私の気持ち

 翌朝、藤井が教室に入って翔太の席の方を見てみると、三バカが集まって話をしていた。いつも通りの光景で、翔太とクロの雰囲気が悪くなっているようにも見えない。藤井はとりあえず自分の席に着いた。


 昨日の件はやはり大したことではなかったのかもしれない。いきなり見せつけられたので、気が動転してしまっただけだ。一人で焦ってバカみたい。と、藤井は自分に言い聞かせる。


 一時間目が終わったあと、翔太が廊下の水道で水を飲んでいたので、声をかけてみた。


「山田」


「おお、藤井か」


「次の授業なんだけど――」


 そう言いかけたところで、藤井の後方、隣のクラスの教室から宇田川が出てきて、翔太がそちらに目をやった。


「あっ、ウダちゃんだ」


「ちょっと、山田!」


「え、何?」


 いきなり注意され翔太は驚いているが、びっくりしたのは藤井も同じだ。


「なに気安くちゃん付けで呼んでるの!」


「なんで藤井が怒るの!?」


 翔太はわけが分からず混乱している。


「女の子なんだから、ちゃんと宇田川さんって呼びなさい」


「でも藤井のことなんか、藤井って呼び捨てにしてるし」


「私はいいの!」


「はい……」


 理不尽に怒られてしゅんとする翔太。宇田川は藤井のただならぬ闘気を察知し、近づいて来なかった。


 やはりまだ油断はできない。何もしなければ、翔太は今日も宇田川と帰ってしまうかもしれない。藤井は悶々とした一日を過ごすのであった。


 そして放課後、藤井は意を決して翔太の席まで行った。


「ねぇ、一緒に帰ろうよ」


 なるべく他の人に聞こえないように小さな声で話しかける。


「お、おう……」


 翔太はまたしても驚かされることになったが、そのまま藤井と一緒に教室を出た。近くにいた一部のクラスメイトだけが、二人の後ろ姿を興味深そうに目で追っていた。


 廊下を歩き、階段を下りて、下駄箱で一緒に靴を履き替える。ただそれだけのことでも、心臓のリズムが速くなっていくのを感じる。今までもなんやかんやで三バカとは仲良くしてきたし、休日に二人で出掛けたこともあったが、これはちょっと一線を越えたというか、自分が大それたことをしている気がしてきた。周りに他の人もいるのに、二人で一緒に下校するなんて。


 校門から出て右に曲がる。二人で帰るといっても、一緒にいられる距離はそこまで長くない。一体何を話せばいいのか今更になって悩む。


 結局他愛のない世間話しかできなかった。テレビの話とか漫画の話とか。雰囲気もどこかぎこちない。それでも翔太と並んで一緒に帰るというのは、翔太の「じゃあね」で一日の学校生活が終わるのは、なかなか悪くないとも思った。


 それからも、とりあえず二人で下校するという日々が何日か続いた。クラスメイトもみんなそのことに気付いていて、二人を生温かい目や応援するような眼差しで密かに見守るようになっていた。


 並んで歩きながら考える。どうして宇田川と一緒に帰っていたのか、尋ねるべきか。否、そんなのはたまたま会っただけだとか、いくらでも誤魔化せる。というより、実際にそうなのかもしれない。


 藤井がもう一度確かめたいのは、翔太の口から聞いてみたいのは、もっと単純なこと。勇気を出して、それを訊いてみることにした。


「ねぇ」


「何?」


「山田って、私のこと好きなんだよね?」


「えっ、どうしたんだよ急に」


「いいから答えて」


「なんか、そう改めて訊かれると照れるな」


 翔太は目を合わさずに言った。曖昧な答えに藤井は首を傾げる。今までは真っ直ぐすぎるくらいに「好き」と言っていたというのに。


 もしかして、はぐらかそうとしている……?


 いや、いきなりこんなこと訊かれたら誰だって困るに決まっている。ということにする。


「ごめん、急に変なこと言って」


 ちょっと困ったような笑顔で謝る藤井。すると、翔太は彼女を真っ直ぐに見て言った。


「好きだよ」


 そうはっきり言葉にしてから、また目を逸らした。顔が真っ赤になっている。もうただバカなだけではなくなったのかもしれない。藤井はそんな彼の表情を見て、優しく微笑んだ。


「そう。安心した」



 次の日も一緒に帰ろうとして藤井が席を立つと、教室の外から怨念のような禍々しい気配を感じた。出入り口の方を見てみる。すると宇田川が、廊下から顔半分だけを出しながら手招きをしていた。ホラー映画みたいで怖いのでやめてほしい。


 仕方がないので、ランドセルを背負って彼女のもとへ行った。


「ウダちゃん、どうしたの」


「お楽しみのところ、ごめんあそばせ」


「何その喋り方!?」


「今日はあたしと帰りましょう」


 ついに彼女の方から宣戦布告するのかと身構えた。しかし、藤井は怯まず正面から受けて立つ。


「分かった」


 翔太には何も言わず、宇田川と一緒に教室を出る。これは修羅場なのかと、クラスメイトの一部がざわついた。


 二人で校内を並んで歩き、校門から出ると宇田川が早速切り出した。


「最近、山田君と一緒に帰っているけど、どうしてなの?」


 回りくどいことは一切しないストレートな問いかけ。いかにも彼女らしい。


「だって私、ウダちゃんと山田が一緒に帰っているところ見ちゃったから。ウダちゃんが無理矢理誘ったとしたら、山田が可哀想だし……」


「それって可哀想なのかな? それに、もしかしたら山田君の方から誘ったのかもしれないよ」


 宇田川はあくまで挑戦的な姿勢だ。だが藤井も負けない。


「えっ、それはないでしょ」


「どうして?」


「だって、山田は私が好きだって言ってたから」


 勝ち誇ったような笑みを見せつけてやった。


「ふーん。まあ本当は、帰りにたまたま山田君を見つけたから、クロ君の話を色々聞いてただけなの」


「えっ……」


 藤井は驚いて息を吞んだ。やっぱり早とちりをしていたようだ。しかし、何てことないという風に強がって見せる。


「ハハハー、まあそんなことだろうと思ってたけどね」


「必死に一緒に帰って私からガードしてたくせに」


「ち、違うから! 折角私が頑張ってるのに他の女子の方に行かれたらイラッとするだけ」


「頑張ってる……?」


「何でもない。それで、そっちは何かいい話聞けたの?」


「ううん。山田君がバカだということしか分からなかったわ」


「えぇ……うちの山田が何かご迷惑を……?」


 なぜか藤井の方が申し訳ない気持ちになってしまう。


「いつからあなたの男になったの」


「うちのクラスって意味よ」


「まあいいけど。山田君ったら、あたしがクロ君の話を聞こうとしてるのに、すぐ結奈の話に持っていこうとするの。どんだけ結奈のこと好きなんだろ」


「なっ……あのバカ……」


 穴があったら入りたいという状況を初めて体感する。藤井はとりあえず聞かなかったことにして話を続けた。


「とにかく、これで明日からは山田と一緒に帰らなくてもいいってわけね」


 宇田川と翔太が怪しい関係ではないということが明らかになり、割って入る必要はなくなった。


「別に、一緒に帰ればいいじゃない。折角なんだから」


「えっ……。そ、それじゃあまるで……私が山田のこと好きみたいじゃない!」


「えぇーっ!!」


 宇田川は声を上げてからゆっくり地面に腰を下ろし、仰向けになって驚いているポーズをした。


「わざわざそんなことしなくていいわよ!」


「なんかこう、すごろくで『振り出しに戻る』のマスに当たった気分だわ。立たせて」


 藤井は呆れながらも、宇田川の手を掴んで立たせてあげた。


「ありがと。ちなみにそっちのクラスにいるあたしのスパイによると、結奈と山田君はもうクラス公認のバカップルみたいに見られているらしいわ」


 顔を真っ赤にしてわなわなと震える藤井。


「カ、カップルはともかく、バカとは何よ、バカとは!」


「そういうところよ」


 宇田川は、これは言うべきかという風に少し考えてから、やがて口を開いた。


「山田君から聞いたけど、結奈はあたしやあの三人とは別の中学になるんでしょ?」


「うん」


「学校が変わっても山田君と会うことはできると思うけど、毎日会えるのは今だけなんだから、気持ちを伝えるなら早い方がいいと思う」


 藤井は何も答えず、アスファルトの地面をじっと見ながら歩いている。宇田川は勇気付けるように藤井の腕に軽く触れた。翔太と一緒に帰っているとき彼に触れたのも、そういうことだったのかもしれない。


「まあ、男子なんかこう……ガッといって、グイッとして、バーンっていけばいいのよ」


「なんか急にテキトーになったね。あとその言葉、そっくりそのままウダちゃんに返すわ」


「いえいえ、お先にどうぞ」


 そんなやり取りをしているうちに分かれ道に着き、宇田川は帰って行った。藤井はくすんだ空を見上げながら独り呟く。


「私の気持ち、か……」


 自分もちゃんとしなきゃいけないのは分かっている。だが藤井の気持ちも、十字路の真ん中で行き場を失くしたかのように立ち尽くしていた。

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