枯れ尾花を描く

黒本聖南

土星

 ──黒崎くろさきには姉がいた。血の繋がらない姉がいた。

 ──三年前に彼女は突如帰らぬ人となり、黒崎は形見として、義姉が好んで身に付けていた赤銅色の土星のネックレスを渡されて、基本的には肌身離さず首からさげている。


 黒崎がネックレスを外すのは、風呂の時以外では、仕事をする直前だけだ。


 人も疎らな平日午前十時の電車の中、黒崎は座席の端っこに座り、外したネックレスを顔の前で揺らしていた。左右に一定の間隔で揺れる土星を、彼は真顔で見つめている。

 黒崎の脳裏には、義姉の笑顔があった。土星のように丸みを帯び、いつも頬が淡く色付いて、見ているだけで安心するような、温かみのある彼女の笑み。今や失われた愛しき表情を思い浮かべながら、黒崎は何度も同じ言葉を呟いた。


「ぼやける、ぼやける、ぼやける、ぼやける」


 呟くたびに、黒崎が頭の中に思い浮かべている義姉の笑顔が色濃くなっていき、黒崎の頬は徐々に緩んでいく。身に纏う黒いパーカーのフードを目深に被っているので、黒崎の表情は遠くからではよく見えないが、機嫌が良さそうなのは雰囲気で分かるだろう。

 疎らとはいえ黒崎以外の乗客は数人いて、ぶつぶつと何かを呟く黒崎に時折怪訝な視線を向けているが、黒崎本人は全く気にしていない。むしろ、義姉との仮初めの逢瀬を邪魔しないでくれとすら思っていたが──黒崎に声を掛ける者がいた。


「それ、毎度やるんですか?」


 声の主は、黒崎の真横に座っている学ランの少年。ほんのり不機嫌そうな顔をして、黒崎のことを見ていた。

 クリーム色の大きなショルダーバッグを肩からさげ、伸びた黒髪をゴムで縛ったその頭は、可愛らしい雀の尻尾を思わせる。少し大人びた中学生か、幼さの残る高校生にも見えるが、たとえどちらだとしても、平日の午前中に学生が出歩いているのはいやに目を引く。場合によっては、学校はどうしたのかと誰かしらに声を掛けられそうだが、少年がそんな心配をしている様子は微塵もなかった。

 黒崎は緩んだ顔のまま少年の言葉に頷き、ネックレスを揺らすのをやめて首に付け直す。


「もちろんだよ、富樫とがしくん。これやんないと、くっきりはっきり視えちゃうからさ、嫌なんだよね」

「感度が良いんですね」


 富樫と呼ばれた少年はそれだけ言うと、黒崎から視線を逸らす。話はこれで終わり、少年はそのつもりなのかもしれないが、黒崎の方から話を続けた。


「めっちゃ良いの! 良すぎるくらいだよ富樫くん! ぶっちゃけ、相手におかしな所がなければ区別がつかないくらい! うっかり普通に会話しちゃって、変な目で見られたりとか、ヤバイ人認定されたりとか、これまで何度あったか!」


 ははははははと自棄になって笑う黒崎に、富樫は一言たりとも返事をしてくれない。ちぇっ、などと呟いて、黒崎は腹ポケットから取り出したサングラスを目元に掛けた。


「ちなみにこのサングラスはね──ねえさんからもらったんだ。まだ土星の自己暗示してない頃にね、これで少しでも視えにくくなるといいねって、自分のお小遣いを貯めて買ってくれたの。ガキの頃はへの対処法なんて知らなくて、下手こいて同い年の奴らから仲間はずれにされては泣いて帰ってきたもんだから、ねえさんなりに色々考えてくれたんだろうね。成長するごとに新しいの買ってくれて、本当にねえさんは」

「おねえさん、いたんですね」

「──いたよ」


 打って変わって黒崎の声が静かなものになったせいか、一瞬、富樫の目が黒崎に向けられる。


「──優しくて可愛くてよく気の利く最高の女性だった!」


 すぐにそれまでの調子に戻ったから、富樫の目は再び背けられた。それでも黒崎の惚気は続く。


「オレより三歳上だったんだけど頭一つ分小さくてね、オレっていう弟が可愛くて可愛くて仕方ないのか、オレの前だと一人称がおねえちゃんになって、何かにつけて胸を張っていたんだよ。……他の人に比べると、その……どこが、とは敢えて言わないけれど、大きい所があってさ、目のやり場に困ったもんだよ」

「ほぼ言ってませんか? そういう話するほど親しくないですよね?」

「変な想像した?」

「したくないので、黙ってください」

「ジェントル!」


 黒崎は黙らなかった。目的の駅に着くまで、ほぼノンストップで義姉について富樫に語り聞かせ、富樫は死んだような顔で虚空を眺めており、目的の駅で扉が開いた瞬間、黒崎を置いて富樫は駆け出した。

 待ってよと黒崎が言っても富樫は止まらない。ショルダーバッグのストラップを両手で強く握り締め、俯きがちに足を動かしている。


「とーがーしーくーんー。オレのこと置いてっていいと思ってるのー?」


 富樫からの返事はなく、彼の足も止まらない。間もなく先に改札を抜けられる。黒崎は富樫の傍に駆け寄って彼の横につくと、そっと自身の唇を富樫の耳に近付けた。


「──仕事なんだから、一緒に頑張らないとー」

「……っ!」


 低く、どことなく甘い声。富樫はびくりと肩を跳ねさせ、黒崎から一歩離れる。そんな富樫に向け微笑みを浮かべると、黒崎は目にも止まらぬ速さで彼の手を取った。


「君が安全にお絵描きする為には、オレがいなくちゃ駄目だもんね」

「……」


 警戒心に満ちた目を富樫から向けられても、黒崎は一切動じない。これから楽しい所へ共に行くのだとばかりに、富樫の手を掴んだまま、弾んだ足取りで改札に向かいだす。


「さあ行こう、いざ行こう! 枯れ尾花を──怪異を描きにね!」

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