第12話 名前

朝、教室に入ると、すぐに愛梨が近付いて来て、わたしを女子トイレに連れて行った。


「ねぇ、どうだった?」

「どうって? それに何でトイレ?」

「だって風早くんついて来るから」


風早司は『他に知り合いがいないから』と言って、いつも愛梨とわたしと一緒に行動する。


「映画見て、ご飯食べて、帰ったよ」

「それだけ? 映画館の中で手をつながれた、とかないの?」

「ないよ。それに、恭一さん途中で寝ちゃったし」

「それ絶対ダメなやつじゃん!」

「でも、ずっと忙しくてあんまり寝てないって聞いてたから」

「ふーん」

「何?」

「苗字から名前呼びになってる」


名前のことを愛梨に指摘されて恥ずかしくなってしまった。


「映画の途中で寝られてムカついたりしなかったの?」

「一緒にいられただけで十分」

「何なの、その健気さ! わたしだったら、グーパンチだけど!」

「本当にそんなことはしないでしょ?」

「するって!」

「あと、ショッピングモールの中を歩いてる時、いっぱい花の名前を教えてもらった。いろんなところに飾ってある花の名前」


アンスリウムという名前を教えてもらった。

よく目にする花だったけれど、名前を知るのは初めてだった。


「それ、楽しいの?」

「楽しい。少しだけでも近付けたみたいで」

「ごめん、美雪の『楽しい』が全然わかんない」




映画の途中で、恭一さんが寝てしまったことに気がついた。

美術館の作品展は、他の流派の人も作品を展示するから気を抜けないと聞いていた。毎日のように、そのことばかり考えてるとも言っていた。

小さな花器にいけるような作品じゃないから、その分大変みたいだった。

それでも、時間を作ってくれた。

だから、途中で寝てしまったことに、恭一さんが自分を責めたりしないように、わたしも寝たふりをした。

映画が終わった後、ふたりで『気がついたら寝てたね』って言えた。


ご飯を食べる前に本屋へ寄ったら、『若き次期家元候補たち』というタイトルで、雑誌の表紙に他の流派の人達と一緒に自分の写真が出ているのを見つけて、恭一さんは


「こんな記事いつの間に……」


と言って驚いていた。

雑誌を手に取って見ている恭一さんに、近くにいた女の人が気がついて、声をかけてきた。風早流のいけばな教室に通っている、という話をしているようだったので、そばから少し離れた。


こういうのを見ると、やっぱり自分とは世界が違う人だと思い知らされる。


恭一さんと一緒にいると、その言葉のひとつひとつが、ゆっくりと心に積もっていって、どんどんいっぱいになっていく。

なんでもない一言も、まるで全てに意味があるみたいで嬉しくなる。




家に帰ると、父が『長嶺商事から新規で契約したいって話がきた』と、嬉しそうに話してくれた。父が仕事の話を家でするのはめずらしい。よっぽど嬉しかったんだ。


だから、きっと、これでいいんだ。



愛梨に本当のことは言っていない。


話したのは、わたしが、恭一さんを好きなことだけ。


わたしの気持ちに嘘はないけれど、恭一さんのことを思うと、胸の中の痛みは増していく。

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