしどうにも盛り上がりに欠けるのはつまり、双子の言う所の目玉商品が無い。これに尽きるだろう。まだ兄妹の手元には展翅中のたかひひる達が残っていたが、こいつらは物が物だけに出しにくい。鳴滝博物店を通じて売買するのは、情報を貰った分は義理もあれば、大手に仲介して貰った方が取引が円滑だと言う事でもある。ともかく店には出所のはっきりした珍種が必要なのだ。


 評判を聞きつけて、わざわざ山奥までやって来た客が落胆して帰ってゆくのでは忍びない。今回のアマツバキ捜索は、彼らの期待に応えんとするゲンマの決意でもあるのだった。


「いや、あのキメンソウは素晴らしいものですな。私らも目録で写真を見ただけだが、こんな蝶がまだこの世にいたかと久々に胸が躍ったものですよ」

「玉匣さんが狙うなら、案外アマツバキもまだどこかに隠れ住んでいるかもしれませんな」


 男達の言うキメンソウとは、たかひひるの標本の事だ。誰も見た事のないこの珍種の絵筆で描いたような模様が、まるで鬼の面相のようだと言う事でイヨがラベルに書いたものである。鳴滝博物店の発行した競売の目録に写真が載った為に、この未知なる蝶は愛好家達の間でたちまち話題となったのだ。ある意味現代のアマツバキ、と言う訳だからゲンマも鼻が高い。正体は妖怪の類だけど。


「しかし今は気を付けた方が良いかもしれません。あの山には出るそうですから」

「出る、とは?」

「虎です」


 それは思いがけない言葉であった。


「なんでも近頃、恐ろしく巨大な白虎びゃっこが蝶念岳を駆ける。これがただの虎ではない。刀を持つ。鋭い白刃を閃かせ、岩をも一刀両断にするとは、私も話半分ですが」

「しかし実際に目撃した人がいると言うから恐ろしい話ですな。恐らく刀と言うのは、爪か牙かを見間違えたものだろうが、実をいうと我々も山で獰猛な獣の声を聞いてね。慌てて逃げ出して来たと言う訳ですよ」


 男達と別れ宿に帰ってくると、ゲンマは茶を淹れて啜る。これがどうも味気ない。スオウの淹れた美味い茶が恋しいぜ。それにしても岩をも斬る白虎とは何者か。ゲンマは山で聞いた獣の声を思い出している。熊か何かがいるのかとも思ったが、続けて聞こえたあれは、まさか刀を振るう音だったのか……。


「どうやらまたしても妖異が近くにいるようぞ。事によると一戦交えることになりそうぞな」


 これまで姿の見えなかった妖しの白虎が突然現れるようになった。

 つまりそれは、たかひひるを追いかけてよそからやってきたものかもしれないと言う事だ。

 ゲンマは高鳴る胸を押さえ、その日の午後を宿で過ごした。

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