たまご焼き1つ

見鳥望/greed green

 休日の朝。気まぐれに早起きをしてしまった僕はなんとなく冷蔵庫を開けてみる。

 くぅっと腹が少し鳴った。正直なやつだ。僕はこいつに起こされたのかもしれない。

 

 残り少ない食パン。かじるならこれか。後はと見渡して目についたのは、パックに残った卵4つ。僕はおもむろに全ての卵を取り出した。

 ぱきゃ、ぱきゃっと小さいボールに卵を割っていく。つるんときらめいた黄身達を菜箸でぐちゃぐちゃにかき混ぜる。あっという間にボールは黄色い海に変わった。

 長方形型のフライパンをコンロに置き火を点ける。温まったのを確認し、多めに油を引いた。


「ふぅ」


 僕は息を吐く。ここからが本番だ。

 かき混ぜた卵液を少しフライパンに注ぐ。じゅわっと音を立てて瞬く間に黄身が固まり始める。それを許さず僕は菜箸でかき混ぜながら焼き上げる。じゅくっととろみを残したまま焼きながら、長方形をなぞるように卵の端にすっと箸を入れる。よしっと少し気合を入れ、卵を手前に折りたたむ。


「ほっ」


 軽快な声とは裏腹に底に剥がれず残った抵抗軍のせいで、たまご焼きははぐちゃりと崩れた。


「あーぁ」


 いつの間にか起きた芽衣がフライパンの惨状を憐れんだ。


「おはよう」


 僕の挨拶に「うっす」と軽く返事した後、当然のように彼女と僕は入れ替わる。


「後は任せい」


 頼もしい言葉と共に、残りの卵液を使って彼女はいつも通り綺麗なたまご焼きに仕上げてしまう。


「お見事」


 パチパチと僕は彼女に拍手を送る。何度見ても不思議だ。誰にでも出来そうに見えるのにいざやってみるといつも上手くいかない。一体何が違うのか全く分からない。彼女にコツを聞いても、「目で見て盗め」というありがたい言葉のみで、僕は彼女の言う通り技をまじまじと見つめる。


 やっぱり分からない。


「いつまで経っても成長しないね君は」

 笑う彼女に僕はてへっとふざけて頭をかく。

 こんな事で彼女は僕を責めない。そして僕は上手くなりたいと思いながらも、所詮たまご焼きと心の底から真剣に技を盗んだ事は一度もなかった。


 ーーいずれやってりゃ上手くなるだろ。

 

 そう思って今日もトライしたが、結果は同じだった。










「良太?」


 無視してくれても良かったのに、夜の道端でばったりとすれ違った芽衣は、律儀にも僕に声を掛けてきた。


「久しぶり」


 こうなっては無視するわけにもいかず、僕は何てことないふうを装って返事する。


「ほんと久しぶりだね」


 まともに正面から顔を見て、やっぱり無視して欲しかったと思った。


「五年ぐらいは経つよね」


 僕と違う人生を歩んだ彼女は、当たり前のように隣にいた頃には見たことのなかった大人の女性としての魅力と、溢れ出る充実感に満ち満ちていた。


「充実してそうだね」


 皮肉っぽく聞こえたらどうしよう。そう思いながらもどこかでそれが伝われと思ってしまった。


「うん、色々と良い感じだよ」


 もうそれ以上聞く必要はなかったし、彼女も何も言わなかった。そして「良太は?」と彼女は聞くこともしなかった。

 逃げ出したい程恥ずかしかった。三年。三年も一緒にいたんだ。僕のさっきのささやかな皮肉が伝わってしまう程に僕達は恋人だった。


「そういえば」


 少し嫌な間を置いてから、彼女がまた口を開いた。


「たまご焼き、上達した?」


 一瞬何を言われたのかと思ったが、僕は正直に答えた。


「いや、全然」

「そっか」


 彼女は小さく笑った。


「じゃあ、元気でね」


 ”またね”とはやはり言わなかったか。そんな事を思いながら僕は「元気で」と一言返した。

 歩いていく彼女と反対の方向へ僕は歩き出した。







 一人暮らしの綺麗でも汚くもない色のない部屋。

 冷蔵庫を開けるとたまごが2つ残っていた。おもむろに掴み、お椀に割って黄身をかき混ぜる。フライパンに油を引き火を点ける。じゅわっと卵液を注ぎ箸でがしゃがしゃとかき混ぜる。そして程よく固まったのを見計らって、さっと手前に卵を折りたたむ。


 やはり卵はぐちゃりと捻じれうまく重ならなかった。

 残りの卵液を乱暴に注ぎぐちゃぐちゃに全てかき混ぜた。たまご焼きになれなかった末路は見るも無残なスクランブルエッグだった。


“たまご焼き、上達した?”


 過ごした時間、重ねた時間は彼女の中にもしっかりと残っていた。


“そっか”


 最後の小さな笑みは、僕にとってあまりにも残酷だった。


“いつまで経っても成長しないね君は”


 たまご焼きに限った話じゃない。僕は何から何まで中途半端だった。やる気だけあるように見せて、結局心底頑張ろうとしてないから何も結果を出せなかった。

 彼女が求める結果は分かっていた。だから僕は本気になるべきだった。

 でも、僕はそうならなかった。


 たまご焼き一つ、僕はいまだにうまく焼けない。

 情けなくて涙が出た。今日の彼女の姿を思い出し、余計に泣けた。

 

 幸せなのだろう。全てが充実してるのだろう。僕とでは決して見れない世界を、彼女は今見ている。そしてきっとこれからも。


 ーー明日また、焼いてみるか。


 世界を変えるには、そんな些細な事からでいいのかもしれない。

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