マジナイ
鹿ノ杜
第1話
それは春時雨が降る季節のことでございました。
呼び鈴がわりについているベルが鳴るとともに扉が開きました。扉のすき間から光の漏れ入るのがわかります。店に現れたのは一人の娘でした。マドレーヌさまがカウンターの奥から姿を見せると、娘は驚いたようでした。そう、マドレーヌさまは誰もが振り返るほどの美しい見目をお持ちでしたから、それは当然のことかもしれません。
「いらっしゃい」マドレーヌさまはカウンターごしに言いました。「あんたのような客は珍しい」
娘は一歩進み、それでもまだ迷っているように店を見渡しました。壁に並べられた大小さまざまな人形が娘をながめていました。彼女はそうとも知らず、感嘆と畏怖がまざりあったようなざらついた視線を人形たちに向けました(そのうちのひとつであるところのわたくしとも目が合いました)。
やがてマドレーヌさまに視線を戻すと、
「ここでは……髪を買ってくれると聞きました」
と、はじめて口を開きました。
娘は、ずいぶんと着込んだ装いでした。癖なのか、腕をからだの前で交差させて下ろし、マドレーヌさまをうかがっています。なるほど、容貌こそ特筆すべきものは見当たりませんが、彼女の腰まで緩やかに巻かれたその髪は、それは一面の麦を思わせるようで、薄暗い店内のわずかな光を健気に集めたのち、はつらつと輝いておりました。
「ああ」マドレーヌさまは微笑みながらこたえます。「こんなもんでどうだい……」
紙に書きつけられた数字に目を落とし、娘は弱々しくうなずきました。
「お金のために髪を売るなんて、なんという生活なんでしょう」
「そうかな」
マドレーヌさまは首をかしげました。
「昨日うちに来た客は、子をなくしたばかりの夫婦だった。大粒の涙を流しながら、このうちの一人を」そう言いながらわたくしに視線を送ります。「言い値で買っていった。なにが幸福か。人生は、人の運命は、シーソーのようなものさ。あるときはこちらに傾き……」
マドレーヌさまは再び首をかしげました。
「あるときはまた別の向きに傾く」
首をかしげたまま娘を見すえました。
「ねえ、恥じることは、ひとつもないよ……おなかの子ども、大事にしなよ」
娘ははっとして目を見開いたのち、静かにうなずきました。顔に生気が戻ったようにも見えました。
娘が店を去ったあとで、わたくしは言いました。
「マドレーヌさまはお優しいですね」
「優しいもんか」マドレーヌさまは笑ってこたえました。「あれもひとつのマジナイさ」
「そうなのですか」
「髪を切る瞬間、その瞬間に持ち主の、『ヒト』の魂がほんの少し、髪に残る。髪の美しさには感情が宿るから……そういったものは、好事家が高く買うのさ」
マドレーヌさまは店内のロウソクをひとつひとつ、つけてまわりました。もう陽の傾く頃のようです。
わたくしはもう少し、マドレーヌさまとのおしゃべりに興じていたかったのですが、そのとき、呼び鈴も鳴らずに扉が開きました。
マジナイ 鹿ノ杜 @shikanomori
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