第51話  珠子の家族たち

 正江は竈に火を入れることは出来る、湯を沸かすことは出来る。最近になってようやっと珈琲の分量というものが分かるようになってきた。売店では毎日、瓜のような形をしたパンを売っているため、これを買って珈琲を飲めば何とか腹を膨らませることが出来る。


 マンゴの木にはたわわに実がなっているし、バナナもあるし、パパイヤもある。パンと珈琲と果物があれば、とりあえず食事としては十分だろう。


 洗濯は自分の分だけこっそりと人が居ない時間帯に行なっているのだが、娘夫婦の汚れ物ばかりがうず高く積まれて、最近では着替えるものが何も無くなってしまっているようだった。


 正江が買っておいたパンや果物を娘夫婦は勝手に取って食べているようだけれど、増子も久平もそれぞれの部屋に籠って出てこない。今住んでいる長屋には食事などを行う土間の奥にふた部屋小さな部屋があるのだが、この部屋を正江と、増子夫婦とで使っていた。その二つの部屋を今では夫婦がそれぞれ使っているので、正江は珠子が使っていた猫の子が使うような寝床で寝起きするようになっている。


 娘夫婦が働かないとしても、正江は一人ででも珈琲畑に出て働くようにしていた。もう、誰も正江に話しかけて来る者はいないし、

「娘に暴力を振るう鬼婆のような母親」

「鬼畜」

「人でなしには関わるな」

 という小さな声だけが聞こえてくる。


 これもまた、奥多摩の時と全く同じ現象であり、一度は体験していたことだった。家の中のことは家族で解決するべきことという暗黙の了解のもと、正江や増子の暴力は許されたが、それが明るみとなった時の周囲の反応は、いつでもこちらの想像以上に冷ややかだ。


 人間失格という烙印を押されて仲間外れにされるのは、奥多摩もブラジルも同じことだ。本当は珠子を取り返したかったけれど、松蔵が目を光らせているので無理だ。大事な大事な娘だったけれど取り返せないのなら、後は自分でやっていくより他はない。


 契約という形でこの農場に縛り付けられている限り、嫌でも珈琲畑で働かなければならない。幸いにも今は農閑期のため、娘夫婦が居なくても何とか珈琲の木の世話は出来る。そうして十日ほども日にちが経つと、杖をついた徳三が息子の九郎に支えられるようにして正江の家までやって来たのだった。


「徳三さん」

 出入り口で徳三の姿を見上げた正江は、遂に観念しきってその場に座り込み、額を地面に押し付けるようにして頭を下げた。


「増子の命だけは・・命だけはお助けください」

「命・・命ねえ・・」


 徳三が椅子に座って左膝の上に自分の右足の踵を乗せていると、部屋の奥に進んで行った九郎と暴れ回る久平の声が聞こえてくる。それもすぐに静かになると、手足を縛り上げられた久平を九郎が土間の上に投げ出した。


 そうして九郎はもう一つの部屋へと向かうと、今度はバナナを抱えた状態の増子の首根っこを掴んで連れて来る。そうして増子の目と鼻の先に、腰にさしていたダンビラを地中深くにグサーッと差し込むと、二人のすぐ近くに椅子を置いて跨ぐようにして腰を掛けた。


「ここに配耕となった時に説明があったとは思うが、我々はここまで来る船賃の一部を農場主に支援いただいた形で、珈琲農園で働くことになった。ここで三年間働くのは契約で決まったことであり、よっぽどの病気などでない限り、農場での労働は絶対だ」


 徳三は膝の上に置いた自分の足首をパチンパチンと叩きながら言い出した。

「そのよっぽどの理由でもなく、己の怠惰のためだけに農場での労働をサボってきたお前らだが、何か言い分があったら今すぐ言ってみろ。この後の処分に情状酌量の余地があるかどうかを考えてやるから」


 パッと顔を上げた増子が弾けるように言い出した。

「全部!全部!全部!珠子が悪いのよ!珠子が勝手に出て行ったから悪いの!私たちがきちんと働けないのは珠子の所為よ!だから!珠子を今すぐここに連れて来て折檻でもして頂戴よ!」


 すると立ち上がった九郎が増子の髪の毛を鷲掴みにして、何度も、何度も、彼女の頬を殴りつける。そのうち増子の鼻から真っ赤な血が溢れ出して、

「ひゃああああ!やめて!やめて!やめて!」

 増子は気が狂ったように叫び出したのだった。


 ようやっと九郎が殴りつけるのをやめると、増子は自分の身を守るために丸くなってその場に転がった。


「一応、言っておくがね、お前は姉の立場を利用して、何度も何度も、気に食わないことがあると妹の珠子を殴りつけていた。その分を今、九郎がやり返した形になるのだが、全部をやり返すにはまだ足りない」


 徳三がそう言うと、増子から離れた九郎は久平の背中を踏みつける。そうして、地面から抜いたダンビラを彼の鼻先へと突きつけた。


「よその農場じゃ、自分の姪だとか義妹だとかに手をだす腐れ野郎がいるんだっていう話を聞いたが、久平、お前もその腐れ野郎だったみたいだな」

 徳三はそう言ってため息を吐き出すと、

「九郎、そいつの大事なイチモツをそのダンビラで切断してやれ」

 と、恐ろしいことを言い出した。


 九郎は何も言わず、ただ徳三の命令を忠実に守るようだ。転がり暴れる久平のズボンを引き摺り下ろそうとする九郎の姿を見て、慌てて飛び上がった正江が徳三の足に縋りつきながら言い出した。


「徳三さん!待ってください!本当に待ってください!それだけは!それだけはダメ!増子が子供を産めなくなる!」

「はあああ?」

「今の増子じゃ誰も嫁になんて貰いたがらない!だったら、久平さんと世帯を持ち続けて、子供でも作っていくしかないじゃないですか!」


 自分の足に縋り付く正江を見下ろしながら、あんぐりと口を開けた徳三は、天井を見上げながら大きな声で笑い出した。


「あーっはっはっはっ、まさか!ここに来て孫か!自分の孫が見たいってか!正江さん、あんたは本当に変わっているなあ!」

 ひとしきり大笑いをした徳三は、目尻に溜まった涙を指先で拭いながら言い出した。


「正江さん、俺はあんたにゃ同情をしていたんだよ。辰三兄さんがとち狂ってブラジルに行くだなんて言わなければ、規模を小さくしたとしてもあんたは米問屋の御寮人さんでいられたわけだ。そんなあんたが兄さんにほだされる形で、こんな辺鄙なところまで来ちまった」


 徳三は目尻に皺を刻みながら、憐れみを含んだ眼差しで正江を見つめた。


「久平も増子も、兄さんに選択権を与えられて、日本に残るか、ブラジルに渡るか、それぞれが選択をした上でここまで来ているが、あんただけは、ブラジルに渡る道しかなかったんだもんなぁ」


 徳三は大きなため息を吐き出した。


「働かざるもの食うべからずって言ってね。よっぽど使い道がねえのなら増子は近くの駅町にある娼館にでも売っぱらって、久平は殺して埋めようと考えていたんだが、あんたの顔を今は立ててやるとするか」


 久平のズボンを半分ほど下ろしていた九郎は徳三の方を振り返ると、一つ頷いて、掴んでいたダンビラを腰の鞘に戻した。


「正江さん、あんたは今から俺が言う家に後妻として入ることになる」

 正江は正座で座り込みながら徳三を見上げた。

「あんたたち親子は一緒に居ても互いに依存しあって碌なことが無い。ここは子離れ、親離れをして新しい道を進む形にして欲しい」

「わかりました」


「それから、そこのアホの夫婦。お前らは正江さんに免じて今は見逃してやる。正江さんは早く孫の姿が見たいんだとよ。ここで一念発起して一人前の夫婦となれるのならそれでよし。無理だと判断したら久平、お前は土の中、増子、お前は娼館に連れていく。ブラジル人相手に何人も朝から晩まで相手にしたくなければ、キリキリ働けよ?」


 尻を丸出しのまま久平はその場でおんおんと泣き出し、増子は土間の上に転がったままヒイヒイと泣き声をあげている。


「それからお前ら三人に言っておく。今後、一切、珠子には近づくな。もしも近づくようであれば、娼館なんて温情はかけねえ、俺が首を掻っ切りに行くからな」

「「「わかりました」」」


 やると言ったら徳三はやる。それは辰三の妻だった正江は十分過ぎるほど理解していることだった。


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