第二話「姉妹の絆 月下の双子大蛇」
2-1 蝶の展翅について/劣化する標本のこと
■2.姉妹の絆 月下の
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唇を指でなぞり、イヨはその日いくつになるかわからない溜息をまた漏らした。あの日、喉を通り過ぎていったたかひひるの不思議な
「お兄様……」
口に出せば、ぽっと頬が赤らみ、こんな時イヨは自身の幼さを強く自覚するものである。
いけないいけない。こんな事ではまた子供っぽいと思われてしまう。気を引き締めて、大人のように振る舞わなくちゃ。
元来甘えたな気質のイヨの健気な頑張りが、外から見るとこの娘を年齢よりも大人びた、ある種浮世離れした存在のように見せている事に、気付いている者は少ない。
「……よし」
普段は左右に垂らしている、少し巻き癖のついた長い黒髪を後ろで束ね直し、
それは光を失ったたかひひるであった。
不思議な明滅を失って尚、見れば見る程美しく、また珍しい蝶だ。姿はナミアゲハに似る亜種のようだが、良く見れば細部の形状が異なる。
古来より、蝶は魂の化身したものだと伝えられてきた。
ましてこの蝶が、この身に命を与えてくれたとは……。
イヨは自分の寿命が残り少ない事を考えている。
少ない、とは言っても、まだ十四のイヨにとって、この先の十一年は殆どこれまでの人生と同じ長さだ。
イヨにとっては寿命よりも、兄が必死の口付けで救ってくれた事と、手元に残された蝶だけが、全てが現実であった事の証明に感じられている。
標本作りに、決まった方法はない、とイヨは考えている。最終的に美しく姿が整い、末永く保てば良いのだ。それが死んで時間が経ち、固まってしまった蝶の場合、イヨはまず水を含ませた綿と共に箱に入れ、数日置いておく。すると死骸が水分を含んで軟化し、可動部が動くようになっているので、これを手早く
蝶の翅の根元には筋肉があって、これがついたままだと標本にした後、自然と閉じてしまう事がある。次にはこの筋肉を壊す。やり方は単純で、翅の根元を針で刺してゆく。ぷち、ぷち、と手応えがあるのでわかりやすい。頭や触角の角度も様子を見ながら修正していく。今度のたかひひるは、珠を得るために頭を千切ってしまったが、潰れていないのは幸いだった。あの状況でも蝶を握り潰さなかったところに、イヨは兄の繊細な気質を感じ、好ましく思うものである。触角は壊れていたけれど、慎重に糊で繋ぎ、元の形に戻す。胴体を針で展翅板と言う専用の板に固定する。これは、真ん中の隙間に蝶の胴体が、左右の板に翅が広げられるようになっているものだ。鱗粉を損ねないように翅の上からピンと展翅テープを張り、ここに何本も針を刺して、蝶の形が崩れないよう慎重に展開してゆくわけである。胴体に接着した頭部が乾く前に、触角の向きや形と共に調整を重ね、左右対称の美しい姿になるよう整える。作業は集中を極める。息をするのも忘れて、イヨはこの作業に没頭する。この時間になんとも言えぬ幸福を感じるものである。
形が整ったから終わりというものではない。蝶はまだ固まっていないので、このまま針を抜くとせっかく揃えた姿が崩れてしまうのだ。針を刺したまま、数週間、数か月の乾燥期間を置く。その後、針を抜いて標本箱に移し、採集ラベルを貼れば標本の完成だ。
標本において最も重要なのが、このラベルである。標本とは、その個体がいつ、どこで採集されたのか。その事に最も価値がある。姿と情報を保存する為にこそ標本を作るのだ。イヨはこのラベルを書く時が一番好きだ。恐らく標本商ならば皆そうだろう。今度のたかひひるはこの山で採れたものなので、採集地には「
今から標本箱に移すのが楽しみです……イヨは作業中のたかひひるを専用の乾燥棚にしまい、くすりと笑みを溢した。
誰も見た事のない稀なたかひひる。標本として残っているものなど、この
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妖異怪獣ども大暴れの名残はゲンマの頭を悩ませていた。よもや自分の家の庭に、あんな巨大な化け狐が眠っていたなど思いもよらない。それが地面をひっくり返して起き上がったのだから、元々手入れも何もなかった庭はもう滅茶苦茶。屋根にも泥がかぶって、雨でも降ったら大変な事だから、この数日ゲンマは泥かきに追われていた。
「しかしどうも奇妙だぜ……」
確かに
イヨは朝からたかひひるの展翅をするのだと張り切っていた。誰も見た事のない稀な妖蝶。この世に標本は一つも出回っていないだろう。という事は、かなりの値がつくはずだ。ゲンマはその筋に早速連絡を入れて、既に買い手を募っていた。金は無論大事だが、それ以上に情報通の虫屋連中に期待している。胸中は今にもたかひひるを捕まえに出かけたい気持ちで破裂せんばかりだ。しかしどこにいるのか判らんのでは動けん。その時に備え、ともかく今は待つ。虫屋には忍耐も必要なのだ。
そうこうするうちに屋根の泥も落とし終わり、腹も減ってきた。兄の腹具合を読んだように、イヨが縁側から顔を出して呼ぶ。おう、と手を上げて応え下りてゆく。
「うずちゃんはどこへ行ったのかしら」
小首をかしげるイヨはこの数日で、うずまき様からうずちゃん扱いになっている。まぁ猫や犬みたいなもんだから丁度良い呼び名だ。ゲンマは肩を竦めて。
「さてな。そこらで昼寝でもしているんだろう。飯抜きだ」
「まあ、そう言う訳にはまいりません。可哀想だもの」
うずちゃーん、うずちゃーんと呼びかけるイヨは、すっかり元気を取り戻している。兄としては一度きちんと医者に見せたいところだが、狐に言わせれば
「こら、こいつ! 何を勝手に人様の家を荒らしまわっていやがるんだ!」
「ここをわがはいの秘密基地にするぞな!
短い手をぱんぱん叩きながら、螺旋狐……ええい、こんな奴はうずまきで十分! が、偉そうに指すのは古びた標本箱である。標本箱と言うのは、
「まったくずぼらな
「げっ」
狐の言う事にカチンと来たのも一瞬、箱を覗き込んだゲンマとイヨが絶句するのは、その惨状。もともと蝶の並んでいたと思しき箱の中には、茶色い粉が翅の影の形に残っているばかり。チャタテムシやらカツオブシムシやらの害虫に食い荒らされた残骸である。こうならないように、標本箱に入れる防虫剤はマメに交換せねばならないのだが、今年こそは手入れをしようしようと先延ばしにしているうちにやられてしまった。「ありゃりゃ……」向うの箱を取り上げて、イヨが目をぎゅっと瞑っているのは、目も当てられない惨状と言ったところだろう。どうもあっちも駄目そうだ。こうなると立派なラベルも虚しいだけである。
「この辺の蝶はもう全部ダメぞな。甲虫の類は肉を除去し磨いた後、元通り接着すれば復活できそうなものも多い。こっちの三角紙に包まれたままの蝶は案外平気そうぞ。どうせ二束三文だし、展翅するのも手間だから、店にきた客におまけにやると喜ばれるぞな!」
偉そうに指図する狐に、兄妹はしゅんとして頷いている。こうなってしまったら、押し入れはうずまきに占領されても文句は言えまい。おっと、もうお昼休みぞな。呟く狐は短い手を振り上げ。
「腹が減っては戦ができぬ! 飯にするぞなーっ!!」
「お、お~……っ」
控えめに拳を突き出すイヨは、すっかりうずまきの調子に呑まれている。こうして螺旋狐はあっと言う間に
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