☆KAC20243☆ シンデレラの靴

彩霞

前編

 タタン、タタン。タタン、タタン。


『次は終点、仙台、仙台です。

 The next station is Sendai terminal.Please change here for the……』


 ——うーっ、眠い……。


 朝の通勤電車の中、瑛理えりはつり革をつかみ、アナウンスを聞きながら眠気にえていた。

 四月も下旬に入って春真っ盛りの今、気温も湿度も丁度良く、寝るのにはうってつけである。


 そして、春は人々の心を浮足うきあし立たせる。

 柔らかな日差しと、ふんわりとした暖かな空気が、どこか気持ちをゆるませるからだ。


 しかし今の瑛理には、春の癒しの空気はまるで効果がない。


 今年度から新入社員の教育係として「アドバイザー」に任命されたために、その重責で鬱屈うっくつとしていたのである。周囲は「期待している」と言うが、入って五年目の自分が、新人の面倒を見るのは気が重く、春なのに気持ちがどんよりとしていた。


「……」

 

 瑛理が担当している新人は、伊藤拓海たくみという名の大卒の青年。

 上背うわぜいがあり見目が爽やかで、挨拶もちゃんとする。そのため最初は、ベテラン女性陣やパートのおばさまにとても受けがよかったし、後輩気質のせいなのか、兄貴ぶりたい男性陣にもかまわれていた。


 営業職なので、好感が持てるのは重要である。

 しかし、それは中身をともなっていたらの話だ。


 瑛理は吊り革に体重を乗せると、目をつむり、昨日伊藤がやらかしたことを思い出して、ひっそりとため息をついた。


 ——まさか「伝票をきって」って言ったら、伝票そのものをハサミで切るとは思わなかった……。


 伊藤は在学中、スマホでレポートも論文も書いていたというので、キーボード入力がとても遅い。「Word」と「Excel」を知っている前提で話すと、「すみません、分かりません」となる。


 百歩ゆずってそれは仕方ないにしても、「伝票きって」という言葉が伝わらないとは思わず、ひたいに手を当てた。頭が痛い。


 そしてこの状況が自分以外のアドバイザーが同じならば、まだ許せる。

 しかし、同じように「アドバイザー」になった先輩たちは、口々に「新人の呑み込みが早くて助かる」と言う。


 さらに人手不足の昨今、伊藤でもいないよりマシと思われているため、次から次へと仕事が回され、彼が予定に間に合わせられなかったものは、全て瑛理に回ってくる始末だ。瑛理は益々ますます、貧乏くじを引いたような気分になっていた。


「次は終点、仙台、仙台です。

 The next station is Sendai terminal.Please change here for the Tohoku Shinkansen……」


 車内アナウンスが流れ、電車が少しずつ速度を落としていく。体が進行方向に向かって動くので、隣に迷惑を掛けないようにハイヒールをいた足に力を入れると、カクっと踵にかかった力が逃げ、転びそうになる。

 慌ててつり革をつかむ手に力を入れ、ぐっとこらえると何とか事なきを得た。


 ——あっぶな!


 内心ひやっとしたので、危機を逃れた途端嫌な汗をかく。朝からろくなことがない。

 だが、問題はそれだけではなかった。


 ——ヒール、壊れていないよね……?


 さっきの感じからしてハイヒールのかかとが折れていないとも限らない。彼女は足元に視線を落としたが、満員電車なのでよく見えなかった。


「仙台駅、仙台駅です。降りる際は足元にお気をつけの上、お忘れ物をなさいませんよう、お気をつけください」


 電車が止まり、ドアが開くと一斉いっせいに人が出て行く。

 瑛理もその流れに乗って、駅に降り立つも、どんどん後ろから来る人たちに押され、靴を見ているひまがない。


 仕方なく階段を上っていたときだった。右足の黒いハイヒールが脱げてしまったのである。


「あっ!」


 瑛理はとっさに振り向いたが、後ろから来たサラリーマンのおじさんにむっとした顔をされてしまった。「止まるな」と言いたいのだろう。

 安全を考えたらその通りなので、瑛理はその状態のまま階段を上り切る。


 しかし、それでも人は後からどんどんやってくるため、しばらく邪魔にならないようにけているしかなかった。


 ようやく人がけたころ、瑛理は階段の下をのぞき見る。すると、脱げたハイヒールが一番下にぽつりと置かれていた。


 瑛理は小さくため息をつくと、一歩足を踏み出す。とても歩きづらい。片足しかハイヒールを履いていないので、当然だろう。

 だが、落ちたハイヒールを取りに行くには、この状態で階段の下に向かうしかないのだから、仕方がない。


 一段、また一段。

 足の裏に感じるのは、ひやりとするコンクリートだ。何てことないはずのことだが、気持ちに余裕がなく、体も休めていないために、だんだん自分がみじめさが際立ってくるかのようだ。


「……」


 その気持ちに気づかぬ振りをしながら、ようやく下にたどり着くと、可哀かわいそうなハイヒールを手に取る。そしてかかとを立たせると、右足を入れた。


 ——よかった。


 ほっとしたのもつかの間、階段をいくつか上ったところで、足首にかかった力がカクンと抜けてしまう。


 ——わっ!


 心の中で驚きの声を出しつつ、どうなったのだろうと右側のハイヒールを見て見ると、ヒールが本体からはずれてしまっていた。


 ——うわー、やっぱりか。ついてないなぁ……。


 瑛理はほんの少しの間立ち尽くしていたが、すぐに我に返り大きくため息をつくと、右足のハイヒールを手に持ち、重々しく歩き出す。


 ——コンビニに瞬間接着剤売ってたっけ? あったらそれでくっつけて一日乗り切るしかないな。そして仕事が終わったらお店に行って、ハイヒールを買って……って、何時に帰れるか分からないか。今日は水曜日だから、接着剤で付けた状態で明後日まで持つかどうか……。


「あの、すみません」


 瑛理が悶々もんもんと考えていたときだった。

 下から彼女に声を掛ける人物がいたのである。

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