ふたりの傘つむり

「ダメっ、それはまだ早すぎー!」


「まだ何も言ってないけど!?」


「言わなくても大体分かるわよ。アンタの頭の中で天使と悪魔と桃太郎とビジネスマンが戦って、ビジネスマンが置き去りにされたんでしょ」


「どうしてそこまで分かるの!? 怖すぎるよ!」


 翔太は気を取り直すように咳払いをする。


「僕が言おうとしたのは、頭を撫でてみたいということだよ」


「ふーん。ホントかなぁ」


 藤井は疑いの眼で翔太を見たあと、「頭、頭かぁ……」と悩み始めた。


「……じゃあ、どうぞ」


 覚悟を決めたのか、お辞儀をするように頭を翔太に差し出す。翔太は一気に緊張した。ぶっちゃけテキトーに言っただけなのに、本当に藤井の頭を撫でることになってしまったから。手の震えが藤井にバレないように必死に抑えながら、彼女の頭に触れる。


「ん」


 藤井が微かに声を漏らすが、翔太はそのまま彼女の頭を撫で始める。藤井の黒い髪はツヤツヤで綺麗だ。それに、手のひらで頭の形や硬さを感じられることがとても愛おしく思える。一生撫で続けても飽きないような気さえした。


「……まだ?」


 翔太の撫で撫でがあまりにも長いので、藤井はとうとう音を上げた。彼女が今どんな表情なのかは分からない。


「あっ、ごめん」


 正直あと一時間くらいは撫でていたかったが、仕方がないので手を離す。藤井が頭を上げると、顔がまた赤くなっていた。頭を撫でられただけなのに、呼吸も少し乱れている。深呼吸をして息を整えると、照れくさそうに微笑んだ。


「私たち、なんだか凄いことしてるね」


 その一言で翔太の胸も高鳴った。大したことはしていないはずなのに、イケナイことをしているような気分になる。


「そ、そうだな」


「あの二人には見せられないね」


「あ、ああ……」


「思い切って、手も繋いでみる?」


「いや、それはさすがに恥ずかしい……」


 翔太はヘタレた。これ以上接触したら、心のキャパシティーをオーバーしてしまう。


「うん、私も無理かも」


「じゃあ言うな」


「あははは」


 それから二人はしばらくの間黙った。傘のドームの裏側を眺めながら、ポツポツという雨音に耳を澄ませる。心地良い沈黙だ。いつまで続いても悪くないと思えるほどに。


 そんな優しい空気に身を委ねながら、翔太がぽつりと呟いた。


「ねぇ」


「うん?」


「結局、僕のことはいつから好きになったんだ?」


「うーん……。そ、それも恥ずかしくて言えないよ」


「えぇー、いいじゃん」


 藤井は少し迷ったが、自分に言い聞かせるように語り始めた。


「そうだねぇ……。余計なことは考えないで、ただ一緒に時間を過ごして、『楽しいね』って笑い合う。私にとって『好きになる』って、ただそれだけのことだったみたい」


 好きになってくれなくてもいいから、ただ藤井を笑顔にしたい。かつての翔太の決意は、結果的には大正解だったようだ。翔太は何も言わずに話の続きを待ち、藤井はそれを察した。


「じゃあ、いつ好きになったのかは、いつか教えてあげるかもしれないから、それまでずっと私のことを考えていて。アンタの空っぽの頭を、私でいっぱいにして」


「……分かった。ずっと考えているよ、藤井のこと」


「うん」


 藤井は満足気な笑みを浮かべて頷く。


「ねえ、山田も私が初めての恋なんでしょ?」


「うん、まあ……」


「お互い、最初で最後の恋にしようね」


「藤井、すげー恥ずかしいこと言ってるぞ」


 宇田川がラブラブ裁判のときに言っていたことのマネである。ファーストラブにしてファイナルラブ。


「今まではアンタが散々恥ずかしいこと言ってきたんだから、攻守交代だよ」


「野球かよ」


「少しは私の気持ち分かった?」


「うん、分かったよ。こんなに恥ずかしかったんだな」


 藤井が本当に翔太のことを好きになったんだということが、彼にもよく分かった。


「それに好きになってからは、山田と会ってるときはずっとドキドキしっぱなしなんだからね」


「やれやれ。そんなんじゃ、先が思いやられるな」


「えっ、どういうこと?」


「だってそのドキドキは、これから先死ぬまでずっと続いていくんだよ? 身が持たないかもね」


 翔太がけろりと言ってのけると、藤井はわなわなと体を震わせて声を上げた。


「私たちまだ小学生だよ! 結婚の話なんて早すぎー!」


「そんなこと言ってないけど!?」


「そう言ってるようなもんでしょうがー!」


「ん? てことは、藤井は僕と結婚してくれないのか?」


「え?」


「これから他の男が現れる可能性もあるってことですか。さすがモテる女は言うことが違いますなぁ」


 翔太はがっくりと肩を落とし、しょぼくれた。藤井はどうしたらいいのか分からず、ヤケクソになる。


「あーもう、分かったわよ! 結婚してあげるから元気出しなさい!」


「わーい!」


 無邪気に喜ぶ翔太。藤井は「ここまで言わせたからには、絶対別れないから覚悟しておけよ」と思いながら睨み付けるのであった。


「そうだ。それなら、こんなのはどうだ?」


 そう言って翔太は藤井のランドセルから、クリスマス会でプレゼント交換したドーナツのキーホルダーを外す。藤井が首を傾げていると、翔太は彼女の左手を取り、ドーナツの部分を薬指にはめた。まるで婚約指輪のように。


「あ……」


「思い出したけど、最初で最後の恋にしようって先に言い出したのは藤井じゃん」


「うん……」


 藤井はまた騒ぎ出すだろうと思っていたのだが、騒ぐどころか顔を真っ赤にして黙り込んでしまった。それからしばらくドーナツの指輪を見つめたあと、恥ずかしそうに口を開いた。


「ねぇ、やっぱり手、繋いでみたい……」


「えっ」


「ダメ……?」


 切なげな瞳でおねだりする藤井。翔太の心臓が早鐘を打つが、なんとかそれに耐える。そして何も言わずに、彼女の柔らかな右手をぎゅっと握った。


 二つの傘によって作られたドームの下から、二人の足だけが外に出ている。中では二人だけの秘密のやり取りが行われている。通りすがりのカタツムリが殻から頭を覗かせ、その様子をじっと眺めていた。カタツムリの目は明るさを感じる程度にしか見えないが、それでも目の前にある巨大な殻のようなものから、特別な何かを感じ取ったのかもしれない。



 その晩、藤井家の食事時のこと。帰宅した父親が藤井の様子に気付き、声をかけた。


「なんだ、結奈。今日はやけに上機嫌じゃないか」


「べっつにー?」


「いやいや、さっきからずっとニマニマしてるぞ」


 父親の言う通り、晩御飯を食べている藤井は、幸せを隠しきれないという顔をしていた。


「友達と仲良くなっただけっ」


 藤井はそう言ってクシャっと笑う。母親もそんな彼女を見て微笑んだ。


「あーら、あらあらあらあら」


 結局その日、彼女のニマニマはお風呂に入っている間ですら止まることはなかった。


 お風呂から出て自分の部屋に戻ると、机の上に置いてある本が目に留まった。それは、藤井が恋愛話で「本に書いてあったわよ」とよく言っていた恋愛マニュアル本だ。夏休みの始めに翔太と図書館で会った日、他の本のついでに借りていた本。三バカに告白されたことがきっかけ借りてみたのだが、読み物として面白く、全部読んで返却したあとわざわざ本屋で買ってしまったのだ。


 第一章のタイトルは「初恋のはじめかた」。ベタな恋愛ドラマや少女漫画でよくある話ばかりが書かれており、何かの役に立つことはなかった。けど、嫌いでもなかった。クロには「もう捨てろよ」と言われてしまったが。


 藤井は思った。


 確かに、私にはもう必要ないものなのかもしれない。私は初恋を始めることができたから――。


 だが藤井はその本を捨てないことにした。学習机の一番下の大きい引き出しを開け、一番奥にある幼稚園の卒園アルバムの手前に入れた。それからまたその手前に、先日配られたばかりの卒業アルバムも大切に仕舞った。中学や高校の卒業アルバムもここに足していくつもりだ。


 私の第一章もこれで終わり。これから先どうなるかなんて正直分からない。でもいつかここで三バカと卒業アルバムを見返すようなことがあったら、この「初恋のはじめかた」も一緒に見せてあげていいかもしれない。あいつらは大笑いするだろう。そんな楽しい未来が来るまで、この本とはしばらくさようなら。


 藤井は引き出しを閉める。夜の静寂の中、その音は何かの区切りのように、妙にはっきりと響いたのであった。

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